2025年4月17日木曜日
2021年10月16日土曜日
「ディフェンダー」と言う名前の持つ歴史と魅力
“新型”ディフェンダーを見かける事が出てきました。こちらでも購入する人が出てきたようですね。これもデザインなのでしょう、フロントボンネットのネームでディフェンダーという事はすぐわかりました。 車を止めて戻ってきたら隣に黒いボディのディフェンダーが止まっていて改めて見てみました。ボリュームのあるデザイン、大型で盛り上がり色のせいか小山のようです。 何十年ぶりかの新型が構想されているとき、新型は伝統のラダーフレームを採用しないということで賛否が分かれました。その時「十分な強度は確保している。現在では、そのデメリットよりもメリットの方が大きい。」という説明がなされていたのを覚えています。いずれにしても、日本においてその限界が見えるほどに走らせるなどという事は無いでしょう。
運転中にすれ違うのではなく、止まっているところでよく見ることができました。 道路で目にするディフェンダーは結構軽快そうに直進しているように感じます。決して安い車ではありませんが、きっと機能的にはいい車なんでしょう。で思ったことが有ります。
先代ディフェンダーとGを比較して、快適さとかGは月でも走れるとか一度Gに乗るともう戻ってこれないとかという記事を見たことが有ります。それでも先代ディフェンダーの持つ魅力、愛車としていることでの満足感は新型だとか快適性だけでは説明しきれない物でした。 この度の新型も、間違いなく機能 性能的にはくらべものにならない進化を遂げているのは間違ありません。でも私には、この車新型ディフェンダーが「ディフェンダー」と言う名前である必要性を感じないのです。 これだけの車なら新しい別の名前でよかった、「ディフェンダー」と言う名前はそのような魅力を引き継ぐ車にこそ残してもらいたかったと思ったのです。
2020年10月27日火曜日
「日本学術会議」“学術” 取ったら「日本会議」 此れ如何に
「よく見ること よく見ること」 その後自身も物書きになった人が出版社勤務をしていた時の話。編集者として担当になった作家に稿料が払えないという不祥事が発生してしまいお詫びに行った時掛けてもらった言葉。 糸口すらつかめない時、ただひたすらに眺めていると見えてくるもの
気づくものがあります。そう実感しているので、物事そうしているのですが、それでもまだまだ そんな見方があったか!
いや確かにそうだな!と感心する時があります。
これもその一つ。 社会学者の上野千鶴子さんが、日本学術会議から“学術”をとったら「日本会議」になるという事を教えてくれました。 この話は、就任早々の蜜月期間にもかかわらず、その高支持率を一気に下げるきっかけになった、日本学術会議が規定に沿って半数の会員を改選するにあたり推薦した105名の内、これまた規定に沿えば任命しなければならない推薦者6名を菅首相が任命しなかったというルール逸脱。それなのに、なぜそうしたかの説明を求めているのにも関わらず、真意の伝わらない「総合的俯瞰的に判断した」で逃げ回る。挙句の果てに、毎度の争点ずらしをする始末。 それにしても、人権機関設置反対・夫婦別姓反対・男女共同参画条例反対・従軍慰安婦も南京大虐殺も否定する歴史修正主義・ジェンダーフリー教育是正・新憲法制定・戦争責任を認めず自虐的歴史教育と言ってはばからない、安倍さん(が)大好き「日本会議」になるとは今回指摘されるまで気づきませんでしたけれどすごいなぁ
日本会議 今回改めてその主張に目を通してみましたけれど「思考のガラパゴス化」が相当なものだと感じました。
2020年1月31日金曜日
「募っているけれど 募集はしていない」!!!
政府行事 税金の私物化として大問題になっている「桜を見る会」に関する国会答弁の中で安倍首相が言い放った言葉
「募っているけれど 募集はしていない」!!!
自分の言っている言葉(文字)をわかっていない。 お笑い芸人のボケとツッコミのやり取りを聞いて思わず笑ってしまうのとはわけが違います。安倍さんは一国の首相、その首相が国会答弁の場で言ったことなのですから「うまい!」とか「面白い」と笑ってはいられない発言なのです。 でもぞ~っと怖くなったんです。指摘されてもそのままで、この人 もしかしたら本とにそう思っているのかもしれない(言っていることがおかしくない) と。
*募る(つの る) ↔ 広い範囲に呼び掛けて集める。募集(ぼしゅう)する
2014年2月9日日曜日
ソニーさんしっかりしてよ
ソニーがPC部門、バイオブランドを分離売却することにしたそうです。
いろんな指標があるし、経営していくうえでの選択なんでしょうがこのブランドを手放すのはどうなんでしょうか。
企業のアイデンティティまで手放してしまうんではないか、この先ソニーが何を目指しているのかどうしたいのか。これでほんとにいいのか私には気がかりです。
PCに関して個人的には、ソニーのワープロ専用機プロデュース、コンパックNECのPCを経て、ソニーがPCを出してからはバイオシリーズを使ってきました。
映画の中でアップル hp デルに並んでバイオがスクリーンに映し出されるとうれしく思ったものです。その個人・会社の性格付けとしてその使い分けは有効でしたしね。
ソニーは好きなメーカーです。
技術のソニー、そしてブランドは世界に誇れるメーカーとして、トランジスターラジオテープレコーダーを始めとしての音響機器、TVのトリニトロン、ウォークマン・・・
誇らしく思ったものです。
あまりにも独創的な新しい取り組みは汎用性・互換性の点、撤退で痛い目に何度もあったけれどソニーが好きだから、ソニーが出すならソニーがやるならと承知の上で手にしてきたので またか! という思いもあります。
カメラ
現在愛用しているデジタル一眼はソニーのαシリーズ。
私フイルムカメラの時代、一眼はミノルタでした。
ミノルタは決してカメラそのものの差ではないと思うけど販売数、メーカーシェアとしてはニコン キヤノンの後塵を拝していたように記憶しています。
ミノルタはデジタルカメラの時代になり会社運営の選択の中で、電子機器、特にセンサーに強みを持っていたソニーにカメラ部門・ブランドを売却しました。
ソニーの側もコンパクト以外に一眼を商品ラインナップに加えられると言うことで双方にプラスだったでしょうか。(ミノルタはそれ以前にコニカ、以前のサクラと統合していました。サクラのカラーフィルムは、アメリカのコダック
ドイツのアグファ
ソビエトのモス日本のフジ等々の中で一番二番で好きな色合いのフィルムでした)
ミノルタもソニーも好きでしたから私は喜びました。
愛用している一眼のαシリーズも、ニコンやキヤノンの方が個々の機能も、製品ラインナップ・商品展開の点で何も考えないと言ったら嘘になります。
でも今ここで別メーカーに走ったら戻ってこれないんじゃないかと思って、次のはどうだ次のはどうだと我慢しています。
この度の選択は、現状追認 縮小均衡 としか思えません。
短期的には良いのかもしれないけれど、もう少し長い目で見てみるとメーカー・ブランドとして良いんだろうか、将来はあるんだろうか。
どんどん商品を絞ってくる。買うものが無くなる。
ソニー大好き人間 ソニー党の人が買いたくなるものがどんどんなくなっていくような思いがあります。
2011年12月18日日曜日
従軍慰安婦 という言い方は 本質を見えなくしています
日本政府に謝罪と賠償を求めての水曜デモが、2011年12月14日、1992年1月に始まって以来1000回になったという報道がありました。
認めないから、責任を果たさないから、いつまでも言われるんですよ。
ところで。 報道では“従軍慰安婦”と言う言葉が使われていましたけど、この言葉やめた方がいいと思います。
60年70年前にこんなにひどいことを企てた人は軍隊・兵隊への福利厚生の発想でやったとでもいうの。
相手のことをぜんぜん考えてない。相手の痛みをぜんぜん感じられない。
そのレベルの人権意識なんですよ。
1000回というそれだけでも大きな到達の上に、今年の8月韓国憲法裁判所が「“慰安婦”と在韓被爆者の賠償請求権について韓国政府が措置を講じなかったのは違憲」という結論を出した後ということ、被害者を象徴する少女像が在韓日本大使館前に設置されたということもありこれまで以上に大きく取り上げられたように感じます。
対する日本政府の反応は素早かったですねぇ。
気にしていることにふれられるといやなもの。
身構えるというか体を堅くするというか、今回の日本政府の対応を見ているとまさにそういう感じですね。
この言い方をするからいつまでも多くの日本人に本質が見えないんじゃないでしょうか。
韓国・広州市のナヌムの家を訪問したとき(2010・9)「国連を始め世界的には人権問題として 慰安婦ではなく性奴隷という言葉を使っている」と説明を受けました。
日本以外、外国で伝えられるときは性奴隷=セクシャルスレィブ。でも日本国内では“慰安婦”。
日本の良くない言い換え「自衛隊は自衛隊であって軍隊ではない」と同じパターンですね。 この“慰安”という言葉。会社の福利厚生の一つとしての慰安旅行・社員旅行の事を言うときにも使うけど同じレベルのことではないでしょ。
事は同じ言葉を使って良い事!相手のことをぜんぜん考えてない。相手の痛みをぜんぜん感じられない。
そのレベルの人権意識なんですよ。
今からでもいいから、本質を正しく認識するために従軍慰安婦ではなく本人の意思を無視して強制された性奴隷=セクシャルスレィブといういい方に変えるべきですね。
2011年10月5日水曜日
越の雫
いただきものなんですが、久しぶりにイチジクを口にしました。
カミキリ虫にやられて残念ながら枯れてしまったんですが、以前この家でもイチジクを楽しませてもらいました。
品種はマスイドーフィン。昔の日本イチジクを品種改良したもので今一番で回っているでしょうか。際だって個性というものはないかもしれないけど間違いのない食感です。
カミキリムシ すごいんですよ。家のイチジクが枯れて、木肌が露出したときびっくりしました。穴に気づいていたし薬で防除していたんだけど、そんなものじゃなくて穴だらけ。そこまでとはぜんぜん気づきませんでした。ひどいもんでした、これじゃ枯れるよなぁと変なところで納得してしまいました。
果実の収穫でもすごいんですよ。もう少しかなぁと思って様子を見ていていざ収穫!と手を伸ばすと見えない側がしっかりツツかれている。(鳥)頭がいいというか何というかその知恵には感心してしまいました。
ところでこのたびもらったイチジクにはブランド名が付いています。「越の雫」と言うんです。
私の住むところは柿も穫れます。名前もちゃんとあるんですよ、「越王柿」と言います。味もいいし、とてもおいしい柿です。
ところが、同じ“平種なし”の種類なのに佐渡の「おけさ柿」の方が話題に上るんです。“佐渡おけさ”の方が通りがいいですものね。
これも名前の妙と言うことでしょうね。
話戻って、だからこのイチジクの“越の雫”は良いんじゃないでしょうか。
昔実家にもイチジクの木が一本ありました。
そのころはイチジクの木のある家というのはそう珍しくなくて、だから昨今のようにイチジクは買って食べるものと言う感覚がどうもピンときませんね。
そうそう、そのイチジクの種類なんですけど近所のは後で思えば皮がどちらかと言えば赤黒くて熟すと口が割れてくる日本イチジクだったんだけど、実家のだけは種類が違ったんです。果実も大きいものだと3から4倍くらいに大きく重くて色も青っぽくて薄目。果肉も白っぽくてなにより甘さが違う、たとえるならばグラニュウ糖の甘さ 食感。楽しみでしたねぇ。
種苗会社に聞いたりして確かめてみて、まだはっきりしないんだけど、昔の品種でホワイトゼノアと言う種類だったのかなぁと思っています。
はっきりしないと言うのは、名前は解ったものの、種苗会社でも昔の品種で今は扱っていないと言うことだったからなんです。
ところが3年ほど前たまたまその苗木をホームセンターで見つけたんです。実を付けるには今少し時間がかかりそうだけど、さてどうなりますか。楽しみです。
2011年3月9日水曜日
絹乙女 命名の妙
昨秋、寒さに向かい一段とおいしさを増す里芋のことが、NHKの地域情報番組(コーナー)で五泉のブランド農産物“絹乙女”として紹介されていました。
その番組で紹介された絹乙女が、劇団仲間の忘年会で入ったお店のメニューにありましたので早速食してみました。
皮(毛)を残したまま蒸しあげ、一部をカットした小芋に塩を少しまぶして食べました。
里芋の持つほんのりとした甘みと、まさに絹のような細やかなそして融けていくかのようなねっとりとした食感。なるほど、充分話題になるブランド作物だ、と納得した覚えがあります。
先日用事で訪れたお宅。高齢になり、かつ跡を継ぐ人もいなくて、今は農地を委託しているお宅でした。
昔は米以外にもこのあたりの特産品の里芋を作っていたという話がでました。
ちょうどその地域は、大河とは言え対岸があの絹乙女の生産地。「おいしいですよねぇ」と話したら。
この集落の里芋もブランド名があるとのこと。
“芋っ子”と言うんだそうです。
でもこれじゃあ売れないよねぇ」と。
「絹乙女と同じ種芋なのに値段は半値」だそうです。
これはまさに命名の妙というか。最初につけた人の先見の明と言うか才覚でしょうね。
名前というのは大事なものです。
その番組で紹介された絹乙女が、劇団仲間の忘年会で入ったお店のメニューにありましたので早速食してみました。
皮(毛)を残したまま蒸しあげ、一部をカットした小芋に塩を少しまぶして食べました。
里芋の持つほんのりとした甘みと、まさに絹のような細やかなそして融けていくかのようなねっとりとした食感。なるほど、充分話題になるブランド作物だ、と納得した覚えがあります。
先日用事で訪れたお宅。高齢になり、かつ跡を継ぐ人もいなくて、今は農地を委託しているお宅でした。
昔は米以外にもこのあたりの特産品の里芋を作っていたという話がでました。
ちょうどその地域は、大河とは言え対岸があの絹乙女の生産地。「おいしいですよねぇ」と話したら。
この集落の里芋もブランド名があるとのこと。
“芋っ子”と言うんだそうです。
でもこれじゃあ売れないよねぇ」と。
「絹乙女と同じ種芋なのに値段は半値」だそうです。
これはまさに命名の妙というか。最初につけた人の先見の明と言うか才覚でしょうね。
名前というのは大事なものです。
2010年12月19日日曜日
神の証人(証)、神・真理を喜ぶ(真喜)、これこそが真理である神の言葉(真言)
その後も目にする度に あるじゃない!!と思っていましたが、このところ立て続けに
“真言” とゆう名前、文字を目にしています。読みは まこと。
(神の)本当の、真言の言葉、真理・真実の言葉とゆう意味です。
良い言葉・名前だとずっと思っています。
ところが、この聖書からインスピレーションを得ての名前、直接には字をみて、
H牧師が「しんごん(真言宗の)ですか」と一言言ったものだから、もう止まらない。
元々好と思っていなかった母親が、我が意を得たり、100万の援軍を得たと、反対をしてきた。
いくら説明をしてもわかってもらえない。双方が思いを持ってのことではあるけれどこんなにも聞いてもらえないとは。
確かに真言(宗)の漢字と同じではあるけれど。
いつまでも届け出をしないでいるわけにはいかないので、双方が妥協をした形で、平仮名で“まこと”と書くことにした。
私にとってはあくまでも“真言”だし、本人にもどこからとった名前なのか。どのように考えて、どのような思いで付けた名前なのかは折々に話してきてはいますが。
神の証人であり(証)、神・真理を喜ぶ(真喜)、これこそが真理である神の言葉(真言)として、
神の子として。
“真言” とゆう名前、文字を目にしています。読みは まこと。
(神の)本当の、真言の言葉、真理・真実の言葉とゆう意味です。
良い言葉・名前だとずっと思っています。
ところが、この聖書からインスピレーションを得ての名前、直接には字をみて、
H牧師が「しんごん(真言宗の)ですか」と一言言ったものだから、もう止まらない。
元々好と思っていなかった母親が、我が意を得たり、100万の援軍を得たと、反対をしてきた。
いくら説明をしてもわかってもらえない。双方が思いを持ってのことではあるけれどこんなにも聞いてもらえないとは。
確かに真言(宗)の漢字と同じではあるけれど。
いつまでも届け出をしないでいるわけにはいかないので、双方が妥協をした形で、平仮名で“まこと”と書くことにした。
私にとってはあくまでも“真言”だし、本人にもどこからとった名前なのか。どのように考えて、どのような思いで付けた名前なのかは折々に話してきてはいますが。
神の証人であり(証)、神・真理を喜ぶ(真喜)、これこそが真理である神の言葉(真言)として、
神の子として。
2007年9月12日水曜日
映画「ツォツイ」を観ての雑感。
映画「ツォツイ」観てきましたよ。 話題にはなるけどたいしたことない作品もある中で、観応えのあるさすがにいくつもの賞を取っただけのことはある映画ですね。一人ひとりの力至らない現実を再認識させられると共に、一人ひとりの人間、そして人々の持つ可能性と希望。今からでも間に合う、やり直し、人生も社会もという希望も感じさせてくれました。
で、観ていての雑感というレベルのものだけどここに書きます。
映画の中のシーンで何回も、また時間的にも結構長く扱われていたので私と同様、監督も重要に思っていたんだと思うけど“名前”のことが印象に残りました。
もともとツォツイというのは現地の言葉で“不良”という意味であって主人公の名前ではありません。
仲間から問われても答えない、触れることを避ける。映画を観ている私にはフラッシュバックでその理由を見せてくれていましたが、それから逃れるように、名前に触れなかった。
でも終わりの、これからの人生大変なことがまだまだあるんだろうなと思わせるラストでは、同時に自分の名前、自分の人生と向き合い、きっとその困難を乗り越えていくだろうと希望を持たせてくれる終わり方でした。
この“名前”に対するこだわりでは「過去のない男」を思い出しました。
暴漢に襲われ記憶喪失した男が、それでも生きていく時に、救世軍の救済活動を受ける時、ただ一方的に受けるのではなく名前を教えるようにこだわる。そのことによって対等になるんだということを良く感じさせてくれるシーンがありました。
確かに相手との関係を築く時でなければむやみに名前を明かしたりはしないなと思います。
決して派手な映画ではないし、美男美女が出ているわけではないけれど、この映画もお奨めかな。
じっくりと観ることができる作品です。最近のアキ・カウリスマキ監督の「街のあかり」もそうだったけど、まるで一枚の絵画を見るかのような光の感じが素敵です。
フォークルの「悲しくてやりきれない」「イムジン川」のリアルタイムのころ、在日の青年が本名を明かすか明かさないかがラジオ番組でやり取りされたことがあって、(馬鹿な)日本人の青年が“たかが名前”・・・などと言うのであきれたことがありました。 自分の名前、特に個人や国、民族としてのアイデンティティのかかった時、明かすことによっての不利益などのことがわからないのかなぁとおもったことを思い出します。 地名人名は“文化”だと思います。
意味があるから、戦前の日本が朝鮮で創氏改名をさせたのだと思いますけどねぇ。
で、観ていての雑感というレベルのものだけどここに書きます。
映画の中のシーンで何回も、また時間的にも結構長く扱われていたので私と同様、監督も重要に思っていたんだと思うけど“名前”のことが印象に残りました。
もともとツォツイというのは現地の言葉で“不良”という意味であって主人公の名前ではありません。
仲間から問われても答えない、触れることを避ける。映画を観ている私にはフラッシュバックでその理由を見せてくれていましたが、それから逃れるように、名前に触れなかった。
でも終わりの、これからの人生大変なことがまだまだあるんだろうなと思わせるラストでは、同時に自分の名前、自分の人生と向き合い、きっとその困難を乗り越えていくだろうと希望を持たせてくれる終わり方でした。
この“名前”に対するこだわりでは「過去のない男」を思い出しました。
暴漢に襲われ記憶喪失した男が、それでも生きていく時に、救世軍の救済活動を受ける時、ただ一方的に受けるのではなく名前を教えるようにこだわる。そのことによって対等になるんだということを良く感じさせてくれるシーンがありました。
確かに相手との関係を築く時でなければむやみに名前を明かしたりはしないなと思います。
決して派手な映画ではないし、美男美女が出ているわけではないけれど、この映画もお奨めかな。
じっくりと観ることができる作品です。最近のアキ・カウリスマキ監督の「街のあかり」もそうだったけど、まるで一枚の絵画を見るかのような光の感じが素敵です。
フォークルの「悲しくてやりきれない」「イムジン川」のリアルタイムのころ、在日の青年が本名を明かすか明かさないかがラジオ番組でやり取りされたことがあって、(馬鹿な)日本人の青年が“たかが名前”・・・などと言うのであきれたことがありました。 自分の名前、特に個人や国、民族としてのアイデンティティのかかった時、明かすことによっての不利益などのことがわからないのかなぁとおもったことを思い出します。 地名人名は“文化”だと思います。
意味があるから、戦前の日本が朝鮮で創氏改名をさせたのだと思いますけどねぇ。
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