マーティン・スコセッシ監督が20年以上もの長い年月をかけて完成させた「沈黙」という映画が公開されるにあたってこちらでもいろいろ取り上げられています。
遠藤周作の原作本はもちろん、ずいぶん昔篠田正弘監督によってつくられたもう一本の作品も知っています。もともと重い主題を扱った本それを基につくられた映像的にも“暗い”印象の映画は決して楽しい出来上がりではありませんでした。(旧作を)思い起すと、終わりの方・ついに踏み絵に足を乗せてしまうところがまず思い出されます。決して自身が拷問に負けたのではなく、他の信者に加えられ続けている苦痛・拷問を止める引き換えに信仰を捨てる、その棄教の証として踏み絵を踏むシーンで神の声が「踏むがいい」と響いてくるところ。そこへ至るまでが複層的に丁寧に描かれていたので、踏み絵を踏むことになる宣教師が弱かったとか負けたとかいうことではなく、こういう言い方もおかしなものだと思うけれどかえって信仰として一段高いところ質的にそれまでよりも神に近づいたような感じがしたものです。わたしとしては当時それはそれで納得していたのですが、今回マーティン・スコセッシ監督の作品を紹介する文の中に“転ぶ”という言葉を見つけて気づいたのです。確かに、世界的にもそのひどさで知れている日本のキリシタンに対する弾圧に関して“転ぶ”という言いかたがありました。
この作品に触れたころの私は、棄教・信仰を捨てるという事をイコール日本的に “転ぶ”と言い換えていたのだと思っていました。そのことを世俗的には信仰を捨てる=棄教という言葉で言ったのだと思っていました。ごく普通の人たち・当時の日本の信者たちの使う言葉でいうと棄教のことを同じ意味合いとして“転ぶ”というのだと思っていました。
作品には主人公・2枚目としての主役の他に、軽くどうしょうもなく救いようのない存在、何度も何度も転んでしまうキチジロウなる登場人物がいて、実は遠藤周作が一番描きたかった人物(像)はこちらだったのではないかと思っています。
何度も転ぶという事は、何度もキリストのもとに帰っている・離れていない事と思えるのです。周りには踏み絵を踏み棄教、信仰・キリストを捨てたかのように見えても、実は捕らえられたままという事がこのたびの一文に目を通すなかですべての薄皮がはがされ見えました。人の世界・世俗では神を捨てたとか不信仰とか言われるような人・行いでも、神との関係でいえば強いきずなが結ばれていることもあり得るのだと気づきました。
棄教という言葉を転ぶという言葉に置き換えてみると、転んだだけまた起きればいい、捨てろという権力(者)の前では捨てたと思わせておけばいいという事、本当のことは神様がちゃんと見ていてくれると確信が持てました。
日本的には“転ぶ”には別の意味合いがあります。
日本には転ぶという言葉の入った「七転び八起き」ということわざがあります。
今の私にはこの“転ぶ”という言葉が響きます。
0 件のコメント:
コメントを投稿