2019年5月3日金曜日

寛容 互いを尊重し認め合うところに平和があり繁栄がある


()にあることのうちのどれほどのことを表せているんだろうなぁと思います。 でも、伝えきれなくてもこんなことを想っているという事だけでもと思うのです。



世界・人々が “寛容” という言葉を忘れてきているのではないかと案じています。 

直接に間接に 長きにわたって将来への希望を持てない日々を強いられ続け、持てる者ともてない物との差は大きくなるばかり。  なお悪いのは、その言動・人間性から本来なら居られない・居てはいけない人が“責任ある立場”に居、影響力を持ってしまってい事。

本質から目をそらすため敵を作り出す、早い遅い 多い少い 強い弱い 上下 様々に本来なら根拠にならない理由付けで名前も顔もある個人の存在を消し集団を作り上げ人を煽り立てる。それがまた新たな軋轢を生んでいく。 争いは、異なるものを強引に一つにしようとする過程で争い起きています。違いを認めない、共存ではなく排除、力で解決しようとするところから起きています。

人は様々、立場も様々。自分に言い分があるように相手にも言い分があるのに、自分の方が正しい(自分だけが正しい)だから相手をやっつけるのは正しい事、使命だとさへ自分を正当化しているのが今の様々な事件の首謀者ではないでしょうか。

異なるものを無理に一つにしようとするところから軋轢が生まれています。歴史に学べば、互いを尊重し認め合うところに平和があり繁栄があるという事がなぜわからない!と思っています。



先日の説教に テトスへの手紙 が引用されました。 その際何とはなしに引用された箇所の先まで読み進むと、3章の9(11)に「愚かな議論 系図の詮索 争い、立法についての議論を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。」とあるじゃないですか。 先に書いた通り 皇紀 の数え始め根拠については大きな疑問符が付くけれど、このテトスへの手紙について(西暦の方は)はまさに聖書の時代からすでにこういう事()はあったんだなと先見性()変わらぬ人の愚かさ()に驚かされました。

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