2018年2月28日水曜日

いい人生


 この年になるとわかります。

 いい人生とは人のためになる人生。

 悪い人生は自分中心の人生。

 生きるとは、死ぬまで頑張る事です。

 私は死ぬとき「俺は生きたぞ」と思いたい。



 仲代達也さん(2018年の誕生日が来ると86歳の俳優)
 生きるとは 人生とは 死ぬときに確信したい思い。

出るもの

      真剣だと知恵が出る
      中途半端だと愚痴が出る
      いいかげんだと言い訳ばかり

好い調子だなあ 語呂がいいなぁ。 ある本に目を通していた時に引用されていた文言です。 

 日本は農耕 それも手植えの稲作という影響か、抑揚のない左右に力の差のない同じ調子が身についていると思っていましたけれど、こういう語呂のいい七五調 五七五 五七五七七 三三七拍子 なんかも好きですねぇ。 こういうのもあったなぁと改めて思いました。

追伸  何が何でもという程でもなく何気なくいくつかサイトを眺めていたらもう一つ ため息ばかり というのがくっついているものもあったけれどどんなものでしょうか。

2018年2月15日木曜日

責任を取らない国日本


今年最初の日曜礼拝は17日でした。 その日の礼拝説教で「~クリスマスは1225日と思われているけれどロシア正教では16日がクリスマスだ。~ そのあとの初めての日曜礼拝が第1主日、つまり新年という事になる~」という話を耳にしてハッとしました。 知っている人から見ればそんなことでという事になるのでしょうがほかの宗教を引き合いに出さずとも同じキリスト教の中でも様々な宗派があり違いがあるという事は知っていましたけれど、その時は何かこれまで気づかなかったつながりが見えた感じだったんです。。

新年というと11日と思っているけれどこれだって新暦というか西暦の考え方という事になる訳で、世界には様々な暦そして新年 地域文化が共存共栄していることに気づきます。  



 話は突然飛ぶように感じられてしまうと思いますが、季節が一巡し新しい年になると日本は“ご破算”と言ってリセットします。 新しい年を迎えてという事で自分の中で気分新たにと出直すというのはありと思うけれど、自分が悪いことをしたとき責任を取るべき時でも都合よくリセットしてしまうときがあるようでこれはいただけません。

 こんなのは文化でもなんでもないと思うけれど、水に流すとか気持ちを新たに出直すを自分に都合のいいように解釈して取るべき責任を取らないところがあると思います。特に上の人ほど責任を取らない頭を下げない というのがあるなぁと感じています。

2018年2月12日月曜日

出会いは 神様からのプレゼント



  変わりばえのしない毎日

      そんな中で出会う一人一人は

      神様からのプレゼント

                   聖母の騎士 20182月号



縁 出会いを大切なものと考えている私。 そんな私ですが、長い時の流れの中でほんのわずか前には毎日の生活・人生に疲れ 気力を失くし、新たな出会いを避け行動にルーティンを設けその通りなぞる毎日の時がありました。 “自分を守るため” まとった鎧をより強固にし身を縮こまらせていました。 やっとですが職場は行っていました。習い物をいくつも掛け持ちし映画も欠かさず出かけていました。とにかく、電気のついているはずもない家に帰り過ごす時間が少しでも短くなるようにしている毎日でした。 決して好ましい生活態度ではなかったと思うけれどそれはそれで安定。面白みもないけれど破たんもなく “楽”だったんです。 

先日ある物書きの人が(原文のままではありません)「いつも行くショッピングモールのフードコートで一昨日とも昨日とも全く同じものを頼み・・・生気のない顔をしているんだろうなぁ・・・」これではだめだ何とか変えなければではなく、本人はこの生活を結構肯定している散文を目にしました。 思い起こしてみてもそうですが、こういう人 ほんとはいっぱいいるんだろうなぁと思います。

そんな思いで 今の生活・毎日を思うと、縁あって出会い その出会いから始まったたくさんの新たな出会いを ありがたい=有り難い と感じている私に気づきます。

2018年2月7日水曜日

祈り願いそのうえで神様の御心のままに

 ヘブライ人への手紙 第101から3節 が引用された時ハッとしました。
要約すると。 なぜ毎年 なぜ何度も生贄をささげ続けるのか。本当に効いているのなら 一度清められたのなら必要はないのではないか。  その“宗教”が本当のものならば  その(宗教)行為に力が有るならば なぜ何度も行うのか毎年繰り返すのか 何度も行うように求められるのか。 つまり、繰り返すよう求められるのはその宗教 宗教行為 “儀式”には真の力がなく 人の作為ではないかというわけです。かなわないのは備える供物・お金が足りないからだと脅迫するように求めてくる御利益宗教のことを思い浮かべました。
それこそ  聖書の昔から同じようなことがあるんだなぁと思わされました。
願いがかなうかどうかは、祈り願いそのうえで神様の御心。タイミングもかない方も(神からの応答)も人の尺度では測りきれないものだと思っています。どうしてですかなぜですかと思う現実、きっと深い意味があるはずですから。弱い私、正直なところそう思わなければどうしょうもなかった日もありましたから。

沖縄名護市長選(2018年2月4日)にいて


このたびの沖縄名護市長選の結果(201824)にはとても残念で暗澹たる思いでいます。決して楽な選挙ではないと思っていましたけれど辛勝でも基地建設を良しとしない稲峰さんが再選を果たすと思っていましたので。

これまでの言動が示すように自身基地建設推進でありながら、選挙戦では新基地建設予定地“辺野古のへの字も表に出さない”を徹底したようです。選挙期間中はもちろん、それ以前から周到に布石を、安倍政権は何度も何度も突き付けられる新基地建設反対の住民の意思表示に対しては木で鼻をくくったように丁寧に説明し理解してもらうを繰り返しながら、ルール無視の直接介入・切り崩しを行って来ました。 そして徹底した争点隠しで行われたこのたびの選挙結果を見て、さっそく「民意は示された基地建設を進めていく」との発表しました。 

でも民意はどうなのでしょうか? 徹底した争点隠し・切り崩しが行われた中で基地建設容認の当選者に投票したという人でさえもその六割以上が基地の建設には反対だというのです。 やっぱり基地はいやなんです。 でも名護市で暮らす市民はそれだけでは投票先を決めきれないところが現実には難しいところなんでしょうね。 

名護市そして沖縄から遠く離れたこの地で基地反対というのとは別のむずかしさがあるんだなぁと、以前嘉手納基地を望む展望台で 生まれた時から身の回り生活に基地があるのが当たり前だったという地元の人と知り合った時感じた思いを改めて感じました。

沖縄の問題名護の問題 平和の問題、このたびの市長選では基地建設推進派の候補が当選という結果になってはしまいましたけれど、実は基地建設には反対という人が多いわけだし、このたびの選挙の結果がわかった後でもへこたれていない人が多いので、暗澹たる思いなんて口にして申し訳ないけれど私ももうすぐ復活します。

2018年2月1日木曜日

冬至 節分 立春

    確か冬を前にしての長期予報で暖冬小雪と聞いたような気がするんだけれど、年明けからこちらの降雪そして低温続きはどうしたというのでしょう。もう一月の我慢だと自分に言い聞かせてはみるものの春が待ち遠しいばかりです。
そんな毎日を過ごして言えるとはいえ、今週末には節分そして立春。そう、暦の上では春になるのです。寒い寒いと言いながら、夜明け前が一番深いという言葉があるように、朝晩ツルツル ガリガリの道を通うだけでも大変な毎日ですけどほんとあと少しで春という事ですね。 

ここで、羅列ですけど節分・豆まきのことを。   

 日は短く弱弱しい光  雪に閉ざされる冬到来を告げる冬至。 冬と春を分ける節分。それから 立春。
 節分のつきものが、鬼と鬼が近寄らないようにと用意される生臭いあぶったイワシの頭とチクチクと刺さる棘のある柊の小枝。 併せて、「鬼は~外」と言って鬼を追い払う為に投げつける・撒く 豆。 (豆まきの“豆”は地域的な差異や時代の変化でさまざまになってきた)
 昔からの煎り豆。火で煎るという事は浄化(清められ)を意味し。 豆の丸い形は終わりのない永遠を視覚的に表し。 豆・種から春になり芽の出てくる現象は新しい生命の誕生であり、輪廻 繰り返し 子孫繁栄。 火の色の赤は魔除け。 
 有名な言い伝えで、鬼の腕を取った渡辺の綱、渡辺の家は豆まきをしない。 普通掛け声は 福は内 鬼は外 だけれど 福は内鬼も内 と言うところもある。 神社仏閣などでの節分豆まきにおいては豆をまく人も、例えば年男とか話題の人とかが務めるケースもある。

 いろいろですね。 こんな気候だと、地球温暖化・気候変動がほんとに心配だけど、春が待ち遠しい。