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2024年9月17日火曜日

カキ にまつわる小さな思い

 日本経済新聞2002年12月28日の知球探検のページに、フランスで育てられていたカキが病気にやられ日本の種ガキを取り入れたという記事が載っていました。

 まだフランスの通貨がフランだったころの1980年代前半にパリの小さなレストランで同行の仲間と、日本と違うけど生でも大丈夫かなぁと言いながら生ガキを食べたことがあります。この記事を読むとあの時口にしたカキはフランスの養殖ガキの種類のヒラガキだったのでしょうか。 その時は、今書いたような心配もあったからだったのか一人2個ずつお願いして食べました。 お店の人には、とても親切に丁寧に応対してもらいました。 食べ方(塩 レモン他)も幾種類もあったようでとても2個ではすべての味を楽しむわけにはいかなかったのですが、とてもおいしくて、口にする前の心配はどこへやら もっと食べたいという食後感を持った覚えがあります。

 この記事で紹介しているお店が今どうかについては情報がありませんが、先日高架化も完了し駅舎内のモールもリニュウアルした新潟駅のすぐ前のビルにカキ料理のお店がオープンと言う記事を目にしました。 機会があれば行ってみたいものです。




 *カキと言えば冬の物と言うことで通っていますが、岩ガキと言う種類は夏でもOKと言      
  うことで食べたことがあります。おいしかったんですが、お店としてはわざとそのサイ  
  ズをそろえて出してくれたのでしょうが大きかった。 もう少し小ぶりのものを咽喉し  
  よく食したい思いでした。

2024年6月15日土曜日

出発の所から写真を撮り始める

  写真は ピントがアウトかどうかよりも 何時何処でシャッターを切ったかが大切だと思っています。

 私の写真は、隅々までピントの合った観光写真かなと思っていますけれど。 何を撮りたいか 主題がちゃんと写っているか。 でもそれが中心でなくとも(端)ピントが合っていなくとも、写真の意味がついてくる、キャプションが書ける。評価される写真になるのだと思います。


 ロバート・キャパの作品。彼の生涯。「ちょっとピンボケ」を記しておきます。



 






 私の写真の撮り方は、物でも話でも集まりでも、その場の手前から全体も収めるように心がけ柄います。その部分を知るにも、話のように、いつどこから始まっているのか周りは全体はどうだということも分るように心がけています。 それを意識させるようになったのは宮本常一さんの「佐渡」を扱った本を見聞してからです。 佐渡の本なのに、佐渡の地に向かうところから話 写真が始まっている。 それからですね。

2023年1月28日土曜日

日本原産なのに 名前のいわれは中国の 温州ミカン

  突然の展開ですが、日本のミカン゛温州ミカン”の名前が実は、中国浙江州温州から来ているという記事を目にして、正直驚いて書いてます。

 この記事(全国農業協同組合連合会=JA全農)Apron・エプロン No533 2022.12を目にして、温州ミカンは日本のミカンの古くからの代表的な呼び方だとばかり思っていたのでびっくりでした。 今でこそ、日本各地にブランド銘柄がありますけれど、日本のミカンを総称して温州(うんしゅう)ミカンと言うと思っていましたので。 

 余談ですが、ジャズのスタンダードナンバー「タンジェリン・Tangerine」が日本のミカンの呼び方だというのはジャッキーマクリーンのアルバム「4.5.アンド6」と結びついて印象に残っているんです。と言ってもこのアルバムにはタンジェリンは入っていません。 演奏としてはほかのプレイヤー、歌手としてはシナトラの歌が浮かんでくるんですけれど、何か一曲目のセンチメンタル・ジャーニーとかぶってしまってるんですよね。変な話だと思いますけど。 別ので みかんを大写しにしたジャケットのLPもありました。

 取り留めもなく、勝手に書きたいことを書いてます。

 今の時期、デザートに食べる果物というとやはりミカンが欠かせません。 夏は何といってもスイカ。秋にかけて梨の数々。時期が短いけど一番は幸水かなぁ。 20世紀 まだ見かけますけど、流行り・主役は完全に赤梨系に移りましたね。私は昔から赤梨系が好きでしたけど、今の赤梨は昔の長十郎と比べるとみずみずしさ 甘さおいしさが全然違います。 その後は柿。これはもう越後八珍 平種柿 ブランドで言うと おけさ柿 が最高ですね。(原木が新津にあります。)贈り物にしていますけれどお金を出すからもっと送ってくれという連絡が来るほど好評です。 それからリンゴ。これは富士がやっぱり美味しいですね。(寒い時期ではなかったけれど、昔はインドリンゴという名前の赤い大きい甘いリンゴもありました。なんでインドなんだと子ども心に思いましたけれど、遠足に行くとなるとその大きなリンゴを丸々一つ持たせてもらった思い出があります。) そして今の時期は何といってもミカンですね。 輸入もあるので今は、結局年中柑橘類が店頭から消えることはありませんが、昔は夏が端境期で酸っぱくて「砂糖をつけて食べる」という話もあるほどに酸っぱい八朔一種類でした。今は年中あるし、みんな甘いですよね。 春はイチゴでしょうか。 ブドウやキウイ、桃やほかの果物も食べています。イチジクやベリー類は家で育ててもいます。 とにかく、子供にも言っていますが、副食や果物類が切れないように気を使っています。

 何か生活、文化かなぁと思う所有りなので。


2022年5月1日日曜日

お風呂


  身近なところの銭湯が急激に減るというのは最近に始まったことではありません。だからこそノスタルジーの思いで注目もされ、関心を持つ人が取り上げられることも特別珍しいことでもありません。 私の家には”内風呂゛なるものがあったので日常にお風呂屋さん・銭湯に行ったという経験はありません。 大学時代下宿先にはお風呂がなかったので銭湯を利用したことはありますが、小さい時の経験 思い出としては、家のお風呂 椅子洋の形の覆いはしてありましたが水・お湯の中に鎮座している薪をくべる窯が壊れて取り換える時に行ったくらいでしょうか。 それでも、今とは格段に身近なところ町内ごとまでとは言いませんがあちらこちらに銭湯があって小さな子供の足でも行けるところにもあったのを覚えています。 

 私が小さいときはまだ”三助さん゛もいたんですよ。今じゃ落語でも取り上げられなくなったんじゃないでしょうか。合わせた手のひらで最後にぱこーんなんてやってました。 ちなみに、その時交換した家の壊れた窯は赤い土物の窯でした。実際お湯の中だから、お湯の温度以上に極端に熱いということはなかったはずですが、ちょうど窯が割れないように椅子のように多い保護していた内側の窯に手が触れないか足が触れないか心配で気が気じゃなかった覚えがあります。 もひとつ“ちなみに゛今では(その後という意味で)温泉につかるとき・湯殿に入るときに腰にタオルを巻いたりあえてしなくなった私ですが(たまにかえって気になるくらい必死にタオルを引っ張っている人がいるので尚更しなくなりました)いまだに銭湯などでの不特定多数の所では苦手と言えば苦手ですね。 フィリピンから来日した女性が初めて銭湯で不特定多数の前で裸になったときのショックとは比べられないでしょうが。

2021年9月20日月曜日

記念紙誌原稿 洗礼を受ける 8/8

 


   長々と話してきました。 証明や証拠を遠くまで探しに行かなくともと気付くきっかけ、実は意外と簡単なんだよと気付くきっかけについて。 この度4人目の子どもが与えられることになった人が出席する礼拝に送迎し一緒に顔を出した時、そのスタイルのあまりに違うのにびっくり。そこで気付くことが有ったのです。 ある礼拝の帰りに聞いてみました「今日はどうだったの?」と。その返事は「楽しかった」でした。 礼拝で説教を聴いて、為になる有り難いという事は有っても楽しいという表現の仕方を私は知りませんでした。 神の前に頭を垂れ、神妙な様で祈る事は有っても、アップテンポの曲(讃美歌)に合わせて思い切り声を出し踊ることさえある礼拝は私の“礼拝”のイメージを覆してしまいました。 賛美歌を歌う時、見事なまでののコール&レスポンス。 祈り。祝福の時は一緒になって念を送るように手を掲げ、今日ここに再び集えたことを感謝する姿に感銘を受けました。 私はこの一人一人の姿、全体の雰囲気の中で「これでいいんだ」と改めて気づかされ確信しました。 私は ずっと自分に対してもまわりに対しても納得させる“証拠”を探していました。神の姿を求め声を求めていました。でもほんとは、ただひたすら感謝すればいい。生ある事今日ここに来れたこと、家族のこと仕事のこと、理由を付けたり説明しようなど考えずに、ただ喜び感謝すればいいのだとこの姿に接して確信しました。 自分を納得させるに足る証拠を探すではなくただ感謝すればよかった。 今は、様々な経験をすることによって証明を求めるのではなく神を感じるようになったことを感謝し子どもの名前を考えています。

記念紙誌原稿 洗礼を受ける 7/8

 


   以前は、教会 教会員に 聖書に 証明を求めていました。 この神は信じるに足りるか 頭を垂れ洗礼を受けるに足りるか、教会に集う人達は と証を探し求めていました。   「私の身には重すぎる荷です」と取り去ってもらう事を神様に願う日々の後、救いを求め悩み苦しんでいる人と話す機会が有りました。その人は私なんかより“知識”も探求もしてきている人。何年にもわたり様々な宗教宗派を回ったその人は、一つ一つを比較し納得できる証拠を探し証明を求めていました。けれどいずれにも良いところが有り足りないところが有り、結局どれにも決められずにいました。 この どんぐりの背比べ状態に陥ってしまった人との出会は私に一層の確信をもたらしました。 なぜ“信仰を持っていても”受洗まで到達できないのか。それは、自分を納得させるできる証明・証拠を見つけようと探すからかじゃないかと思いました。 神のことを調べる証拠を見つけようとする行為、したくなる気持ちは良く理解はできます。でも今は、神 証明 証拠 を探すだけの時はだめだと思っています。証明を探す行いから始まってもいいけれど、「そんなものどうでもいい」となった時に、洗礼を受けられる(身に付く)のだ。」と思うようになりました。 人知を超えたところにある神の計画 人間の時間軸を超えた神の計画の前では、人間の知識 時間だけでは説明しきれるはずがないのです。 身体でも気持ちでも何か重荷を架せられる“棘”を与えられてこんなことを考えるようになれました。

記念紙誌原稿 洗礼を受ける 6/8

  


   辛い時、このような時こそ教会へ行かなければ という考えはほんとによくわかるんです。そうしようと思いました。 けれど、しなければ しなければ に取りつかれ、とにかく強い疲労感。“いかなければ” “しなければ” に取りつかれてまた疲れてしまう悪い繰り返し。

 で、これではだめだと 思い切って逆の発想「日曜はどこにもいかない、家にいる」と週に一度は完全休養を取ると決めました。それで気持ち的にはずいぶん楽になりました。 それでもいろいろ気になる、何も考えない とはなりませんでした。このころはずっとこんなでした。 終わりが見えないままにそうこうしていたら、教会から週報が送られてくるようになりました。ある教会員から「近くに、籍はあるけれど教会に通って来れない人が居るから家庭集会に場所を貸してくれないか。」と言う事で家庭集会を行うようになりました。

 私が行かなくなったら向こうから 教会の方から来てくれた。行かない時は神様の方から出かけて来てくれる、と神の執り成しを感謝しました。 それで気づきました、神は最初からここに居てくれた。探しに行くのではなく、ここいてくれることに気づくことが大切だったんだ、と。

記念紙誌原稿 洗礼を受ける 5/8

 


   習いもので知り合いが増え、新しいことを知る喜びを思い出しました。そして、だんだんいいおじさんになっていたのでしょう。周りは若い人ばかり。でもその人たちの方が、技術的にも経験もルールにも詳しいのです。見て聴いて、教えて 助けて と頼むわけです。 昔を知る人に「昔と随分感じが変わった。」と言われたことが有ります。「助けて」と言えるようになったからかと思います。 ここへ到達するまでの辛い日々、もし私がクリスチャンでなかったら今こうしていなかったんじゃないかとほんとに思います。 神様は支えでした、救いでした。信仰を持つ大切さ、いざという時に頼れる教会・教会の人達の存在。“神”を感じ、確信が深まったのもこの経験があったからだと思います。 以前の私なら、問はれれば知識として神はこんな奇跡を起こしたと説明したと思います。目に映り耳に聴こえても認識できなければ意味がありません。ですから知識はあった方が絶対いいと思います。 けど知識さえあればいいというものでもありません。知識として証拠を示すだけでなく、それがなくてもと感じられるようになったら、などと言っている今の私は、知識を求めている人にとっては満足してもらえる説明はできなくなったかもしれません。私がどのように生き生活をしてきたか、どう救われ変わって来たか・・・  そして今あなたの前に居る、という話はできると思いますが。

記念紙誌原稿 洗礼を受ける 4/8

 


   その後の出会いで子どもを与えられ、楽しく幸せな日々を送ることができました。長女 M 長男 Aの名前を考えたのはこのころでした。その後次女 Mを与えられ、Mと言う名前を考えたのもこのころでした。 ところがその家庭がまた新たな試練の元となったのです。神様はまだ足りないとさらなる試練を私に課してきたようです。 良かれと思うことが、子どもは別としてなんとも反応してもらえず徒労感でいっぱいに。あちらのお爺さんが亡くなり年を置いておばあさんお父さんが亡くなり、実家のお母さんを一人にしておけないとほぼ毎日家を空ける状態に。私の方は再度の転勤後の上司との関係で体調を崩し。中学進学したばかりの長男と高校受験の長女の面倒を見る。ほんとに精一杯でした。 結局私は5人で暮らしていた広い家に1人きりの生活になってしまいました。もともと体調が悪いところにこの激変、対応しきれず大変でした。 休職後、仕事を終えて帰って来ても明かりがついていない、火の気のない冷え冷えとした屋内。そんなところに帰りたくなくて、ほぼ毎日何らかの習いものかサークルに寄ってから帰るようにしていました。わざと遅くに帰って、夕食兼翌日のお弁当のおかずを作り、食べたらすぐ横になるという、決まった流れの毎日をただ繰り返していました。考えずに済む決まったパターンで毎日をやり過ごしていました。演劇・台本の役を演じて自分を休ませていました。辛かった。  

記念紙誌原稿 洗礼を受ける 3/8



大学では社会保障を学びました。 教会、礼拝は大学の教職員も通う教会に行きましたが何か物足りなさを感じ、他に何カ所か行ってみたもののなんとなく足が遠のいてしまいました。 初めて親元を離れての大学生活、その後の学生生活は今思えばせっかくの機会をと思うことも多々ありますが、読みたい本もいっぱい 興味のある事 やりたいことがいっぱいありました。 “解放の神学”の動きには大いに惹かれました。クリスチャンとして、教会の外 社会で何かしなければ、と考えました。「科学とヒューマニズム」という言葉も印象に残っています。 実際の所は、想い先行でどれだけできたかという所ですが。何処へ行っても何を話してもクリスチャンとして というこだわりは持っていたつもりです。 

卒業、そして就業・社会へ。大学を終えて進んだ先は医療の世界でした。 神様は、そんな学生時代を経た私に気づかせようとでもしたのでしょうか。今に続く“試練”が始まりました。 社会人になるとやはり違うものです。学生の時から準備してきた人でさえ最初から問題なくという事は無いんでしょうが、社会人としての自覚も不十分・学生時代の延長で来たような私は周りからどう思われていたでしょう。人との付き合い方も、学生時代のような会いたくない人とは合わなければいいなんてことは通用しません。もちろん仕事は覚えなければいけません、上司 同僚 職場には様々な関係が有ります。まわりと同じようにふるまえていない私を感じていました。全部だめというわけではないんだけれどちょっと違うかな。そんなつもりじゃないんだけどな、と。 社会に出て早々の様々な体験で、この後の数年は身体的にも精神的にも大変でした。 でも何とか耐えられえたのは、やっぱり帰るべきところは教会 踏みとどまれたのは教会、とはっきり思えました。 

記念紙誌原稿 洗礼を受ける 2/8

   


   話し戻って。 今思えば、何だったんだろうと思うばかり、経緯を思い出すことさえできませんが。中学3年の時に一度洗礼を受けたいと申し出たことが有りました。 その時は、申し出ては見たもののその後牧師の方からも私の方も、次どうするか具体的な進展を見ることもなくうやむやになってしまいました。「中3」という事を考え併せてみると、受験を控え、初めて自分の方から“何かに”と意識した結果の出来事だったのかもしれません。

 高校入学後、ラグビー部に入部。並行して聖書研究の集まりにも顔を出していました。多くの人と語り合い、“知識”としても聖書を読んだと思います。 母 T(Y)は、とにかく私の願いをかなえることを第1にしてくれました。それに対して感謝するでもなくわがままで知識ばかり増やしていた私は、入学の時の「あなたがここを選んだのではなくて、神様があなたを選らんでここに居る。」という言葉の深さを理解しないままに、高3になった41日の礼拝で受洗しました。 当日、無事洗礼が終わり皆さんに紹介という事で、振り返った時「失敗した!」と身体が熱くなりました。これまで洗礼を目標にいろいろやって来たけれど、受洗がゴールではなくてスタート。洗礼は、確かに大きな節目ではあるけれど、クリスチャンとしての生活・人生はここからなんだと気づいたのです。 この時のことはよく覚えています。これが初めてどこにも書かれていない何か得体のしれない大きな存在を感じた瞬間でした。

記念紙誌原稿 洗礼を受ける 1/8


   創立135年記念に発行される「K」誌の原稿です。加筆も考えましたがだらだら長くなるよりは一つ一つのエピソードは別の機会にもっと豊かにした方がいいかと思い、一部修正で掲載します。 わかりにくくなったかもしれませんが。

 

今年、実に24年の間を開けて4人目の子どもを恵まれました。(縁あって5年前に良き伴侶を得て。) もともと子どもは4人を望んでいて、真理を喜ぶ で MAKI 神の証人 で AKASHI 真理の言葉 で MAKOTO、そして4人目には 真理の名前 で MANA という名前を考えていました。 広く周りに 神を示す 明らかにする、伝えなさい 神様のために働きなさいよ と言う想いで考えた名前。意味有る良い名前であるのは間違いありません。  

けれど今は新な想い 発想で4人目の子どもの名前を考えています。 いろいろあったから… 私も変わったなぁ と考えています。

 私はN教会付属のS幼稚舎に通い、小学校に進んでからも祖母 Tと一緒に日曜学校に通っていました。祖父 Sは、無教会派だったこともあるのか欠かさず礼拝にということは無かったように記憶しているのですが、私が教会から帰ると何時も大きい缶の蓋を開け“ロシア・ケーキ”だったのでしょうか普段目にするものより大きいクッキーを一つ選ばせてくれました。楽しく思い出される いい思い出です。 中学校に入ると、日曜学校に通う中学生自体が少なかった上に男子は私一人だけ。教会に行って誰かに会うとか教会に行って何かをするというような事も無く、なんとなく足が遠のいてしまいました。 そのころの礼拝説教はまさに聖書研究。聞く人が聴けば非常に意味のある話だったのでしょうが、中学生の私には全然面白くない時間でした。そんな私でしたが、祖母のTは毎週必ず日曜礼拝に誘ってくれていました。

 話は横道にそれます。 そのころの教会は祖母も含めて名物おばあさんが幾人いました。みなお気に入りの席が決まっていて、そこで説教を一言一句ノートに書き留めているのです。祖母のノートを見たことが有りますが、縦書きでびっしり書き留めているそのノート「これほんとに後で見るんだろうか」と感じた覚えがあります。

2021年2月27日土曜日

 “頂きもの” という言葉の生きていた時代



昔々… 毎日()の子どもの お八つ は手作りでした。 思えば結構手の込んだものまでも、手間をかけて自分の家で作っていたものだと思います。 もちろんの事 家ごとに違いが有りました。何処の家でもどの地域でもと言うわけではもちろんありません。お八つそのものが口に入らない家庭も、おにぎりだったり蒸かし芋だったりいろいろだったと思います。 けれど今と違うのは、子どもの日常()のお八つを、今の様にお店で買ってはいなかったという事。もちろんお店も有りましたし、買うという事がないわけではありませんでした。 でもそのころお店まで行ってできているものを買うというのは日常ではない特別な行為=ハレ だったと思います。今とは商品(子どもの好み・流行)も今とは大きく違いましたし。

そのころは、お客様からのお土産→頂きものは一度仏様にお供え。そこまで行かなくとも、お客様をお通ししたお座敷の床の間に一度上げて、後でお下がりを頂くという、今となると奥ゆかしい所作の生きている時代でした。 じゃぁおもてなしはどうしたか。 気楽にふらっと。日常の近所づきあいと言うのももちろんありましたし、それは今よりもっと自然だったと思います。でも 気持ち新たにおじゃま(御邪魔)する、お客様を迎えるという“ハレ”となると双方手順を踏み、迎える側も準備をしてお迎えをするわけなので、手土産・お土産 頂きものをすぐ開けるという事はしませんでした。 ただ全くないわけでもなく、そんな時は 御持たせを頂きます と断って手を付ける事も無かったわけではありませんでしたが。 そんな時代でした。