2019年12月31日火曜日

雑感 2  五味五感 2/2


   “五感”という事で言うと、視覚と聴覚のこと。 テレビ(番組)は見ません。仕事もしていますし、何よりレンタル店の借り放題会員になっているものですから週23回 枚数で言うと1116枚のDVDを借りています。すべてが私の好みというわけではないのですが、再生している作品とそれを見ている家族のことが気になってついその場に居続けてしまう。その場にいると見てしまう。(ストーリーもありますし)見ると考えがまとまらない、というパターンになってしまうのです。 視覚と聴覚 それで、昔の耳・ラジオの時代はまだ他のことを しながら できたけど目・映像はだめだなぁとなったしだいです。 賑やかでだめそうな雑踏の中は意外と、と言うかかえって集中するんですけどね。こうしている今も身の回りにある様々なものを持っていけないからかなぁなんて思いますけれど。

それにしても、先のオーストリアのことでも出てきた150年前の頃と言うのは日本にとって節目の頃だったんですね。


五味
因みに 1塩味 2甘味 3酸味 4苦味 5辛味 で五味。
そこへ日本の場合はもう一つ 旨味を加えて6と言う事が今ではそう珍しくもないでしょうか。 この旨味。日本の文化、日本人の漠然とした感覚かと言うとそうでもなくて、イノシン酸 アミノ酸がうまみ成分、他とのバランスも抜きにはできません。あらわし方・数値もいろいろ解明されてきていますのでこの考え方日本以外でも定着していくのではないでしょうか。 

雑感 2 五味五感 1/2



  振り返るに。この秋の頃は3年ぶりに百の大台に乗るか!?なんて思ったのですが、それなりに訳が有りながらもばらつきがあって今一歩となってしまいました。 
   “想い”は持たなければいけない。そして伝えなければいけないと思っています。  そのためにも、伝える手段と技術を持ち わかってもらうよう努力しなければいけないと思っています。

 “感覚”

感覚には、1視覚 2聴覚 3嗅覚 4触覚 5味覚、日本の場合はそこへ第六感と言って気とか気配「何か気になる 何か変な感じがする」を加える考え方が有ります。 

このうちどれが大事かなんて論ずるのは愚の誇張、何を生業としているかどんな生活をしているかで比重が変わるという事は有るにしてもどれ一つとして要らない物はありません。どれ一つ欠けても不自由することは様々に見聞きしています。 ただこの間私はこんなことを感じています「考えをまとめるのに邪魔になるのは聴覚よりも視覚かなぁ」と。 昔は「ながら族」なんて言葉が有りました。受験勉強(と称して) しながら ラジオの深夜放送を聴いている。 勉強という事では本末転倒だったかもしれませんが。 影響力のあるパーソナリティが何人も誕生しました。私でさえ夜中まで放送を聴いた覚えがあります。時代だったのかもしれません。形も様々大きさも様々でしたが、社会・世相の動きを生み出したのは確かでした。

 150

 今年は新潟湊開港150周年にあたるんだそうです。それを記念して 新潟市歴史博物館 みなとぴあ を会場に「新潟開港150周年記念展~開港場新潟展~」というものが開催されました。 そこにも扱われていた白山公園(初代)のことと、私の引き継いできた記憶の相違があるという個人的に因縁の有る事を書いていました。 その際、念のためと思って以前は持っていなくて今他の縁で手元にある資料に目を通していたら記憶と違うところを見つけて、それを調べてからなんて思ったら進まなくなってしまったのです。 そればかりしている常でもありませんし、時季も悪くなって調べにも行けなくなって様々。やはり150周年にあたる今年書き上げるのがタイミングとしてはよかったのでしょうけど。

2019年12月28日土曜日

雑感


2019年 クリスマスはやわらかく明るい朝の日差しの中で「メリークリスマス」と声を交わして始まりました。 “冬至”を経て 再び光の時 が来る。ほんとにクリスマスなんだなぁと感じます。 冬至 はずっと知っていました。昔は今以上に季節感 歳時記 日常に様々な行事が息づいていましたから。長い年月をへて、日常の生活が変わりせわしくなったのでしょう今は昔ほど(小さかった頃)でなくなったと実感していますけれど。 生活が便利になるという事では進歩という事は歓迎すべきことなんでしょうが、アイデンテティ・文化という事ではもっと大切にしなければいけないことなんだと戒めています。 

私にとっては“冬至”というのは特別な思いがあります。儀式として何かするという程ではないのですが、復活 という所まで言わなくとも 再び という事では私自身の体験 私の周りを見回してもこの言葉の響きを肌までも感じることが幾度もあるからです。 そして「やはり“クリスマスには奇跡が起こる”」でしょうか。 今年もさまざまに災害が有りました、変化はしているのですが“紛争”はなくなることはありませんでした。それ以上に名前の伝わらないだけの多くの働き人がいるのは知った上であえて名前を出しますがアフガニスタンで中村哲さんが殺害されるという本当にもったいない悲劇もあったばかりです。 人の想いでは 神様… と思ってしまう事もありますがきっと何かお考えがあってのことなんだと時が満のを待つばかりです。

教会の紙誌の中に 光 に関することを見つけたので書き留めます。

聖書に出てくる 光 という意味のギリシャ語には二つあるんだそうです。 一つはフォース これは弱くはかない光、ろうそく や焚火や松明の光を示すそうです。写真、フォトグラフの語源ともなった言葉だそうです。 新作が公開され話題になっている映画作品で多くの人が知るに至ったこの言葉 すべてを超越する力 と受けとれるように用いられてきていますが、実はこの言葉が 弱くはかない とはびっくりしてしまいます。作品宣伝のためにわざとそのような訳を持ってきたのか、実際強大な敵に対しては小さく弱いかの光が決して吹き消されないさまを見ると本質はついているのかもしれません。 ちなみに二つ目はドクサ。栄光 威光 繁栄、強くまばゆい光を示すそうです。

2019年12月25日水曜日

日本の鬼瓦 朝鮮の三蔵法師御一行


 「なんだろう」と思ってはいたのです、その時も。 行く先々の建物(と言っても王室関係の)の屋根、その先端にかけて何やらのっている。 精緻な磁器と言うよりざらざらとした粗目の土を こて か何かでその質感を残しながら荒く形作った物
。 ちょうど一番前の人()に従っている風に、次は猿 その次も動物のように見えるものが一列につながっています。 全部が全部同じと言うわけでも無いようで、並びの列が少し長く終わりの方に少し大型のタイプの動物を模したのかと思われるものが連なっているものもありました。 いずれにしても、それらは いかつい というよりは愛嬌を感じさせてくれる造作物だなぁと思いましたが、その時はそこまで。

この秋、朱鷺メッセで発行されているフリーペーパー Tottoki guide(トッときガイド)2019 1112 vol.96 を手にし、目を通した連載記事「隣国情緒~北東アジアレポート~」のテーマは“朝鮮王朝時代の建物”でした。 そこに、以前目にし「なんだろう」と思いながらすっかり忘れていたあの造作物が取り上げられていたのです。 あれは、三蔵法師とその一行なんだそうです。

文中ではズバリ 災い除け というような文言は出て来ていませんが。 日本だと、屋根・棟の端というか先端にあるのはいかにも魔除け・災い除けのご利益の有りそうな形相の鬼瓦。 双方を比べてみると、魔除け災い除けという事では共通するものもあるのでしょうが、韓国の屋根に見るものの方はわざわい・悪いことを遠ざけるというだけでなく。人や動物・生き物のすべてが慕うくらいに徳のある人・知恵は呼び込む「どうぞいらしてください」というような感じがして好ましい。

2019年12月8日日曜日

「表現の不自由展 その後」のその後




2019.11.16 1354 東京新聞電子版によりますと。

 9月下旬からオーストリアの主都ウイーンにあるミーュージアム・クォーターを会場に、日本とオーストリアの国交150年記念事業として同国外務省の協力も経て開かれていた芸術展「ウイーン芸術展/ジャパン・アンリミテッド」に対する在オーストリア日本大使館による公認が取り消されたことが報道されていました。

 同展は、日本での政治社会批判の自由と限界に焦点を当てていて、東京電力福島第1原発事故や安倍政権を批判的に扱った作品などが展示されていたことが問題視されたとみられています。 芸術展で学芸員を務めているマルチェロ・ファラベゴリ氏は「愛知トリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展 その後」で取り上げられ批判されたた芸術家がウイーンの芸術展に参加していることが日本で指摘されたため、日本の国会議員が外務省に調査を要請、撤回につながったとみられる。」 作品については「欧州の感覚では無害だと思う。強権色を強める、ポーランドやハンガリー同様、日本でも検閲が強まって居るのを感じた。」とコメントしています。

 反社会行為・作品 人道上許されない行為・作品 暴力的行為を行った事を現認したからというのではなく、国内で横行している“問い合わせ”と同じ効果を発揮した形になった外務省に日本の国会議員が“調査を要請”したというのが発端のようです。公認取り消しは11月に入ってからのようですが、芸術展はすでに9月から、準備や公認申請はそれに先立ってという事になるわけですから、“調査要請”がきっかけになったとみられるというのは間違いないのではないでしょうか。問題が有れば、そもそも公認なんかしなかったでしょうし。

 自由な言動に対する圧力 報道に対する直接間接の規制は強まるばかり。国連や国際的な記者団体による問題の指摘、自由度のランクは下がる一方ですが、表現の自由 多様性を認めない 自分にとって都合の悪い歴史を否定する、ぎすぎすして余裕のない不寛容な姿勢がまたしても明らかになったという事でしょうか。 国内だけでなく国外でも同様な行動をとったという事では、ある意味行動に一貫性があるともいえるのかもしれません、こんなところでと情けなくもなりますけれど。