2019年5月27日月曜日

始めはだらだらと見ていただけだったんですが

先に 新たにゲームも依存症に加えられたことはご存知の方も多いことと思います。関係
の近いところで心配になるような人が幾人もいるのでゲーム依存症のことは気になりますし他人事とは思えません。 
この間()実際忙しくて疲れていた(先週の体育祭のような気持のいい疲労感だけではなかった)せいもあって文章をまとめ上げるという気力にかけるところがあって、ちょっとした時間を活用して取り掛かるとならず漫然とYouTubeを見続けていました。 履歴からなのでしょう、よくまぁ次から次へと私が見たくなるようなのが出てくると半分感心半分寒心の気持になります。時々、こんなの見ないよと思うようなのも出てきますけれど、これは指が触れてしまって再生された物のせいか様子見でたまに混ぜるのかなと思うようなものもありますが。
そんな中、一部が紹介された物を見て前にも書いた・紹介した物ですが、以前自主上映で観たベトナム映画「無人の野」の完全版が今回出てきました。作風は、フランスとか東欧のスタイルに似ているかなぁという印象。 作品は、米軍が“無人”にしたはずの地域に生活し続けるという事が直接的に意味を持つ、それを自身で認識できる。もちろん戦争状態ですから、私が言うようなもんじゃない危険で困難なものなのは当然なのですが、今の日本で人生の目標を見いだせない 自分自身の存在意義すら見失ってしまう日常から見ると大きな違いが、というようなことを書いたかと思います。 こういう意味合いでいうと、これも以前紹介したレンタルショップでも見かけないし今の所YouTubeでも出て来ない「ノーマンズランド」という作品も忘れられません。紛争地帯に設けられた誰もいないはずの安全地帯、そこで出会ってしまった敵対する兵士達。味方に見つけてもらえるよう見通しのいいところに立てば争っている相手から撃たれてしまう。そこで考え出したのが、二人ともが軍服を脱ぎ捨て素っ裸になること。どちらも、味方の兵士なのか敵兵なのか区別がつかず撃つことができない。 服だけ!  敵か味方か 結局そんなことで見分けている。“人間”同士としてはどうなのか考えさせられた作品です。  だらだらと見ていただけだったと思うんですが、そんなことを思わせてもくれました。

2019年5月16日木曜日

痛快 笑いの力 紹介  その弐


納骨()を終えました。 行き違いから延び延びになっていた母と、亡くなったのがこの2月だったので内心少し早いんじゃないかなとも思った父のお骨を収めました。  亡くなった時、「頭ではわかるけど・・・」という感は持ちましたけれど、いざお骨を墓に収めた時「これで何もかも終わりなのかな」という思いに駆られました。

 そんなこんなでしたので、こんな時こそ“笑い”が必要と自分に言い聞かせました。その壱 の後のその弐もありましたしね。 ただしこの笑い、どうも 明るくスカッと笑いきれない感じなんです。でもせっかくですから紹介しておきます。



「アベノミクス」の巻 → 「安倍 のみ クスッ」

 「アベノミクス」 現状は安倍首相だけ、安倍首相の取り巻きしか笑えた状態ではありません。 でも 陰でこそッ クスッと笑っているところが目に浮かびます。 安倍首相は(いくつもの国で破綻 行き詰まりの憂き目にあった新自由主義の発想)「トリクルダウン」なんてことも言ってました。でも安倍首相・取り巻き以外にはいつまでも滴って来ません。欲深な人間 が一度手にしたものを手放すわけがなかったのです。知っていながら何か口にしなけりゃとアピールしたのか、いやもしかしたら、安倍さんはほんとに知らなかった よそでの失敗に学んでいなかったのかもしれませんが。



3本の矢」 「新 3本の矢」 の結果がいつまでも出ない、何年たっても道半ばの言い訳の巻 「道半ば」 → 「バカな道」

安倍さんが提唱した「3本の矢」 その結果がいつまでも出ないことで新たに打ち出したのが「新 3本の矢」。 ところがこれも成果が上がらない、それで言い訳・口にしたのが「道なかば」。  下から読んだら「ばか な道」。 安倍さんが、問われて「道半ば」と言い訳していたのは私も知っていました。でも下から読むと「バカな道」になるとは思いもしませんでした。確かにそう読めるし、実際の所提案していることその結果・成果のほどに目をやるとそういうふうなっているし、安倍さんが自分で言ったんだけど、見事に言い当てていてびっくり。最初にこれ気づいた人 偉い!

2019年5月3日金曜日

寛容 互いを尊重し認め合うところに平和があり繁栄がある


()にあることのうちのどれほどのことを表せているんだろうなぁと思います。 でも、伝えきれなくてもこんなことを想っているという事だけでもと思うのです。



世界・人々が “寛容” という言葉を忘れてきているのではないかと案じています。 

直接に間接に 長きにわたって将来への希望を持てない日々を強いられ続け、持てる者ともてない物との差は大きくなるばかり。  なお悪いのは、その言動・人間性から本来なら居られない・居てはいけない人が“責任ある立場”に居、影響力を持ってしまってい事。

本質から目をそらすため敵を作り出す、早い遅い 多い少い 強い弱い 上下 様々に本来なら根拠にならない理由付けで名前も顔もある個人の存在を消し集団を作り上げ人を煽り立てる。それがまた新たな軋轢を生んでいく。 争いは、異なるものを強引に一つにしようとする過程で争い起きています。違いを認めない、共存ではなく排除、力で解決しようとするところから起きています。

人は様々、立場も様々。自分に言い分があるように相手にも言い分があるのに、自分の方が正しい(自分だけが正しい)だから相手をやっつけるのは正しい事、使命だとさへ自分を正当化しているのが今の様々な事件の首謀者ではないでしょうか。

異なるものを無理に一つにしようとするところから軋轢が生まれています。歴史に学べば、互いを尊重し認め合うところに平和があり繁栄があるという事がなぜわからない!と思っています。



先日の説教に テトスへの手紙 が引用されました。 その際何とはなしに引用された箇所の先まで読み進むと、3章の9(11)に「愚かな議論 系図の詮索 争い、立法についての議論を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。」とあるじゃないですか。 先に書いた通り 皇紀 の数え始め根拠については大きな疑問符が付くけれど、このテトスへの手紙について(西暦の方は)はまさに聖書の時代からすでにこういう事()はあったんだなと先見性()変わらぬ人の愚かさ()に驚かされました。