縁でしょうか。
知り合いが出ているということで、そんなことでもなかったらおそらくは観ることもなかった一本の作品を観てきました。
もちろん同時代を実体験しているわけではないけれど、いろいろ見聞きした、自分でも思いの及ぶ物事、景観が、“映画”としてまとめ上げられていました。 ドキュメンタリーではないので、脚色があるわけだけれど、独りよがりに落ち込まず、力足りず映像で説明しきれないものを台詞で説明するということもありませんでした。
脇役も、粒がそろっていました。大正末から第二次世界大戦前のころという時代背景で、社会背景、女性、母一人子一人の今よりももっともっと大変な時代、そこでの母親の愛情、人間の知への希求の気持ちが、やさしい人ばかりではない楽なことばかりではないさまざまなエピソードで描かれていました。
声を上げて泣き続けるなどということではないけれど、いくつものシーンでどうしてこんなにと思うほど涙が出てしまい自分でもびっくりしてしまうほどでした。
当時目の見えない人が生きていくために付く仕事としては按摩とゴゼしかなく、女に学問はいらんと言われた時代に、自分のためにも盲学校へ行ってほしいと思っていた先輩の少女が自分のことがきっかけで命を落としあきらめようとしたシーンで(話の展開としてはそれがきっかけで大きく展開するのだが)私はそこに神の存在を感じてしまいました。 その先輩の少女は、主人公を盲学校に導くために姿を変えた神か、あるいは神の命を受けた天子だったのではないかと。
それにしても、女性、特に母親のすごさ、愛情の深さよ。残念ながら、男親はここまで自分を捨ててかかれないのではないでしょうか。
映画専門のブログのつもりではないけれど、もう一つ映画の話題。
私が住むあたりではつい先ごろ公開された映画「サンジャックへの道」。いさかいを繰り返しながらもスペインの聖地への巡礼の道中を歩んでいた一行が、一宿を求めた教会で白人以外の“日焼け組み”は泊めることはできないと言われたとき、精神的にもまさに現代の都会人で足を引っ張る側の人間だった一人が、“私たちは兄弟だ、兄弟は一緒にいるものだ!”と啖呵をきったのは痛快でした。
キリスト教のことを知らない人にはそれ以上の意味はわからなかったかもしれないけれど。
もちろん家族でも、歳も、ましてフランスの白人とアラブ人とが兄弟のはずがないんだけど、キリスト教信者にとっては、神=父の前では皆兄弟姉妹なので、こういうこともありえることなのです。
このシーンひとつでも見る価値を感じた作品でした。
先日、フェアトレード活動を通じてひたしくさせてもらっている人からメールが来ました。
NGO活動の関係で朝私の職場の近くを車で通った時、私を見かけたと。
もちろん私はそんなことを知る由もなく、おそらくは無表情かあるいは厳しい表情をしていたと思うけど、そんな私に、心の中で“お仕事がんばって”と言ってくれていたんだそうです。
私が知らないところで、思いもかけない時・所で私のことを案じてくれている人がいる。
人でもそうなんだから、ましてや神様は、私が知らない時、私が知らないところでもいつも私のことを見ていてくれるということに改めて確信を持ちました。
神はさまざまに姿、時には形を変えて人のことを見ていてくれる、と改めて確信を持ちました。
そう思うと、“悪いこと”はできなくなりますよね。いろいろニュースになる人や出来事がありますけど、その人たちはこうゆう事考えないのかな。 2007・20・28
来年春の締結を目指しているクラスター爆弾完全禁止を支持します。
私の愛する日本にも、日本政府にも批准してほしく願っています。
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