2007年10月28日日曜日

縁でしょうか。
 知り合いが出ているということで、そんなことでもなかったらおそらくは観ることもなかった一本の作品を観てきました。
 もちろん同時代を実体験しているわけではないけれど、いろいろ見聞きした、自分でも思いの及ぶ物事、景観が、“映画”としてまとめ上げられていました。 ドキュメンタリーではないので、脚色があるわけだけれど、独りよがりに落ち込まず、力足りず映像で説明しきれないものを台詞で説明するということもありませんでした。 
 脇役も、粒がそろっていました。大正末から第二次世界大戦前のころという時代背景で、社会背景、女性、母一人子一人の今よりももっともっと大変な時代、そこでの母親の愛情、人間の知への希求の気持ちが、やさしい人ばかりではない楽なことばかりではないさまざまなエピソードで描かれていました。
 声を上げて泣き続けるなどということではないけれど、いくつものシーンでどうしてこんなにと思うほど涙が出てしまい自分でもびっくりしてしまうほどでした。
 当時目の見えない人が生きていくために付く仕事としては按摩とゴゼしかなく、女に学問はいらんと言われた時代に、自分のためにも盲学校へ行ってほしいと思っていた先輩の少女が自分のことがきっかけで命を落としあきらめようとしたシーンで(話の展開としてはそれがきっかけで大きく展開するのだが)私はそこに神の存在を感じてしまいました。 その先輩の少女は、主人公を盲学校に導くために姿を変えた神か、あるいは神の命を受けた天子だったのではないかと。
 それにしても、女性、特に母親のすごさ、愛情の深さよ。残念ながら、男親はここまで自分を捨ててかかれないのではないでしょうか。
 映画専門のブログのつもりではないけれど、もう一つ映画の話題。
私が住むあたりではつい先ごろ公開された映画「サンジャックへの道」。いさかいを繰り返しながらもスペインの聖地への巡礼の道中を歩んでいた一行が、一宿を求めた教会で白人以外の“日焼け組み”は泊めることはできないと言われたとき、精神的にもまさに現代の都会人で足を引っ張る側の人間だった一人が、“私たちは兄弟だ、兄弟は一緒にいるものだ!”と啖呵をきったのは痛快でした。
 キリスト教のことを知らない人にはそれ以上の意味はわからなかったかもしれないけれど。
もちろん家族でも、歳も、ましてフランスの白人とアラブ人とが兄弟のはずがないんだけど、キリスト教信者にとっては、神=父の前では皆兄弟姉妹なので、こういうこともありえることなのです。 
 このシーンひとつでも見る価値を感じた作品でした。 
 先日、フェアトレード活動を通じてひたしくさせてもらっている人からメールが来ました。
NGO活動の関係で朝私の職場の近くを車で通った時、私を見かけたと。
 もちろん私はそんなことを知る由もなく、おそらくは無表情かあるいは厳しい表情をしていたと思うけど、そんな私に、心の中で“お仕事がんばって”と言ってくれていたんだそうです。
 私が知らないところで、思いもかけない時・所で私のことを案じてくれている人がいる。
人でもそうなんだから、ましてや神様は、私が知らない時、私が知らないところでもいつも私のことを見ていてくれるということに改めて確信を持ちました。
 神はさまざまに姿、時には形を変えて人のことを見ていてくれる、と改めて確信を持ちました。
そう思うと、“悪いこと”はできなくなりますよね。いろいろニュースになる人や出来事がありますけど、その人たちはこうゆう事考えないのかな。       2007・20・28
 来年春の締結を目指しているクラスター爆弾完全禁止を支持します。
 私の愛する日本にも、日本政府にも批准してほしく願っています。

2007年9月17日月曜日

「北京バイオリン」 遅ればせながら観て来ました。
 この映画、話題にもテレビ版ができたりもしているので、映画そのもののできも良かったんだとは思うけれど、テーマになにかあるんだろうなと思っていました。  それはあたり。
 縦糸として、バイオリンの“神がその才能を与えてくれた天才”少年とその父親が通っていて、そこに幾人もの人とストーリーが絡んでくるという構成。
 映像の色合いも背景の感じも、日本でも40年50年位前は(正確には、映画の色合いかな)こんなだったんだろうなと思わせるもの。
 どうゆうテーマを選ぶか、それを伝えるためどのようなストーリー展開をさせるか、テクニックを使うのか、それが監督の人間性だろうし、技量だと思います。
 優れた作品なら一枚のスチール写真にも絵画にも、ストーリーも動きも感じられます。けれど、確かなテーマも技術もないままに、あるワンカットやワンシーンは悪くないんだけど一本の映画としてはねーッ、というものがある中で、個々のシーンも一本の映画としてまとまり、縦糸がはっきりしているからか観ていてわかりやすくもある作品でした。  シェイクスピア作品ほどの驚きや明快さではないけれど、観ている私の気持ちを充分さっぱりさせてくれました。
 こんな話ばかりではわかりませんよね。具体的には。
 経済が大きく発展し始めたころ、でも社会も人の考えも地域的な・時間的なものもそれについていけない人・社会が並存し、混沌状態。価値基準も昔とは違う物ができてくる。
 それが冒頭の、素朴ともいえる地方の情景(ここでも北と南の感情的・経済的なものは描かれていたが)、一転カメラは引いて北京の立派な道路と高層ビル。 その同じ北京でカメラが地上に戻ると昔からの家並み。
 音楽学校の実技で、後ろ盾がないからと5位にさせられてしまう少年。でも「5位でも、入れたかまだ良心があるな」というやり取り。
 人の移動を公的には認めない、地方の人間は地方のままで、北京には移り住めないという社会システムの残る現実。
 本当のものを求めるのではなく、“有名”かどうかを基準に、話題のもの・人に群がる人。それを批判する存在も登場させて、まさに”今”にライトを当てみごとに映し出していると感じました。
 
 映画としてはそれで充分に完成していたと思うのですが。実は、自分の身にも置き換えて思うことがあったのです。
 長々とこれまで書いてきたことは、たぶん他の人も同じことを、それももっと良く伝わるように書いてきたかもしれない。いや、これから書くことだってそうかも知れないけど。
 
 ある意味すごいバイタリティで、どんなことでも、どんな時でも疲れを知らない父親が、駅待合の雑踏の中、傍らにバイオリンを置いた赤ん坊を拾うまでの、この人間はどのように毎日を過ごしてきたのだろう。
 大きな混乱の中の中国、大きな混乱に翻弄される人々。経済的にも社会的にも充分ではないだろうことが易々と想像できる一人。
 この人は私ではないか、毎日の生活に目的も意味も持たず、生きる意味も価値も見出せず、自分をかけるべきものを持たない自分ではないかと思ったのです。
 そりゃ、毎日仕事で忙しいこともあるでしょう。でもその毎日にどれほどの意味を感じながら過ごしているでしょうか。
 そんな一人の人間に、生きる意味も意義も感じさせてくれた、与えてくれた。このこのために生きよう、この子の願いをかなえるためにならなんでもしよう、と目標を持たせてくれたのだとわかったのです。 もちろん愛されたらどれだけ幸せなことでしょう。 でも、愛する人がいて、その人のために何かできるということはどれだけ幸せなことでしょう。
 この映画、主人公はいったい誰だったんだろうと考えてみる。 バイオリンの天才の少年だろうか、他の登場人物のストーリーだって皆一本の映画にもなりそう。深みを増してくれています。
 でも、人生に、自分の生き方に目的も意義も見出せないことがいかにつらいことか、もしそれを見出せたらいかに人は変わるのかというのが、実はもう一つのテーマであり、それを現すために、いろんな所いろんな時のシーンが出てきているのではないかと反芻することができました。
 その時代や背景が良く描かれていて、その上にこのテーマがあったからこそこんな作品に仕上がったのではないかと感じました。
*写真。先回の映画の話の「ツォツイ」のパンフのものです。まだ自由自在に作成できず、この前乗せられなかったので、今日載せました。
 そうそう、この映画でも、少年と女性が縁あって知り合うなか、ひたしくなってから、初めて名前を教え、名前を聞くシーンがありました。 やっぱりそうなんですよ。名前を教えるということは自身を教えるということでもあるということなんですよ。○○小町や○○式部、だれだれの娘という言い方では今に伝わる人・女性も名前は人に知らせない。だから、実は名前がわからない。名前を知られるということは命にもかかわることとしていたほどの時が確か似合ったくらいなんですから。 2007・9・17

2007年9月12日水曜日

映画「ツォツイ」を観ての雑感。

映画「ツォツイ」観てきましたよ。 話題にはなるけどたいしたことない作品もある中で、観応えのあるさすがにいくつもの賞を取っただけのことはある映画ですね。一人ひとりの力至らない現実を再認識させられると共に、一人ひとりの人間、そして人々の持つ可能性と希望。今からでも間に合う、やり直し、人生も社会もという希望も感じさせてくれました。
 で、観ていての雑感というレベルのものだけどここに書きます。
 
 映画の中のシーンで何回も、また時間的にも結構長く扱われていたので私と同様、監督も重要に思っていたんだと思うけど“名前”のことが印象に残りました。
 もともとツォツイというのは現地の言葉で“不良”という意味であって主人公の名前ではありません。
仲間から問われても答えない、触れることを避ける。映画を観ている私にはフラッシュバックでその理由を見せてくれていましたが、それから逃れるように、名前に触れなかった。
 でも終わりの、これからの人生大変なことがまだまだあるんだろうなと思わせるラストでは、同時に自分の名前、自分の人生と向き合い、きっとその困難を乗り越えていくだろうと希望を持たせてくれる終わり方でした。
 この“名前”に対するこだわりでは「過去のない男」を思い出しました。
暴漢に襲われ記憶喪失した男が、それでも生きていく時に、救世軍の救済活動を受ける時、ただ一方的に受けるのではなく名前を教えるようにこだわる。そのことによって対等になるんだということを良く感じさせてくれるシーンがありました。
 確かに相手との関係を築く時でなければむやみに名前を明かしたりはしないなと思います。
決して派手な映画ではないし、美男美女が出ているわけではないけれど、この映画もお奨めかな。
じっくりと観ることができる作品です。最近のアキ・カウリスマキ監督の「街のあかり」もそうだったけど、まるで一枚の絵画を見るかのような光の感じが素敵です。

 フォークルの「悲しくてやりきれない」「イムジン川」のリアルタイムのころ、在日の青年が本名を明かすか明かさないかがラジオ番組でやり取りされたことがあって、(馬鹿な)日本人の青年が“たかが名前”・・・などと言うのであきれたことがありました。 自分の名前、特に個人や国、民族としてのアイデンティティのかかった時、明かすことによっての不利益などのことがわからないのかなぁとおもったことを思い出します。 地名人名は“文化”だと思います。
意味があるから、戦前の日本が朝鮮で創氏改名をさせたのだと思いますけどねぇ。

2007年8月27日月曜日

軽い言葉だと感じる。
 実際言葉に重さがあるわけではないけれど、聞いていて、この話・発言は・この言葉は重い、という言い方がある。
 それでいくと、話し方がぶつぶつととぎれて聞き苦しいのはもうあきらめるとしても、阿部総理大臣の言っていることはほんとに軽いと思う。
 ”美しい日本”・・・というのも聞く人によって様々なイメージが浮かぶ言葉だと思うし。何よりも8月15日に、再び戦争をしない国だとか、世界平和、貢献、なんてことを発言しながら、実際にやろうとしていることは正反対の、戦争をせんがための憲法改悪(必然的に9条だけでなく、男女平等に関すること、生活・生存に関わる事も)なんだから。

 政権交代の手段として、改善すべき課題はあるにしても”選挙制度”があり、近代政党がある中で、自己の・政党の主張をすることは良いことだし、もっとすべきだと思う。    私がこのように考えていても、当然ながら別の考えがあるわけで、そこを話し合うことが大切なことだと考える。けれど、今の阿部さんの口からでている言葉では、本当の意味での話し合いが成立しないと思う。真摯に耳を傾け話し合おうというところまでとはとうてい達しない
中身のない軽い発言としかいえない。
 
 言葉はいったん口からでてしまうと、一人で歩き始めるし、取り返しがつかない。私はこのことを忘れず、意味のある、話し合うに足りることを言うように心がけます。

2007年8月22日水曜日

諸橋近代美術館 サルバドーレ・ダリ


 諸橋近代美術館 に行ってきました。
ほかの美術館でチラシなどを手にし、以前から知っている美術館ではあったのですが、なにかきっかけというか、縁がありませんでした。そればかりではなく、他の人の作品ももちろんあるけど、サルバトーレ・ダリを中心として、ダリのために生まれた美術館。多方面で高い評価を得ている人。でも個人的には、(それ自体にももちろん大きな制作意味や動機があるのはわかるけれど)あまりにも内証的ではないのか、特にダリが生きていた時代のことを考えると。と思っていたせいもあったかもしれません。
 でもこのたび、ある人の口からこの美術館、ダリの作品の素晴らしさのことが出たので行ってみたのです。すべて“物事には時がある”の今回がその“時”だったのでしょうね。
 で、すごい発見というか、すっかり私の中で評価が変わりました。やっぱり芸術家なりなんなり、社会に何らかの影響を与えうる人は、意識して、“平和”のためにその影響力を使わなければだめだということ。社会・社会問題から身をひいてはならないということに改めて確信を持ちました。
 ダリの作品の中での評価はわからないけれど(もちろん今回で他の作品の理解がずいぶん深まりました)原爆をテーマにこの「ビキニの3つのスフィンクス」で、ダリも内証的な作品ばかりではなくこのような作品、発言もしているということが私としては初めてわかり、大いに見方が変わりました。だってマスコミの取り上げ方がよくないと思いますよ。確かにマスコミが取り上げたことも事実なのでしょうが、そればかりが強調されてしまって、他の同時代の人とは違うイメージが作られてしまいましたよ。