2015年4月22日水曜日

10-9-15 独立記念館 2

 





 キョレーの塔(民族の塔)を越し、キョレーの大広場を抜けキョレーの家そして不屈の韓国人像に圧倒されながらいよいよ展示館(敷地)の中へ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

独立記念館は7つに分け建てられた展示館(・民族伝統館(先史時代から1850年代) ・近代民族運動館(18601910) ・日帝侵略館 ・31運動館 ・独立戦争館 ・社会・文化運動館 ・大韓民国臨時政府館)と 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
統一祈願の丘 追慕の塔 円形劇場・円形映像館 愛国詩・語録碑 ミレニアムの森 広開土大王碑 太極旗の丘 からなっています。



























観光施設というわけではありませんから人でいっぱいというわけではありませんが、平日の昼間なのに訪れる人は途切れません。

10-9-15 独立記念館 1



 
 
独立記念館駐車場でバスを降りた私たちは、ずっと先の方に大きな塔が建ちその向こうに小さく建物が見える場所を歩きだしました。とにかく大きい広い奥行きがあります。 

 
 
 
 
 
 
ところで、1987年に設立された独立記念館ができるに至った経緯が1982年の日本の歴史教科書問題がきっかけになっていたというのには驚いてしまいました。こんなところでというか情けないというか過去にも現在にもそれだけのことをしているんだということを感じてしまいました。

















 
 
 
注 
 
 
ずっと先の方の大きな塔 → キョレーの塔(民族の塔)







  
 
 
 
 
 

 
 
 

 
   ずっと先の方の大きな塔の向こうに小さく見える建物 → 実はすごく大きいキョレーの家(民族の家) 近くに行くとその大きさ迫力に圧倒されます。
 
 
 
 
  中にはこれまた大きい 不屈の韓国人像。

  
 
 
 
 この大きさ力強さに、発想というか感覚 文化の違いを感じます。

2015年4月19日日曜日

今日は私の日じゃなかった  その2 よりによって

   本当は「去年は私の年じゃなかった」という言い回しで、ある映画のメイキング画像の中のカットされたシーンの中で耳にしたもの。

何をやっても裏目に出る うまくいかない時があるもの。 今日もそんな一日でした。 何で私はこうも要領が悪いのかなぁ、いつもはしているのにたまたまその時という時に限って指摘される。何でこんな時にとかこんなことがということに遭遇する。

前回忘れていたことを今回はと気を付けると今回は別のことで言われてしまう。ゲームセンターのモグラ叩きゲームのように。

  

“怒る と 叱る”で頭に浮かんだ言葉を一つ。

「やってみせ 言って聞かせてさせてみせ 褒めてやらねば人は動かず」

山本五十六

ほんとにそうだと身に染みました。

今日は私の日じゃなかった  その1 怒ると叱る 

 
この言葉どのように同じなのかどのように違うのか。先の夜勤の同じ一夜のことに対して2人が言及。おなじことに対してでもこんなにも言い方が違うのか。その結果、聴く側の受け取り方がこんなにも違うのか と感じることがあったのです。
1人はまさに「追及」。〇〇しなければだめだとそこだけ取り上げて追及。そこだけ見れば確かにそうなので言い返す余地がありません。どうしてそうしたのかについては一切 訊かれませんでした。 この際ついでにというようなことも持ち出して来て追及。 これじゃぁ反発しか生み出さないだろうと実感。途中から事の起こりそっちのけで感情的なやり取りに終始してしまいました。
もうひとりの人は、当夜私がしたこと(しなかったこと)が結果としてどうなるかを穏やかな口調で理解そして納得できるように話してくれました。説明も具体的でよくわかったし、どうゆうふうにするかも実際にやって見せてくれました。
激しい口調で逃げ場をなくすように追い詰めるとそもそもの問題そっちのけで言い争いになったりすることもあるものだけれど、穏やかに言われると窮鼠猫を噛む的な反撃は起こらないものだと思いました。
 
 改めて 怒ると叱る について
 怒る 
目に映ったことに対して反射的に言っていて、なぜそうなったのか したのかについてなんかまでは思いもよらない。この際ついでに…なんてことで以前のことを持ち出してしまうといっそうの混乱を招いてしまう。自分の感情 自分の想いの発露にとどまるのではないでしょうか。
叱る 
まず自分の方から相手に理解されるように努める。 今起こっていることに対して具体的に話す。 なぜそうしたのか言い分を聞く。 その行為の結果何が考えられるかを一緒に考える。
すごくすごく大雑把になるんだろうけど“自分のために 相手のためにか”の違いがあるのかなぁ。
 

2015年4月14日火曜日

10-9-16 光化門


バスは景福宮をめざしてとても幅広い道を直進。突き当りの大勢の人出で賑う建物の所で右折して回り込むように進みました。 立派な建物だし賑っているのになんだか避けるようにさっと回り込んだような気がしました。車窓から後ろ斜めに目をやると「あッ光化門だ!」本来見学予定になかったからかもしれないけれどなぜよらないの。バスを降り見学しないまでも口頭で紹介するくらいならベテランガイドの李さんのことだものできないわけはないのに。 じゃぁあえて触れなかったのかとも思いました。

実は今回の韓国平和の旅に先立つ先月、光化門の再建工事が済み公開されたという新聞記事を目にしていました。
光化門はそれだけでも立派な建造物だけれど本来王宮の門。同時に日本統治時代には総督府がおかれていたところ。そのために移動もさせられていたそうです。それを本来の位置・方向に戻したうえでこのたび再建されたという経緯があったようです。そんな歴史的経緯がある光化門そして光化門の再建だった。李さんが何も触れなかったのはそんなことも何か影響があったのかなぁと感じた次第です。

2015年4月8日水曜日

何か縁、神様の配慮があるように感じました。 感謝


30日(3月)父が入院しました。それに先立つ二日前父から電話があり、少し鼻声と感じたので終わりに職員に代わってもらって様子を聴いたら「少し風邪気味だけれど熱もないし大丈夫だ」と。

翌日、甘いものやヨーグルトなどを持って仕事の帰りに訪問したら部屋が変わっていました。移った部屋には吸痰の器械が運び込まれていました。 肌の色合いも黄色っぽく、張り付いたような 脱水があるんじゃないかというような感じがします。昨日の電話の様子とはずいぶん違うので職員に聞いてみたら「熱はないけど痰が出るので個室に部屋を移ってもらいたんの吸引をしている。食事はちゃんととっている。明日念のため受診します。」と。

開けて30日。熱も出てきて肺炎が強く疑われるので入院になったとの連絡が入りました。ここ数日来おかしかったと言えばおかしかったわけだし、歳も行っているしどんなに悪いのかとあわてました。
急遽時間をもらって駆けつけた病院では、まだ入院時検査の真最中。熱も上がり続け息をするのも苦しそう。検査のための身体の向きを変えたりも大変そう。 着替えや向きを変えるのを手伝う。 こんなところでこれまでの、そして今していることが役に立つとは。

 はっと気づきました。

思えば母の時も、施設入所や入退院が続くタイミングで実家の近くの事業所への移動だったなぁと。
今回の転職も、そこでの仕事や勤務形態、何より入所しているところや病院にも近く何か縁、神様の配慮があるように感じました。 感謝

 

追伸 その後病状も改善し9日(4月)に退院が決まりました。迎えに行ってきます。

2015年4月5日日曜日

10-9-16 韓国 車は左ハンドルで右側走行  人は・・・



韓国、車は左ハンドルで右側の車線を走行。そして人は昨年(2009年)10月から右側通行に代わったんだそうです。(注 日本の車は 右ハンドル左側車線走行 人は右側通行)

「えぇーッ!韓国ではこんなことまで法律で決めるの!」 と思ったけど考えてみれば日本でもおんなじ。 人はどちらを歩くか自転車はどちらを走行するかがみんな道路交通法で決められていました。だから正確には 今になって という感覚的な驚きかなぁ。

 

 実は日本では明治になってから富国強兵政策を進める上において右足を出すときは左手を出すという西洋式歩き方に定められた経緯があります。軍隊のためにという理由が引っかかるけど、何かの理由があって変えられるそしてそれは(日本においては)約300年続いた鎖国という国のあり方が大きく変わった明治(時代)になってから社会の様々なことが変わった。今から百何十年も前に変わったという感覚があるものだから驚いたというわけです。

 もともとの日本は手そのものをあまり降らなかったし(条件によっては、手は太ももの付け根に沿えるようにしすり足で歩を進める)骨盤から体をひねるように歩いていたようです。改めてそんなことを思い出しました。