聞いた時さすがにこれは言い過ぎじゃない!?と思った、就任早々の菅首相に対しての静岡県知事による「教養がない」発言。その後をいろいろ見ていると、総じて間違いでもないという事がわかってきました。 選挙戦術として本人が、苦労人だとか庶民派だとかの言葉を利用できる家庭環境だった。これは本人がそういう環境を願って生まれてきたわけではもちろんありませんが、生い立ちに大きく影響したでしょうね。 就任早々の日本学術会議会員任命拒否問題を思うと、社会や集団のルールやマナーを理解し尊重する態度が正しく身についてきていなかったという事を感じます。 首相にまでなったわけですから、努力によって 地位も名誉も 獲得したのは間違いないでしょう。過程で、文化教養博識も獲得しようと努力したでしょう。 そこなんです。 社会学者のブルドューの研究によると、人は意識以前、生まれながらに身につくものがあるというのです。もちろん後天的に、努力によって社会的な地位や名誉そして知識 生活は獲得できるのですが、それでもどうしても超えられない変わらない物があるのだというのです。年収だとか役職だとか何処にどれくらいの家に住んでいるか趣味嗜好は等具体的なことでも調査すると、その傾向でグループ付けができるというのです。 その説明に接して私は社会・ソーシャルと言う言葉が浮かびました。 日本学術会議会員任命拒否問題への対応を追ってみると、まさに生い立ち・生育環境から獲得してきたもの、社会的な経験がこの度の対応には出ているなぁと感じたのです。 首相と言う社会的立場でこの場合はどういう対応がふさわしかったのか。菅“首相”は社会的・公的立場での対応が求められたときに自分個人の規範 解釈で対応してしまったのです。
だから、“国会と言う公の場”で“首相としての対応”を問われた時に、つじつまが合わなくなってしまったわけです。もともと伝える練習をしてこなかった菅さん、自身でも満足に説明できなくてさぞ頭を抱えたことだと思います。で結局
口を閉ざす。 そして、陰でやっていた事がだんだん公になって追及されても、失礼で誠意のない対応しか取れず今に至っています。 この国難の時に。
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