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2020年1月5日日曜日

明けましておめでとうございます。 3/3




年末に伊藤詩織さんの訴えていた裁判(民事)が被告の行為・罪を認めるという形で判決が出ましたが、女性に関することだけでなく様々な国際指標で日本は軒並み順位を下げるか低いままです。 日本、特に若者の自己肯定感が低いのは多くが知るところですが、記事にちょうどいい写真がないかとフィリピンで撮った写真を見直しているときに日本で言うところの小学校を写した写真に目が留まりました。 そこで目にした子どもたちや大人、独立そしてそのあとの困難に際してのモニュメントの数々、リサール・パークや旗に対する思いなどを察するに、当人たちは直接口に出すほどに意識していないかもしれないけれど誇り・自負を感じます。 韓国・独立記念館に行った時。案内の人が館内を回るに先だって「私達は決してあなたたちを責めるつもりはありません。ただ、事実を記録し知ってもらいたいからなのです。」とわざわざ断っていました。 「韓国と言いフィリピンと言い自分たちの国、 歴史 困難の末勝ち取った独立 旗 に誇りを持っているな」なんてことを年の初めにあたって、いや昨今のことを思うと年の初めの今だからこそなのかそんなことを感じています。

追伸 その時思っていたこと。

一行の中で私が一番若い方の一団に混ざり独立記念館のガイドさんの話を聞きながら「今ここにいる人たちは長年にわたって職場でも地域でも“正しいことをやっているんだ”と自分に言い聞かせながらさまざまな困難・苦難・困窮に耐えてきた人たちです。だからこれから回って目にする様々なことそして説明は、これまで耐え必死にやってきたことが間違いではなかったと言ってくれることなので歓びこそすれ気分を害する心配は全く要らない人達ですよ」と思いながら聞いていました。

2019年12月25日水曜日

日本の鬼瓦 朝鮮の三蔵法師御一行


 「なんだろう」と思ってはいたのです、その時も。 行く先々の建物(と言っても王室関係の)の屋根、その先端にかけて何やらのっている。 精緻な磁器と言うよりざらざらとした粗目の土を こて か何かでその質感を残しながら荒く形作った物
。 ちょうど一番前の人()に従っている風に、次は猿 その次も動物のように見えるものが一列につながっています。 全部が全部同じと言うわけでも無いようで、並びの列が少し長く終わりの方に少し大型のタイプの動物を模したのかと思われるものが連なっているものもありました。 いずれにしても、それらは いかつい というよりは愛嬌を感じさせてくれる造作物だなぁと思いましたが、その時はそこまで。

この秋、朱鷺メッセで発行されているフリーペーパー Tottoki guide(トッときガイド)2019 1112 vol.96 を手にし、目を通した連載記事「隣国情緒~北東アジアレポート~」のテーマは“朝鮮王朝時代の建物”でした。 そこに、以前目にし「なんだろう」と思いながらすっかり忘れていたあの造作物が取り上げられていたのです。 あれは、三蔵法師とその一行なんだそうです。

文中ではズバリ 災い除け というような文言は出て来ていませんが。 日本だと、屋根・棟の端というか先端にあるのはいかにも魔除け・災い除けのご利益の有りそうな形相の鬼瓦。 双方を比べてみると、魔除け災い除けという事では共通するものもあるのでしょうが、韓国の屋根に見るものの方はわざわい・悪いことを遠ざけるというだけでなく。人や動物・生き物のすべてが慕うくらいに徳のある人・知恵は呼び込む「どうぞいらしてください」というような感じがして好ましい。

2019年7月15日月曜日

P 時間差




以前韓国で目にした田園風景は、ハングルの看板でもなければ大型機械導入以前 田んぼ一枚当たりの面積を大きくする区画整理以前の日本、ちょうど230年くらい前を思わせるような情景でどこか懐かしさを感じさせてくれました。フィリピンは450年あるいはもう少しかな。 ただ、この差を埋めるのに450年かかるというわけではありません。その根拠、私実感したんですがケニアに行った時の携帯電話のこと。日本などでは電柱を立て電話線をひく時代を経てから携帯通信の時代を迎えました。 いまでこそこんなに身近になった携帯ですが、最初に電柱を立てた時から数えると100数十年かかったことになるのじゃないでしょうか。それがケニア・大地溝帯マサイマラの高地のマサイの人たちのところへ行った時 極普通に携帯で会話しているところを目の当たりにして、電柱を立て電話線を引く・有線の時代を経てから携帯に進むものだと思っていたのがいきなり携帯に進むんだと思い知らされた経験があります。技術革新、新しい技術が誕生すると、段階を飛越て社会が変わるんだと実感しました。ですから、フィリピンの農業もあっという間に変わる時があると予感がするのです。

2016年11月30日水曜日

日本の私たちももっと意思表示を


私もその一人なんだけど、日本の人はおとなしすぎ。最近だけでも平和・戦争に関すること教育 医療 年金 雇用 不公平な税制 食も農も通信も交通も・・・沖縄の辺野古も高江も原発も   この状況では 現在にも将来にも希望がありません。

なのに個人的に 「悪くなる → じゃどう準備しよう」 なんだから。もちろん力を合わせ反対の行動はあります。でも、悪影響を受ける人のほうが多い事柄がなぜその意向に反して行われてしまうのか、個人の意思表示と共同がもっともっとあっていいと思うのです。



お隣の国 韓国ソウル特別市。抗議に集まった人の数150万という数字は大きすぎてピンとこないほどです。

抗議する 人 人 人の写真を見ていて あ~と気づきました。その場に立った光化門につながるあの広い公園=光化門広場。全部で何車線だったのだろう世宗大通り。その片側車線分だけでもこちらの駅前の広い道より十分幅の広い道そして広い広場、そこがいっぱいなんです。広場の大きさ道路も併せての広さは覚えています、韓国の人たちの抗議の意思の広がり強さがだいぶわかりました。



 確かに今回の韓国、国の仕組みとしての問題 政治 経済 財閥いろんな問題があるのは確かだけど、日本だってどれだけ他人のことを言えるでしょうか 似たようなもの。  そのうえで大きく違うのが、みんなが自分の思い・考えを行動に表すということでしょうか。

意思表示、個人でも集団でももちろん何もしていないわけではありません。力関係も変わってきました。まさに剣が峰、せめぎあうところまで追いつめていると思います。

これまでかかわってきた人たちの輪を広げて、これまでかかわっていなかった人もやめさせたいこと いやなことにはいやと日本の私たちも抗議の意思をはっきり示すときです。

2015年12月28日月曜日

またまた 態度が逆でしょ!


2015年も最後の最後にきて‟慰安婦“問題での日韓外相会議が行われることになりました。(20151228日)取り返しのできない問題が、当事者の人たちが少しでも心安らぐ形で進展・解決することを切に願います。

でもこのたびの日本側の会談に臨むにあたっての意向を見聞きすると、これは謝る側 悪いことをした側 許してもらう側の態度ではないと感じます。 夏8月の安倍首相による70年談話の歴史認識を改めて問う以前に、「いつまでも謝り続けるのはやめにしたい」という態度、悪いことをした側が言える言葉じゃないでしょと思ったものですが相変わらずの態度です。

 50年前の日韓国交正常化時にすべての責任・補償問題は解決したとする解釈も問題ありです。その時は今のように公に触れられていなかった問題なんですから取り上げられても当然のことだと思います。それを解決済のことにしようなんてここでも本末転倒の不遜な態度を感じます。

 仮に韓国政府との間に‟政治的“決着が図られたとしても韓国の人たち何より悲惨な目にあわされた当事者や、韓国以外の慰安婦=セクシャルスレーブの人たちとの対応で終わりではないことを忘れません。

2015年11月6日金曜日

10-9-16  今も歴史が流れ続け戦争(休戦)状態だった韓国


今回の韓国行は韓国併合100年の節目ということで、旧日本が韓国を侵略していたころの歴史を巡るということが主目的。私もその趣旨に引かれ、普段の観光では回ることのできないところ聞けない話が聞けるということで決めたわけです。

ただ、韓国での受け入れ先の旅行代理店も商売だからでしょうかお土産物店もそうだけれど観光名所を巡る日程も盛り込まれていました。こういうところで変にかたくなな私、趣旨から見てどうなのかなぁと全く思わなかったわけではないけれど初めての訪韓だし すっかりはまってしまった韓国ドラマの物語は(実際にここでロケをしたのかどうかはわかりません)ここを舞台(背景)にしてのものだったのかと思うとちょっとうれしい。
 
立ってみた故宮のさまざまは、日本で思っていた時別々のところにある建物かと思っていたものが、実際は敷地面積15万坪と言われる景福宮の敷地内にあるものばかり。青瓦台さえもその敷地内に収まっているのには、歴史 文化ということで考えるものがありました。

何百年もかけて今目の前にある規模、素晴らしさに至ったわけですが、考えてみればこれまで根拠なく漠然と思っていたものをはるかに超えるものでした。あのシーンはここを舞台にしてたのかと感激。単純なんだから。 説明についてくれた韓国女性の日本語も流暢、感じもいい感じ。
 

思い出したことがありました。ここで、日本による韓国併合前に李王朝の王妃が暗殺されるという事件があったことを。そういうことで考えてみると、ここもただ観光名所というにとどまらない歴史があったということですね。ソウル・韓国全部が今も“休戦状態”であり歴史そのものなんだと再認識する旅でした。

2015年10月14日水曜日

10-9-16 南大門地域 4/4 印象

  
久しぶりに“うねうね”という言葉が頭に浮かびました。

 解散(自由行動)を前に李さんからのアドバイス(注意?)がありました。「奥まで行くと私も探し出せないので、携帯を持っていない人はお店に入ってお店の人に電話を頼んでください。かけてくれますから。」と、電話番号の書かれた名刺を手渡してくれました。最後に「集合はここに30分後です。」と言われてみんなは思い思いの方向に分かれました。

 市場は30分で回りきれる規模ではありません。回れるだけ回って視てみよう、ぐるぐる回りながら集合場所に戻ってこようと思って小走りで歩き出しました。
路は並行に走っているわけでもなく真っすぐでもなく先が見通せません。案の定というか迷ってしまいました。 暗くもなってくるし、これはまずいなぁと思いました。時間のこともあるし、どんどん深みにはまっていく感じで焦りました。
それでどうしたか。これは通ってきたところを素直にたどって戻るしかないな、と内心ハラハラドキドキしながら市場を歩きました。

  その時の印象(おもい)は、自分の身長が急に低くなり相対的に高くなった畝に先の見通しを阻まれ見通せないそんな感じ。それで“うねうね”この言葉が頭に浮かんだというわけです。実際のところ路は舗装されているので作物の植えられている畑のような状態というわけではないのですが、まっすぐでも並行に走っているわけでもなくこの横への広がり具合・先のほうまで見通せない曲がり具合なんかを目の前にするとこの言葉がぴったりという印象です。

悪い印象ではありません。その広がり・移動・形を変えていく様は混沌ともいえるけど粘菌のように移動、生物が増殖していく(いる)という感じかな。でも立地と時代の流れ年代()の変化を考えるとずうっとこのままの位置づけこの規模ではなく観光名所としての位置づけが強まっていくのかなぁと考えてしまいます。

2015年10月9日金曜日

10-9-16 南大門地域 3/4  ハリウッド映画のように在る市場


 
 

 高層ビルの裏へ一歩入ると大小さまざまのお店が表通りのイメージからは想像できない程たくさん連なっています。裏に回ってみると実は というこの様は、まるで看板住宅・ハリウッド映画のロケセットのようにも。
 
 

 お店はちゃんと店舗を構えて営業しているものだけではなくて、屋台形式のものも。そして品物が路上にせり出してというのではなくてまさに路上に品物を並べている人、扱っている品物はこれだけ!という規模のお店?も。 なんだかケニアの時を思い出すなぁ。
 
 

 ゲートには地名や番号が書いてあるから、入口もたくさんあり面積的にも相当広いんだろうことが容易にわかります。そこを走る道は整備された道ではなくて、生活道路というか商いを営むなかで広がり形成された道でした。これから横にというのは高層ビルに囲まれてしまっているので無理としても、ゆえに中の道はまさにどんどん増殖していく迷路のイメージです。
 
 
 
 

 食べるところもたくさんありました。 ただし李さんから「夕食が控えているし 夏の暑い時期なので食べ物が痛んでいても悪いので食べ物は控えてください」との話がありました。地元の人に交じってみんなが普通に食べているものを食べてみたい気もしていたんですが残念。

2015年10月1日木曜日

10-9-16 南大門地域 2/4  南大門市場“早い安い”眼鏡(店)


「韓国に行ったら眼鏡を買うといいよ。」      という話を聞いたことがあります。  
眼鏡(フレーム)というと日本・福井県の鯖江市が世界的にも有名なんだけど、なんで韓国なの? 
韓国では眼鏡を持つ人が多いから…というような話もありますが経緯がよくわかりません。
ただこの時、李さんから「韓国に来た記念・おみやげに眼鏡もいいですよ。もし買うなら最初に眼鏡屋さんに行って頼んでから別のお店を回るようにすると帰りまでにはできますよ。もし間に合わなければホテルまで届けてくれますよ。」という話がありました。
“早い安い”確かにメガネ屋さんが何件もあります。 お店の人がどんどん日本語で声をかけてきます。きっと日本人がたくさん来ているんだろうなぁ。

2015年9月30日水曜日

10-9-16 南大門地域 1/4 放火焼失再建中の南大門=崇礼門


 これから南大門(市場)です。近代的で立派なおみやげ専門店とは別の意味で、何より雰囲気、食材や衣類雑貨のお店をのぞき場合によっては値切るというやり取り、南大門に行ったということ自体に観光客には意味があるんだと思います。
“門”自体は、城塞で区切られていたころの都市の東西南北に設けられた城塞の中の南に位置した門ということで南大門と言われているけれど正式には崇礼門というそうです。尚、東西南北にあった門の中では一番立派なものとの由。
ただ、今日は残念ながらその立派な門を見ることはできません。その時は日本のニュースでも大きく取り上げられたので私でも知っていますが、放火により焼失してしまい再建工事中なのです。だから今日はこの囲いだけ。

 

ガイドの李さんは放火事件のことを話すとともに、放火犯のことを「今は国が特別に立てた別荘で三食ちゃんと食べています。」という風に話していました。放火から時間がたったということもあるのかもしれませんが、「韓国・ソウルのシンボルがなくなってしまいました。」と少し声が神妙な感じにはなりましたが、貴重な文化財をダメにしてしまったという割には感情的に強く非難するという感じがしませんでした。こんなものなのでしょうか。
それで私の知りえたところで考えてみたんですが、勤めている人でも定年年齢は日本より早くかつ年金等の社会保障は決して十分ではないという社会構造。この人の場合は自営で、再開発に伴う移転補償で折り合いがつかず不満(不安)があった。放火は決して許されることではないけれど、韓国社会においてはこのような将来に対する社会不安が程度の差こそあれ共通認識としてあるということなのかもしれないと思いました。

 
 
 

ちなみに、市場入り口脇に以前の崇礼門なのかと思う写真がありましたのでそれもここに載せておきます。

2015年9月14日月曜日

10・9・16 17 参鶏湯 と 石焼ビビンバ を目の前に文化 風習 似ているところと違うとこ


二日目昼食は参鶏湯でした。暑いときにまた熱い鍋物、こちらでは暑さに負けないように汗を流しながらでも食べる物。今では年中食べることができるようになってきているとのことですが、以前は夏限定という食べ物だったそうです。

 “暑いときに熱い物?!”と思うかもしれないけれど、暑いからと言って冷たいものをたくさんとると体調を崩してしまうもの。季節 時期 旬というとらえかたと合わせて発想はおんなじですね。

 
 
彩とか食べる時に混ぜてからという食べ方、日本にもあります。ただし私の感覚としては日本の方がより淡いという印象かな。彩ではなくて色合い、混ぜるではなく合わせるという言い方のように。

 
 参鶏湯も三日目のお昼の石焼ビビンバも李さんが食べ方を教えてくれました。というか 崩してくれました。色とりどり 鮮やか それを一度ぐちゃぐちゃに崩す・混ぜ合わせてから食べる。正直な所、せっかく綺麗なのをという気もします。

 参鶏湯は一人一羽の鶏をメインに、もち米 高麗人参 松の実 クコの実 ナツメなどいろんな薬味入。見た目あっさりかなという感じだけれど、けっして薄いという感じではなくておいしくいただきました。  




 
 
 
 石焼ビビンバ、これまた鮮やかな色合い。色使い・配色は、文化 陰陽五行からきているのでしょうか。それを崩す、混ぜ合わせて食べました。
 
 
 

2015年7月18日土曜日

10-9-17 ソウルと烏頭山(オドサン)統一展望台   日常と戦争の距離

 

 臨津閣・自由の橋 烏頭山(オドサン)統一展望台 とソウルの近さ=日常(生活)と 非日常(戦争)の距離(近さ)を実感しました
 

 ソウルと先ほどの臨津閣公園・自由の橋は高速を使ってバスで約1時間。そして臨津閣公園からソウルに戻るような方向でこの統一展望台まではバスで約20分。感覚的にはすべてが近いところにまとまっている感じです。ガイドブックにあるごく簡単な地図を見て改めてその近さにびっくりしました。この近さじゃあ、ソウルの人が(北朝鮮は)漢江を下って一気に攻めてくると心配するのも当然と理解できました。 
 
 

臨津閣・自由の橋 烏頭山(オドサン)統一展望台よりも一般には耳なじみのある板門店。こちらの言葉・発音ではパンムンジョムというそうだけど、板門店はこの先こことはまた別の所で、一般の人でも絶対に行けない所というわけではないそうですが、個人で勝手にきやすくというわけにはいかないそうです。 団体のみ、国境を超えるわけでなくともパスポート持参との由。  
 

いずれにしても、地理上の距離はこんなに近くても政治上の距離は相当あるということですね。

2015年7月2日木曜日

10-9-17 烏頭山(オドサン)統一展望台 3/3  展望台(室)から

 

この日一日を通してみてみれば決して悪天候というわけではなかったのですが、統一展望台・展望室から対岸を望むころはたまたまガスが出ていたというか見通しが悪く、イムジン河越しに北朝鮮側の“宣伝村”と呼ばれているところをよく見ることができませんでした。

ガスが出て見通しが効かないというのは、この地形的な条件そして時間帯なども何か影響しているのかなぁなんて感じました。攻めるも護も昔から重要な場所だったんでしょうね。

統一展望台・展望室では、説明映像が英語中国語と並んで日本語でも用意されていました。それだけ日本人が来るのか、意味合いとして別の配慮があるのかはわかりませんが。

 

 ところで、いくら大河を挟んでだとは言え特別に大きな兵器でなくとも十分届きそうなくらいに近い韓国と休戦状態にある対岸の北朝鮮。天気のいい日に望遠鏡越しなら人々の簿暮らしぶりまで十分に望めることでしょう。北朝鮮ではどのように呼んでいるのかわかりませんが、だからこそ“宣伝”村と言われるゆえんなんでしょうね。東西冷戦時代の西ベルリンが東ドイツ・東欧諸国に対してのショーウインドーだったなんて昔のことを思い出してしまいました。

 

でもこちら展望室から対岸の家々まで見えるということは、きっと向こうもこちらを監視しているんでしょうね。技術の進歩を伴ってということがあるけれど、今の社会情勢ですからここだけに限られたことではないのが怖いところですが。

2015年6月29日月曜日

10-9-17 烏頭山(オドサン)統一展望台 2/3  統一展望室で一緒になった中学生たち



  日本人と韓国人の顔だちはよく似ているのにやっぱり雰囲気が違うのかなぁ、先客の一団がどうも日本(人)のような気がするのです。その時はタッチ交代、入れ違うように行ってしまったので確かめようもありませんでしたが。
 

 その後、北朝鮮”宣伝村”の説明を聞き対岸に目をやり展望室を後に階下の展示室に行ったら先ほどのグループが居るじゃないですか。それで声をかけてみました。   
  なんでも、三重県内の21の中学校から選抜された全員で51名の代表だそうです。同行の大人も含めると全員で何人になるのでしょうか。経費は県が負担しているそうです。
 

 みんな代表に足る人たちなんだと思いますが、人に こういうところに手間もお金もかけるのは生きたお金の使い方だと思うし、参加した一人一人にとってもいい経験になると思います。
  一回目・最初はわけがわからないままあれよあれよという間に終わってしまうかもしれませんが、その時の悔いを感じること自体も次につながる大事な経験だし、可能であれば実際に日本を出てみる 外から日本を見てみるということはだれにとっても貴重な経験だと思います。

2015年6月28日日曜日

10-9-17 烏頭山(オドサン)統一展望台 1/3


 
 再びバスに乗り約20分ほどで烏頭山(オドサン)統一展望台につきました。 


臨津閣公園からバスで20分かけて別の場所に移動したのは確かなんだけれど、限られた日程・時間で目にした展示・資料は類似したものもあったので(それだけ ひどいことをあちこちでしているということでもあるんだけど)何処で何を観たのか これはどこだったのか 順番は・・・。間違いのないように気を付けているつもりですがここ数日の情報が多すぎて正直アップアップしています。 このオドサン統一展望台も、臨津閣公園からバスで約20分離れたところなので決してすぐ隣という所ではなかったんだけれどなんだか一連のように感じてしまいました。確かにつながりはあるのですが。 
 
 

統一展望台はちょうど臨津江と漢江との合流地点を目の前にする昔城塞があった標高100メートルを超える崖の上に建てられ、中には展望階のほかに統一に関するもの北朝鮮の物産・生活に関するものの資料紹介の階などの階からなっています。
 起伏に沿って作られた通路を対岸に北朝鮮領を望みながら歩くと昔城塞だったことをしのばせる塹壕を歩いているかのような感じ。 

 
 

眼下の河が放送禁止歌“イムジン河”。確かに、人の往来には国境があっても鳥なら朝に夕に自由に行き来ができる近さだなぁと感じました。同じところに立ち同じもの(問題)を伝えるにも感じ方や伝え方が違うものだなぁ、その感性の違いを改めて感じます。 

2015年6月25日木曜日

10-9-16  二日目の夕食は


二日目の夕食は海鮮鍋でした。お店は催事もできる大きい広間がいくつもあるもの。でもまぁどちらかというとそういうハレの時のというよりも、旅行などの団体客がよく利用する感じのものでしょうか。


お店に入って手際よく案内された部屋にはすでに本日の御馳走 海鮮鍋が後は火を入れるだけという感じで用意されていました。飲み物は各人御自由にということでまずはビールで乾杯。まだ明日の日程があるのでたくさんというわけにはいきませんが、せっかくここまで来ているんだからと瓶入りのマッコリを別にお願いしました。
 味?海鮮鍋は、もちろん足りるしおいしくないわけではないんだけど今一つ「これは美味しい!」というほどの感激はありませんでした。韓国のお料理、味の方はこのお店でも決められないかなぁ。

 

 これは日本における団体旅行も似たり寄ったりなので、取り立てて韓国の食事はとかお店はとかは言えません。やはりもっと少人数で、時間的にもゆったりと、こじんまりしたお店にでも行かないとダメなんでしょうか。十分足りていると言えば足りているのですが。

2015年6月18日木曜日

10-9-16 ソウルタワー


今日は朝一番にナヌムの家に行き、取って返してお昼からはソウル市内の名所旧跡を巡っていました。
洋の東西を問わず歴史のある街は想像していたよりも狭い範囲に様々なものが林立しているのが常だけれど、きょう午後から回ったところも地図を見てみると「えーッみんなこんなに近かったの!」とびっくりしてしまいます。
近代的な高層建築が居並んでいるかと思えば、高さではなく横の広がり 奥行きと空の広がりを感じさせる広い敷地の旧跡。
山と川(漢江)に挟まれた制限のある地でこうなると観光ということではすごい財産ともなった歴史的な建物・旧跡と再開発された地域。もちろん全部がそうというわけではなく、昔ながらの地域・景観もありますけれど、大通・幹線はその発想が日本にはあまりない“広場”というものを感じさせ実に広々とした印象を感じさせてくれます。
 

午前午後とあちこち回った割には疲れというものは感じません、でもさすがにこの時間になってくると盛りだくさんの今日一日も「後は夕食だけか~」という気持ちになります。
写真は夕食に向かう車中でツアーガイドの李さんからナンタ観劇とともに希望者が一定数居たら案内しますと提案のあったソウルのランドマークとも言われているソウルタワーです。
ソウルタワーはこうしてみても確かに綺麗だし、南山に建つタワーからの展望も素晴らしそうです。ただし、個人的にはナンタそして韓国の伝統芸術・宮中舞踊や日本で公演を観させてもらったサムルノリなどを包括しての民族舞踊・農楽鑑賞の方がよかったんですけどね。恨みのとまでは言いませんがせっかく韓国まで来ていてソウルタワーに負けてしまって残念です。

2015年5月31日日曜日

10-9-15 ユガンスン生家にて


午前に新潟を発ち独立記念館を見て今ユガンスン生家に到着しました。独立記念館は韓国の人たちにとってはとても大切な所だから間違えようもないところだけれどユガンスン生家は観光コースからは完全に外れたところのようです。運転手さんが道を勘違いして、生家によってから柳寛順烈士記念祠堂に行く予定が逆になってしまったほどです。ガイドの李さんいわく「普通の観光客コースではここには来ない。私ももっと早くわかっていれば事前に一度来て下調べをしておいたのですが…」との由。

先ほどの柳寛順烈士記念祠堂は独立記念館の印象が抜け切れないままに過ぎてやってきたユガンスン生家は、秋口の夕暮れの時間になってしまったせいなのかもしれませんが駐車場に車はなく人気がありません。隣接する教会そして集落にも人気がありません。このソウルの大学に進学するきっかけとなった教会。建物自体は当時のものではないと思いますが、ユガンスンの家とこの近さで建っているということを実感しただけでも現地に来たかいがあったというものです

生家は、きれいに整備されているとはいってもこじんまりとした建物。広大な敷地に建てられた独立記念館との差異に正直な所ちょっとほっとして家の作り日常の生活用品などを韓国の生活文化として眺めることができました。

 そんな風にしていて改めて感じたのが“こんな地方のそのまた小さな集落、教育者とは言え特別な政治活動家でもなかった父親母親という環境から韓国のジャンヌダルクとも評され教科書にも乗るほどの人が生まれたの?” でも考えてみればこれは至極当然のことだとも思いました。どこに生まれどのように育ったから後世に残るすごいことをするという決まりごとはない。その人の出自に関係なく事を成す人は生まれえると。物事はそんなに簡単ではありませんから、もちろんどんな人でも同じことができるとまでは言いません、ユガンスンだったからというのも紛れもないことでしょうけれど、時代が彼女を押し出したということもあるのかなぁと思いました。