2020年7月31日金曜日

受ける印象 1/2

HSP(Highly Sensitive Person)

この言葉は、1996年にアメリカの心理学者エレイン・N・アロン博士が提唱した概念だそうです。 1996年と言うと20年とちょっと。20年と言うとまだそう昔という感じもしませんが、自閉症と言う言葉も60 70年ほど前の事。今ではすっかり当たり前になった“発達障害”と言う言い方だって何時頃からだったでしょう、それほど昔じゃなかった気がします。 事程左様、様々に観察 研究が進み新しい概念が提唱されています。言葉、言葉遣いもより配慮されてきました。障害の“害”と言う文字、より配慮された言い方 表し方を模索するように。 

 HSPには4つの特徴が有るそうです。4つの特徴=DOES

D(Depth=深く処理する)  

O(Overstimulation=刺激を過剰に受けやすい・感じやすい)

E(Empathy= 共感力・共感性が高い)   

S(Subtleties=気づきやすい 感受性が高い)

場面で言うと、怒っている人が怖い(直接自分に対してでなくとも) 周りの人の気持ちに気づく 友達・周りの顔色をうかがってしまう 教室に居ずらい、空想が大好き 匂いや音などに敏感 等々。 5人に一人が該当するとされているようです。もちろん、全員がすべての項目にとは限らないでしょうし程度の差もあると推測しますが、5人に一人と言うと20%という事、これは大きな数。

以前だったら、このように取り立てて定義づけられなかったかもしれません。 集団として20%というふうに取られることもなかったでしょう。それで、言葉から受ける感じもずいぶん配慮されている感じがします。 

公益財団 日本学校保健会の冊子「学校保健会」に掲載されていた記事より

2020年7月11日土曜日

流言=重要さ×曖昧さ


数学や物理を見ていると、なんでも式に置き換えられるんだなぁ 公式という物があるんだなぁと思います。とはいってもまさか“デマ”(流言)なる物にまで公式があるとは知りませんでしたが、たまたま目にした「流言とデマの社会学」廣井修著を紹介している一文に、流言=重要さ×曖昧さ という公式を見つけてそう思いました。
流言=根拠不確かなまま拡散される情報 つまり、その人にとって その時の重要な事柄に対して不確かあいまいな情報しか示されない時に生じる根拠のない噂話(デマ)を流言と言うという事でしょうか。 
 今欲しいというタイミングで必要な情報が示されない時。それゆえに情報が欲しいという要求がより高まり、その渇望感から根拠不明確な情報だとしても取り入れてしまう。人は自分が聞きたい事を聞き 都合のいい情報を選択してしまうものという所に、今の個人でも情報発信の手段を複数持つ時代・社会で、当人は“善意”のつもりでもるといいかげんな噂・デマを広めてしまう当事者にもなってしまう危険性が増しています。 
流言の持つ機能 役割 という物も解説されていました。 社会を混乱に陥れる「社会的逆機能」。流言蜚語という事になるでしょうか。 恐ろしいと思うのは、これまで幾度も繰り返されてきた、“治安維持”の名目で流言を利用して人・社会をコントロールしようとする動き、その機能。 だからこそ遅れることなく正しい情報開示が必要という事だと思います。
 これまでの科学・技術の進歩は功罪両面、必ずしもイコール人類の幸福にはなってきませんでした。 デマがどのような時に生まれるのか。混乱期の感情的高まりの発散=噴出
 ただし発散することで終わることも多くて、発散が必ずしもパニックにつながるとは限らない という事も紹介されていました。 
 この公式ですっきりしました。けれど、じゃあそれでどうするか。 情報は適切なタイミングで正しく伝えられなければならないと改めて認識しました。ひとたびデマが流され誹謗中傷がなされた時私たちはどのような行動をとるべきなのか。 一見あふれているような情報も実はコントロール下にあり、個人情報を収集されている社会。こちらはスッキリしません。 それでも、ここ4050年の新自由主義の弊害がCOVID-19 下噴出している今まさに、正しい情報を手に入れ正しい選択をすることがこれからを左右する時だと感じています。

2020年7月4日土曜日

安倍さん(政府)主導の強盗キャンペーン  んん⁉

COVID-19 (対策) それに起因する経済対策も安倍さんが、自分がらみのいくつもの不正の追及を恐れて国会をわざと開かないものだから、この大変な時期 遅いうえにただでさえ足りていない対策が取られていません。 今回が初めてではありませんが、この時期に何で国会を閉じるんでしようか。

 少し旧聞になってしまいました。 延長することなく先ごろ閉会となった国会の審議の場で“語るに落ちる”とはこういう事か、というやり取りが有りました。 事は、安倍政府がCOVID-19 がらみで観光需要を喚起するために打ち出した「GO TO キャンペーン」の審議 やり取りの場で起きました。(これが補正?!と言う規模の補正予算から資金を捻出) 事も有ろうに、当の安倍さんがゴートゥーキャンペーンと言うべきところを ゴート―・強盗キャンペーンと答弁してしまったのです。 書体・書き方もあると思うんですが、ローマ字読みをすると確かにGO=ゴ(トー) TO=ト()と読めますしその音が強盗(ゴートー)と同じもんだからおお受けしてしまったというわけです。初めてこの「Go To キャンペーン」なる物を目にしたとき思わず私も「なに!ゴート―=強盗キャンペーン?!」とわが目を疑ってしまった覚えがあります。 そもそもこのGo To キャンペーンはその実効性と共に今回も再び安倍さんのお友達・お友達企業に大金が還流する構図が明らかになり批判も多く出され、その意味でもやり取りが注目されていました。 それにしても、当の本人が強盗と言ってしまうとは。 見事な下げでした。

2020年7月2日木曜日

存在証明


世に有名な美術館・博物館はあまたあります。が、車を走らせているとたまにほんの簡易な作りの看板で ○○美術館とか収集・展示している物ズバリの名前を目にすることが有ります。地域性の高い紙誌で初めて知るものもあります。 “美術品”と言う範ちゅうに収まらない、中にはこんなものまで!と びっくりを通り越して感心してしまうような収集物を収蔵しているところもあります。例えば牛乳瓶の紙の蓋とかカップラーメンの蓋なんてものも。 収集物、一枚二枚一個二個ならごみとして捨てられてしまうようなものでも、100  200 300 もっとたくさん。もしかして世界中の、なんてことになれば立派なコレクション。物事なんでも 突き詰めれば物になる 継続は力 という事なんだと改めて思います。 ただし当の御本人は大真面目なんでしょうが家族には収集と思われてきたんだろうことは想像に難くありませんけれど。 

どこまでこだわり続けるかはもちろん個人差・程度の差があるでしょう。でもその思い入れは、何に その何処に 魅了され集めるようになったのかは出会いのタイミングも大きいでしょう。 それにつけても、人はこだわり 集める。取って置きたい 誰かに見てもらいたい と思う生き物だなぁと思います。 「捨てる神あれば拾う神あり」かもしれませんが、何年も何十年もこだわりをもって収集し、持ち続ける。“美しい”と言うのは大きな動機だと思いますが、それだけじゃないところが面白いと思うところ。数がまとまれば、広く文化人類学的価値も生じて来るというもの。 

人生をかけて集めたという物もたくさん有ることでしょう。となると誰かにみてもらいたくなる 認めてもらいたくなる、だって自分の人生 自分の存在証明なんですもの。 私なんかのは捨てるのが苦手でただ何でも取っておくというレベルですが流れは理解できます。



写真のくすり()のミュージアムは個人の物ではありませんが、医学ではなく教育冊子に乗っていたのです。それがきっかけで思った(思い出した)事を書き留めてみました。