2007年9月17日月曜日

「北京バイオリン」 遅ればせながら観て来ました。
 この映画、話題にもテレビ版ができたりもしているので、映画そのもののできも良かったんだとは思うけれど、テーマになにかあるんだろうなと思っていました。  それはあたり。
 縦糸として、バイオリンの“神がその才能を与えてくれた天才”少年とその父親が通っていて、そこに幾人もの人とストーリーが絡んでくるという構成。
 映像の色合いも背景の感じも、日本でも40年50年位前は(正確には、映画の色合いかな)こんなだったんだろうなと思わせるもの。
 どうゆうテーマを選ぶか、それを伝えるためどのようなストーリー展開をさせるか、テクニックを使うのか、それが監督の人間性だろうし、技量だと思います。
 優れた作品なら一枚のスチール写真にも絵画にも、ストーリーも動きも感じられます。けれど、確かなテーマも技術もないままに、あるワンカットやワンシーンは悪くないんだけど一本の映画としてはねーッ、というものがある中で、個々のシーンも一本の映画としてまとまり、縦糸がはっきりしているからか観ていてわかりやすくもある作品でした。  シェイクスピア作品ほどの驚きや明快さではないけれど、観ている私の気持ちを充分さっぱりさせてくれました。
 こんな話ばかりではわかりませんよね。具体的には。
 経済が大きく発展し始めたころ、でも社会も人の考えも地域的な・時間的なものもそれについていけない人・社会が並存し、混沌状態。価値基準も昔とは違う物ができてくる。
 それが冒頭の、素朴ともいえる地方の情景(ここでも北と南の感情的・経済的なものは描かれていたが)、一転カメラは引いて北京の立派な道路と高層ビル。 その同じ北京でカメラが地上に戻ると昔からの家並み。
 音楽学校の実技で、後ろ盾がないからと5位にさせられてしまう少年。でも「5位でも、入れたかまだ良心があるな」というやり取り。
 人の移動を公的には認めない、地方の人間は地方のままで、北京には移り住めないという社会システムの残る現実。
 本当のものを求めるのではなく、“有名”かどうかを基準に、話題のもの・人に群がる人。それを批判する存在も登場させて、まさに”今”にライトを当てみごとに映し出していると感じました。
 
 映画としてはそれで充分に完成していたと思うのですが。実は、自分の身にも置き換えて思うことがあったのです。
 長々とこれまで書いてきたことは、たぶん他の人も同じことを、それももっと良く伝わるように書いてきたかもしれない。いや、これから書くことだってそうかも知れないけど。
 
 ある意味すごいバイタリティで、どんなことでも、どんな時でも疲れを知らない父親が、駅待合の雑踏の中、傍らにバイオリンを置いた赤ん坊を拾うまでの、この人間はどのように毎日を過ごしてきたのだろう。
 大きな混乱の中の中国、大きな混乱に翻弄される人々。経済的にも社会的にも充分ではないだろうことが易々と想像できる一人。
 この人は私ではないか、毎日の生活に目的も意味も持たず、生きる意味も価値も見出せず、自分をかけるべきものを持たない自分ではないかと思ったのです。
 そりゃ、毎日仕事で忙しいこともあるでしょう。でもその毎日にどれほどの意味を感じながら過ごしているでしょうか。
 そんな一人の人間に、生きる意味も意義も感じさせてくれた、与えてくれた。このこのために生きよう、この子の願いをかなえるためにならなんでもしよう、と目標を持たせてくれたのだとわかったのです。 もちろん愛されたらどれだけ幸せなことでしょう。 でも、愛する人がいて、その人のために何かできるということはどれだけ幸せなことでしょう。
 この映画、主人公はいったい誰だったんだろうと考えてみる。 バイオリンの天才の少年だろうか、他の登場人物のストーリーだって皆一本の映画にもなりそう。深みを増してくれています。
 でも、人生に、自分の生き方に目的も意義も見出せないことがいかにつらいことか、もしそれを見出せたらいかに人は変わるのかというのが、実はもう一つのテーマであり、それを現すために、いろんな所いろんな時のシーンが出てきているのではないかと反芻することができました。
 その時代や背景が良く描かれていて、その上にこのテーマがあったからこそこんな作品に仕上がったのではないかと感じました。
*写真。先回の映画の話の「ツォツイ」のパンフのものです。まだ自由自在に作成できず、この前乗せられなかったので、今日載せました。
 そうそう、この映画でも、少年と女性が縁あって知り合うなか、ひたしくなってから、初めて名前を教え、名前を聞くシーンがありました。 やっぱりそうなんですよ。名前を教えるということは自身を教えるということでもあるということなんですよ。○○小町や○○式部、だれだれの娘という言い方では今に伝わる人・女性も名前は人に知らせない。だから、実は名前がわからない。名前を知られるということは命にもかかわることとしていたほどの時が確か似合ったくらいなんですから。 2007・9・17

2007年9月12日水曜日

映画「ツォツイ」を観ての雑感。

映画「ツォツイ」観てきましたよ。 話題にはなるけどたいしたことない作品もある中で、観応えのあるさすがにいくつもの賞を取っただけのことはある映画ですね。一人ひとりの力至らない現実を再認識させられると共に、一人ひとりの人間、そして人々の持つ可能性と希望。今からでも間に合う、やり直し、人生も社会もという希望も感じさせてくれました。
 で、観ていての雑感というレベルのものだけどここに書きます。
 
 映画の中のシーンで何回も、また時間的にも結構長く扱われていたので私と同様、監督も重要に思っていたんだと思うけど“名前”のことが印象に残りました。
 もともとツォツイというのは現地の言葉で“不良”という意味であって主人公の名前ではありません。
仲間から問われても答えない、触れることを避ける。映画を観ている私にはフラッシュバックでその理由を見せてくれていましたが、それから逃れるように、名前に触れなかった。
 でも終わりの、これからの人生大変なことがまだまだあるんだろうなと思わせるラストでは、同時に自分の名前、自分の人生と向き合い、きっとその困難を乗り越えていくだろうと希望を持たせてくれる終わり方でした。
 この“名前”に対するこだわりでは「過去のない男」を思い出しました。
暴漢に襲われ記憶喪失した男が、それでも生きていく時に、救世軍の救済活動を受ける時、ただ一方的に受けるのではなく名前を教えるようにこだわる。そのことによって対等になるんだということを良く感じさせてくれるシーンがありました。
 確かに相手との関係を築く時でなければむやみに名前を明かしたりはしないなと思います。
決して派手な映画ではないし、美男美女が出ているわけではないけれど、この映画もお奨めかな。
じっくりと観ることができる作品です。最近のアキ・カウリスマキ監督の「街のあかり」もそうだったけど、まるで一枚の絵画を見るかのような光の感じが素敵です。

 フォークルの「悲しくてやりきれない」「イムジン川」のリアルタイムのころ、在日の青年が本名を明かすか明かさないかがラジオ番組でやり取りされたことがあって、(馬鹿な)日本人の青年が“たかが名前”・・・などと言うのであきれたことがありました。 自分の名前、特に個人や国、民族としてのアイデンティティのかかった時、明かすことによっての不利益などのことがわからないのかなぁとおもったことを思い出します。 地名人名は“文化”だと思います。
意味があるから、戦前の日本が朝鮮で創氏改名をさせたのだと思いますけどねぇ。