2017年3月31日金曜日

2016年 劇場鑑賞作品 3~6月分


5 316日 「弁護士 布施辰治」 クロスパル
 次の6本目とともに国民救援会主催による自主上映会で鑑賞しました。たまたま見かけた案内チラシで布施辰治という人を知ることができたのはほんとに幸運でした。
 当時の映像と再現ドラマで構成された作品の映像を観て、もともとヒューマニズムあふれた人だという事がまずわかりました。朝鮮の人も分け隔てなく、治安維持法化で弾圧対象になった人たちの弁護・活動へ傾倒すればするほどに増す困難さ。覚悟の上での自身が苦労するだけでなく家族にも降りかかる困難。 治安維持法下において大衆とともにあろうとする選択をするという事は頭が良いのか悪いのか。
映しだされる生き様とともに、記憶に残る言葉を乗せておきます。
“生きべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために” 
世の中に一人だって見殺しにされていい人はいない”
 感動的な言葉。でも人に向かってというより自分に言い聞かせていたんだろうなぁ。

6 316日 「燃やし続けた炎 : 治安維持法犠牲者を訪ねて」 クロスパル
 「弁護士 布施辰治」 とともに国民救援会という団体主催による自主上映会で観た作品。
 これは発掘もの。こんなところでこんな人がこんな風にと見せてもらいました。

7 330日 「マネーショート」 イオンシネマ西
「リーマン・ショック」(2008年)で世界経済が大混乱する中での一匹狼的な個性派トレーダーたちの行動を取り上げた作品。困難な状況 受け入れてもらえない提案、最後に逆転するところが出てくるんだけどあまり痛快 やったーという感じはしませんでした。
 上がるときに限らず下がるときでも利益が出ることもあるわけだし、この世界のことは正直解りません。

 45月はありませんでした。
このころ私は何をしていたのでしょうか。大変だったのかな。二つほど思い当たることがあることはありますが。


8 67日 「これが私の人生設計」シネウインド
 事実は小説より奇なり を最終的に100分前後の作品に一応の決着をつけるにあたってもちろん取捨選択 脚色が加えられているでしょうからこのままどうりのことがそのすべてが描かれているとまでは思っていませんが基となる女性・話は実際にあったようです。
その基になる事柄とひらめきへの解釈 演出、スタッフ キャストの持ち味等々については個人的好みとしては多少のずれがありました。でもイタリアという社会 イタリアの人々の持っている良いところそしてかたくななところが描かれている作品と思いました。もしかしたらそこが単純に楽しみ切れないと感じさせるところだったのかもしれません。
ところで。この作品にも、主人公の女性のごく近しいところにゲイの人がいました。恋人にも夫婦にもならない関係なんだけど、これが近くにいてくれる存在として話し相手にも人の温もりを感じさせる存在にもなっていました。恋人や夫婦という関係は素晴らしい関係だと思います。でもその関係がうまくいかないことになるときもあるわけで、そういう事でいうと、そういう関係を超越した関係・男とか女とかいう事ではなくまさに人と人の関係で付き合える存在・関係なのかもしれないとよそ事かもしれませんが考えてしまいました。

2017年3月22日水曜日

肥田舜太郎さんがなくなりました


肥田舜太郎さんがなくなりました。(2017320日)

戦時中軍医として働いていた広島で自らも被爆し、戦後はその経験と反省から被ばく医療・平和活動に務めた人。100歳でした。

 私が属していた県単位の医療法人が全国的にまとまった全国組織の代表を務めていたこともある人でした。それは戦後間もなくのことでもあり入れ替わるように現役を引退、私などには核兵器をめぐる世界情勢 福島第1原発事故に関しての発言が紹介される中で変わらずお元気だという事がわかるというありさまでした。 その発言は医師としての専門性、自らも被爆した経験からくる人間味あふれたものでした。

信念を曲げず生き抜くことは決して楽なことではない中、最後まで揺らぐことなく生を全うした方でした。ご冥福をお祈りします。

2016年 劇場鑑賞作品 1・2月分


1 1月 6日「カプチーノは熱いうちに」  シネウインド

 人間生きているとどこにどんな出会いがあるか新しいドアが開いて新しい人生が始まるのか。 願う事が叶うときもかなわないときも、なぜと思いながら新しい道が新たな出会いと生活の始まりに導いていってくれる。大作とか名作として後々紹介される作品には入らないかもしれないけれど、観た人には“取っ掛かり”が残る一本。いろいろなタイプのいろいろな人生が複層的に出てくるので誰かのどれかに自分を重ね合わせられそう。



2 1月 20日「ブリッジ・オブ・スパイ」  イオンシネマ県央

 これは重い。同様の作品はこれまでもあるし、これも見応えありました。やっぱり事実がベース、そしてそういう経験が醸し出すものがあるんでしょうね。

ボルボP1800が素敵でした。

私もああして“東”にわたったんだなぁと昔々を少し思い出してしまいました。



3 2月 4日「エージェント・ウルトラ」                                       ユナイテッドシネマ

 秘密機関による人工的改造 歴史的覚醒で普通の人間を超えた能力を身に着けて大活躍という映画は数あるなか、この作品は実写版だけれどだいぶコミックよりかな。主人公のだめさぶりも大したもの。“秘密”がだんだん明らかになりテンポが上がり、隠す=抹消(殺)しようとするものと生きよう・守ろうとする者との戦いが始まってからがお決まりのパターンとは言え見せ場。少し違うのが、この主人公は圧倒的な強い設定ではないという事。襲い掛かってくる敵のほうが個人的能力でも組織的にも強いという事。でも限られた味方の助けによってその窮地から抜け出すことができる、でも決してこれがすべての終わりではないだろうことを予感させながら。

 これも最後の盛り上がりは一晩の出来事。やっぱり歴史・物語は夜つくられる?



4 2月 12日 「オデッセイ」 イオンシネマ西

 火星探査中のアクシデントを取り上げた作品。 実際にはまだ火星に行けるところまで到達はしていないんだけど、観ていて現在の設定のようなデティル。でも、こんなアイデア手立てがあるんだったらほんとに火星から生還できるかもしれない、政治的にはいろいろ弊害があるけれどたった一人の人間を地球に帰還させることに力を合わせることができる人間の可能性を感じることができました。

 もうすべての手立てがなくなった 万事休す、となった時に中国の技術・ロケットが出てくるなんて世界の変化を感じましたね。現実には現在の到達・技術ではという事だと思うけれどこうなってほしいと素直に思える展開でした。

2017年3月19日日曜日

「七転び八起き」 今の私にはこの“転ぶ”という言葉が響きます

   
マーティン・スコセッシ監督が20年以上もの長い年月をかけて完成させた「沈黙」という映画が公開されるにあたってこちらでもいろいろ取り上げられています。

遠藤周作の原作本はもちろん、ずいぶん昔篠田正弘監督によってつくられたもう一本の作品も知っています。もともと重い主題を扱った本それを基につくられた映像的にも“暗い”印象の映画は決して楽しい出来上がりではありませんでした。(旧作を)思い起すと、終わりの方・ついに踏み絵に足を乗せてしまうところがまず思い出されます。決して自身が拷問に負けたのではなく、他の信者に加えられ続けている苦痛・拷問を止める引き換えに信仰を捨てる、その棄教の証として踏み絵を踏むシーンで神の声が「踏むがいい」と響いてくるところ。そこへ至るまでが複層的に丁寧に描かれていたので、踏み絵を踏むことになる宣教師が弱かったとか負けたとかいうことではなく、こういう言い方もおかしなものだと思うけれどかえって信仰として一段高いところ質的にそれまでよりも神に近づいたような感じがしたものです。わたしとしては当時それはそれで納得していたのですが、今回マーティン・スコセッシ監督の作品を紹介する文の中に“転ぶ”という言葉を見つけて気づいたのです。確かに、世界的にもそのひどさで知れている日本のキリシタンに対する弾圧に関して“転ぶ”という言いかたがありました。
 この作品に触れたころの私は、棄教・信仰を捨てるという事をイコール日本的に “転ぶ”と言い換えていたのだと思っていました。そのことを世俗的には信仰を捨てる=棄教という言葉で言ったのだと思っていました。ごく普通の人たち・当時の日本の信者たちの使う言葉でいうと棄教のことを同じ意味合いとして“転ぶ”というのだと思っていました。 

作品には主人公・2枚目としての主役の他に、軽くどうしょうもなく救いようのない存在、何度も何度も転んでしまうキチジロウなる登場人物がいて、実は遠藤周作が一番描きたかった人物(像)はこちらだったのではないかと思っています。
何度も転ぶという事は、何度もキリストのもとに帰っている・離れていない事と思えるのです。周りには踏み絵を踏み棄教、信仰・キリストを捨てたかのように見えても、実は捕らえられたままという事がこのたびの一文に目を通すなかですべての薄皮がはがされ見えました。人の世界・世俗では神を捨てたとか不信仰とか言われるような人・行いでも、神との関係でいえば強いきずなが結ばれていることもあり得るのだと気づきました。
棄教という言葉を転ぶという言葉に置き換えてみると、転んだだけまた起きればいい、捨てろという権力(者)の前では捨てたと思わせておけばいいという事、本当のことは神様がちゃんと見ていてくれると確信が持てました。

日本的には“転ぶ”には別の意味合いがあります。
日本には転ぶという言葉の入った「七転び八起き」ということわざがあります。
今の私にはこの“転ぶ”という言葉が響きます。

2017年3月13日月曜日

必死に声を上げる人とともに


強い権限を持つ人たちを振り向かせるために強い言葉を振り絞って投じることは、時に大きな意義を持つ。

しかし、その逆はあってはならない。

つまり、必死に声を上げる個人を、力を持つ人たちが強い言葉で屈服させてはいけない。

武田砂鉄







「強きをくじき弱気を助ける」

弱い立場の人 穏やかな人に強く当たるなんてことは私にはできそうもないが、自身は “強い人” 大きな声で威圧的に接してくる人にはどうも弱い。 大きい声が出るかどうかと、正しいか正しくないかとは全く別の話なのに。 

「窮鼠猫を噛む」

先日はそんな私でもついに黙っていられず言い返すことがあった。でもそのあとがぐったり。 やっぱり私には似つかわしくないんだろうなぁ。

そんな私でも武田砂鉄さんの言っていることは忘れてはならない戒めだとよくわかる。

2017年3月12日日曜日

見つけたと思っていたのが、実は見つけてもらっていた

    二人の生活が始まりました。やっと半月たったところですけれどずっと一緒に暮らしていたかのよう 不思議なくらいに自然です。

   生まれ故郷とマニラ地域しか知らない人が、介護の仕事をしたいといきなり国外・日本に行こうと思い立つなんて。                  2015年春来日、それが彼女と私との出会いでした。

技術は学習で後から身に着けることができるけど、人柄・人間性はそうはいかない。その大切な人柄は問題なし、でも言葉や資格のことがいかんともしがたく帰国。 その後は私の方からテレビ電話を通じてずっと彼女を見ていました。 出会い、直接のやり取りは短い間でしたけれど、そのテレビ電話でいつも私のことを案じてくれていることが伝わってきました。
期間だけ見れば短い期間。その間に沢山考えました。いつも笑顔で私に応えてくれる彼女、私の思いは固まっていきました。
 
秋、初めて訪れたフィリピンに私は課題を抱えながらも10年後20年後はどう化けるかわからないよという可能性を感じました。けれど今、特に若い人たちの失業率はとても高いとの由。

 時は流れ2017年早春、いよいよ来日。来日自体は2度目というものの、みんな心配してあーでもないこーでもないと相談した結果、私が見つけるから入国ゲートのところから決して動かないようにという事にしてその日を迎えました。
 仕事を終えて乗り込んだ新幹線も乗り継ぎもスムーズで思ったより早く空港到着。「さあこれから」と思っていたら、行きかう大勢の人の中から彼女が私を見つけてやって来ました。びっくり。あっけないほど。笑顔の彼女、ほっとしました。 
 
ホテルで靴を脱ぎその時のことを思いました。
 私が彼女を見つけ遠く離れていた間も私の方が彼女を見ていたと思っていたけれど、実は私のほうが彼女に見つけられ捕らえられていたんだと気づきました。

 昔こういう事がありました。 
クリスチャンホームに生まれた私には、それゆえの克服しなければならない課題がありました。洗礼を受ける受けないは私が決めることだと何年も何年も“信ずるに値する証拠”を求め回っていました。結局、証拠があるかどうかではなくただ一心に身をゆだねられるかどうかだと気づき受洗することができました。(そのあとで、実はこの身のまわりは証拠に満ち満ちているという事に気づきました。)
自分のほうが見つけたとばかりに思っていたのが、実は見つけてもらっていた。私が神を見つけたと思う前に神様はすでに私を見守っていてくれた。私の方が神様に捕まえられていることに気づくかどうかだけだった。 
神の救いと恵みを忘れたつもりはないけれど「もっとこっちを向きなさい」と教えられたのですね。このたびのことはあらためてそのことを思い出させてくれました。

2017年3月8日水曜日

演技“力”って何だろう 歳を取るのも悪くない



   

    演目 演出 考え方によって、演技してるっていうほうがいいものもあればそのものになりきって演じてると思われない自然な演技の方がいいこともあります。
今、まだ若い・20代そこそこの女優さんが女学校時代から演じ始め子どもが成長し最終的には60歳くらいまで演ずることになる番組があって、実年齢より年上の3040代も“演技”という事で見ると十分にうまいと思ってみています。
ただし細身で小柄な体つきについてはどうしょうもありません。手・首・眼尻・体つきさえも今の時代だからいろいろできるのにあえて特別なことをしていないのが自然でいいと思っていますが。だって、若い俳優が年上を演じているというのは誰が見たってすぐわかるんだから。
そんな風に演技力というものを思っていたところに、先日ある女優さんがほぼ実年齢の役を“演じて”いるところを目にしてびっくりしてしまった。重ねて言うけれど、先の若い女優さんも十分にうまくセリフなどもよく考えているなぁとわかるんだけど、この年配女優の台詞の言い方がまさに“当人”なんです。この女優さんの別のところでのノンインタビューの模様を見たことがあるけれどそれとは違うしもちろん演じているんですけれど。となってくると、これは演技がうまい下手とかとは別次元のものだと気が付きました。
 私事ですが、今もらう役は実年齢よりもずいぶん若い役や時によっては動物の役の時もあるけれど、以前別のグループ・劇団で出ていたころはいろいろな役の設定で出ても何時も「その役その者に見える」と言われていました。私にそう言った人はもっと破たんしたり特別なものを期待したのかもしれません。でも私は、役になりきる・自然という事を狙っていたのでいいほうに取っていました。これが絶対というものはないのでどちらの見方考え方もありなんだと思いますが、“演ずる”とは別の次元で“年齢”が見せるものもあると気づかされた次第です。
 でも、年齢のいった人が年齢のいった役をやっても全然の時もあるからやっぱり演技力?