2017年3月12日日曜日

見つけたと思っていたのが、実は見つけてもらっていた

    二人の生活が始まりました。やっと半月たったところですけれどずっと一緒に暮らしていたかのよう 不思議なくらいに自然です。

   生まれ故郷とマニラ地域しか知らない人が、介護の仕事をしたいといきなり国外・日本に行こうと思い立つなんて。                  2015年春来日、それが彼女と私との出会いでした。

技術は学習で後から身に着けることができるけど、人柄・人間性はそうはいかない。その大切な人柄は問題なし、でも言葉や資格のことがいかんともしがたく帰国。 その後は私の方からテレビ電話を通じてずっと彼女を見ていました。 出会い、直接のやり取りは短い間でしたけれど、そのテレビ電話でいつも私のことを案じてくれていることが伝わってきました。
期間だけ見れば短い期間。その間に沢山考えました。いつも笑顔で私に応えてくれる彼女、私の思いは固まっていきました。
 
秋、初めて訪れたフィリピンに私は課題を抱えながらも10年後20年後はどう化けるかわからないよという可能性を感じました。けれど今、特に若い人たちの失業率はとても高いとの由。

 時は流れ2017年早春、いよいよ来日。来日自体は2度目というものの、みんな心配してあーでもないこーでもないと相談した結果、私が見つけるから入国ゲートのところから決して動かないようにという事にしてその日を迎えました。
 仕事を終えて乗り込んだ新幹線も乗り継ぎもスムーズで思ったより早く空港到着。「さあこれから」と思っていたら、行きかう大勢の人の中から彼女が私を見つけてやって来ました。びっくり。あっけないほど。笑顔の彼女、ほっとしました。 
 
ホテルで靴を脱ぎその時のことを思いました。
 私が彼女を見つけ遠く離れていた間も私の方が彼女を見ていたと思っていたけれど、実は私のほうが彼女に見つけられ捕らえられていたんだと気づきました。

 昔こういう事がありました。 
クリスチャンホームに生まれた私には、それゆえの克服しなければならない課題がありました。洗礼を受ける受けないは私が決めることだと何年も何年も“信ずるに値する証拠”を求め回っていました。結局、証拠があるかどうかではなくただ一心に身をゆだねられるかどうかだと気づき受洗することができました。(そのあとで、実はこの身のまわりは証拠に満ち満ちているという事に気づきました。)
自分のほうが見つけたとばかりに思っていたのが、実は見つけてもらっていた。私が神を見つけたと思う前に神様はすでに私を見守っていてくれた。私の方が神様に捕まえられていることに気づくかどうかだけだった。 
神の救いと恵みを忘れたつもりはないけれど「もっとこっちを向きなさい」と教えられたのですね。このたびのことはあらためてそのことを思い出させてくれました。

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