映画「ツォツイ」観てきましたよ。 話題にはなるけどたいしたことない作品もある中で、観応えのあるさすがにいくつもの賞を取っただけのことはある映画ですね。一人ひとりの力至らない現実を再認識させられると共に、一人ひとりの人間、そして人々の持つ可能性と希望。今からでも間に合う、やり直し、人生も社会もという希望も感じさせてくれました。
で、観ていての雑感というレベルのものだけどここに書きます。
映画の中のシーンで何回も、また時間的にも結構長く扱われていたので私と同様、監督も重要に思っていたんだと思うけど“名前”のことが印象に残りました。
もともとツォツイというのは現地の言葉で“不良”という意味であって主人公の名前ではありません。
仲間から問われても答えない、触れることを避ける。映画を観ている私にはフラッシュバックでその理由を見せてくれていましたが、それから逃れるように、名前に触れなかった。
でも終わりの、これからの人生大変なことがまだまだあるんだろうなと思わせるラストでは、同時に自分の名前、自分の人生と向き合い、きっとその困難を乗り越えていくだろうと希望を持たせてくれる終わり方でした。
この“名前”に対するこだわりでは「過去のない男」を思い出しました。
暴漢に襲われ記憶喪失した男が、それでも生きていく時に、救世軍の救済活動を受ける時、ただ一方的に受けるのではなく名前を教えるようにこだわる。そのことによって対等になるんだということを良く感じさせてくれるシーンがありました。
確かに相手との関係を築く時でなければむやみに名前を明かしたりはしないなと思います。
決して派手な映画ではないし、美男美女が出ているわけではないけれど、この映画もお奨めかな。
じっくりと観ることができる作品です。最近のアキ・カウリスマキ監督の「街のあかり」もそうだったけど、まるで一枚の絵画を見るかのような光の感じが素敵です。
フォークルの「悲しくてやりきれない」「イムジン川」のリアルタイムのころ、在日の青年が本名を明かすか明かさないかがラジオ番組でやり取りされたことがあって、(馬鹿な)日本人の青年が“たかが名前”・・・などと言うのであきれたことがありました。 自分の名前、特に個人や国、民族としてのアイデンティティのかかった時、明かすことによっての不利益などのことがわからないのかなぁとおもったことを思い出します。 地名人名は“文化”だと思います。
意味があるから、戦前の日本が朝鮮で創氏改名をさせたのだと思いますけどねぇ。
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