2020年6月27日土曜日

“時間”を計る

    先に東京スカイツリーで行われた実験は“時間”にこだわりのある私としては改めて思いをはせるきっかけになりました。 実験そのものは、アインシュタインの一般相対性理論の重力の強いところでは時間がゆっくり流れる をより日常の尺度で捉える、地上と人工衛星と言う尺度ではなく地上とスカイツリー展望台の高度差ででもとらえることができるかで行われました。 この技術をもって将来、プレート活動や火山活動による地殻の変化の把握につなげたいという事です。

    備忘録として

「秒」を計るとは

周期現象(振り子運動)を図ることで行われる。 前提として、正確な周期現象を見つけることが必要。 その見つけ出した正確な周期現象を測定する技術が必要不可欠。

秒の「再定義」

かつて時は地球の自転・公転を基準としていました。 けれど地球の自転・公転は変動していることから、1967年にセシウム時計を基に「秒の再定義」が行われました。

 このセシウム時計は1955年にイギリスで発明されました。 発明後さらなる精度の向上が図られてきましたがその限界も明らかになり、1980年ころからセシウム時計に変わるものの研究が進められ。2001年、ストロンチウム原子を利用しての光格子時計が考案されました。 このストロンチュウム原子を利用した時計・技術は2014年になると、宇宙の年齢とされる138億年を超える160億年でも1秒しかずれないという精度を実現しました。 その後このストロンチウム原子を利用しての光格子時計は、構造が複雑で大型 測定方法も複雑で時間もかかると言う所の改善が図られ、現在では正確な測定方法の簡略化 小型化が図られ持ち運び可能なところまで到達しました。

 

    と、ここまでが備忘録的な内容になるのですが、私にとっては人の時間に対する感覚 正確さの必要度が歴史の変化(進歩?)と共に変わって来たんだなぁと感じるエピソードでもありました。 今から60年も前の話、日本の海外医療支援の先駆者 岩村昇医師にまつわる話・エピソードが頭によみがえってきます。次の満月まで 次の朝まで この花が枯れるまで ・・・。 人・人類の地球の外にまで広がる関心は実際に宇宙にまでその歩みを進めました。そこではより一層の正確で共有のできる時間・時計が不可欠でした。ですから今までの変化“進歩”は当然の帰結だったのでしょう。 でも私思うのです。今の技術の世界、必要とされ到達している技術の話からすれば、私の言っていることは ポエム の世界・時代の話なのかもしれないけれど、人と人との関係 人間・人生のことを考えると最先端の技術が到達した時間、その考え方とは別の時間が同時に有って、それはいまだに大事なんじゃないかなって。 こんなことを思ってしまうのです。

2020年6月20日土曜日

尺度を変えてみてみると

   写真を日常普通に撮る時とは違えて高速シャッターで映してみると普段の生活では見えなかったものが見えてくる、逆に低速(長時間)シャッターで映してみると見えなくなるものがあるという事を書いたことが有ります。そのことを念頭に。

 国立天文台フェローの泉拓磨さんが、交通遺児育英会の「君とつばさ」第344号に「銀河とブラックホールの不思議な関係を探る」と題して書いたものを読みました。「~アインシュタインが一般相対性理論の中で、ものすごく重い物体が無限小のサイズに押し込められると、空間がすごく歪められ、その歪みがある一定量を超えると、光ですら脱出できなくなる、と論じているのがブラックホールである。~」という所が、別に気にするような事ではないのかもしれませんが、私だったらここは別の言い回しにするかなぁその方が解りやすいかなぁなんて事を思ったりしていた時にふとブラックホールとは“状態”なの“物・天体”?どちらなのなんて事が気になったのです。(調べてみましたら、天体という位置づけになっていました。) 

  動かざること山のごとし の山とか大陸とか星(天体)と言うのは普通には動かない変わらない物という事で話されるイメージ。 けれど地球の歴史の中では大陸は移動していましたし、星 例えば北極星だって5,000年前には別の星・天体がその役割を果たしていたという事ですので、地球だって星々だって動いているし変化しているとわかります。 ただしその変化は“一人の人間の一生”という時間尺度で区切って見てみると、北極星=動かないとしてしまうのは別段おかしなことではありません。(余談かもしれませんが、そういう人間の一生という時間では変化が見えない感じられないような時、人知を超えた事象に対して永遠とか無限という言葉を当てるのかな等と思ってしまいます。)

そこで最初のシャッターの話、この場合は低速(長時間)シャッターにつながるのですが。

  人の一生というような時間尺度ではその変化が見えてこない例えば天体のようなものの場合、逆に低速シャッター・長い時間幅に尺度・物差しを変えてみるとブラックホールも違った姿でとらえられてくると思ったのです。 位置づけ・定義では天体だけれど、視点を変え見ると動きのある“状態”という言い方もできると。 天体は(宇宙 星の一生)一人の人間の一生という時間尺度では測りきれない時間軸で動いていますので永遠とか無限という言葉を使いたくなるけれど、138億年と言われている宇宙の歴史の中では間違いなく変化して来ているわけなので 途中経過として“今の状態は…”と言ってもいい、この記事を読みながらこんなことを思っていました。

 ま、これだけと言えばこだけのことなんですけど。


2020年6月17日水曜日

時間は流れる 日常は非日常が見せてくれる




誕生日 子供の誕生日を祝うというような一日では無くなってしまったけれど、それでも年に一度の節目としてその日が近づいてくると、以前に比べれば先を見るより振り返る方が多くなった気がしていますがいろいろに思ってしまいます。 そんな時、何の弾みか映像として昔の振る舞いが思い出され身体が熱くなる事を繰り返しています。 私(人間)の一生なんてつかの間もつかの間、人類の歴史 地球と言う衛星の時間から見ればほんとにわずか過ぎる時間。けれどそれほどの時間でしかなくとも、当の私にとっては山あり谷あり様々な出来事にまさに翻弄されてきた日々でした。 あの時別の選択をしていたら あの時別の言葉をかけていたら… 。別の選択をしていてもそれが正解だったかどうかは何とも言えませんがそんなことを思います。 私の人生においてこうしてこれまでのことを振り返る事ができるようになったということは、それだけの人生・時を生きてきた。その間確実に“時”が流れていたという事だなと思いました。 経験を重ね時間が流れ過ぎたので、今“その時”を振り返られるようになったという事だと思っています。 加えて、その後さまざまに学んだことの一つ“気質”と言う言葉が自分自身の理解を深めてくれています。
こんなことを考えるようになれたという事は、人生を重ねほんの僅かばかりでも変わって(成長して)来たという事かと思っています。 これまでを思い出すと身体が熱くなることがたくさんありすぎますけれど。 



重機を使って掘られた長方形の“穴”にCOVID-19 の感染爆発によって亡くなられた方々が、脳隊袋に収められたまま防護服を着た人達によって埋められていきます。 そこには亡くなった人のために泣く人はいません、弔いの式はありません。 その様は、()争いによってあまりにも多くの人がわずかの間に命を奪われ亡くなってしまったものだから、一人一人の死を悲しむことを忘れてしまった時と似ています。人が死ぬという非日常が日常になった時と同じように映ります。 感染を防ぐためとはいえ、最後のお別れをすることも許されずお葬式を行う事もできません。今は 常ではなく異常 日常ではなく非日常 なのです。

2020年6月13日土曜日

アベノマスク


アベノマスクが今頃になって届きました。   今更カビや異物混入騒ぎの有ったアベノマスクを身に着けようとは思いません。 ほんとに大変な時に何の手も打てず、この期に及んで顎が露出する程に小さいマスクを一家族何人いても2枚で送って来るなんて、これが400億もしたマスクかと手に取って改めて思います。 

医療現場での予防衣や医療用マスクに関しては今現在の正確な情報は持ち合わせていないのですがひところ盛んにニュースで取り上げられたのがすっかり落ち着いたので推して知るべしという事でしょうか。 それはさておき、日常遣いのマスクの入手困難な状況に関してはほぼ改善の様です。以前のような不織布のマスクが一枚10円とか20円からと言うところまではもう少し差がありますが、量的には問題なしになりました。マスクなどとは全く関係のなかったお店のマスクでも見つけたらとにかく買うという状況ではなくなりました。今後は薬局(部門)など以前から扱っていたところ以外は淘汰されていくと思います。口や鼻につけるもの(呼吸する)、それが汚れていたら身体に良くないのは当たり前。その判断(信じる)はマスクを以前から扱ってきた薬局や医療材料扱い店かどうかというのは大きいですから。
    遅いし(今になって)小出しだし(一家族に小さいマスクがたった2枚だけ)ほんとに急がれる生活保障 文化や営業への支援が遅々として進まない。この困難な状況を乗り越えるために力を合わせようという思いでの指摘に際しても頓珍漢な対応しかできない安倍政府。この状況を乗り切る一番の障害はコロナ・COVID-19 そのものではなくて首相としての安倍さんだと思います。