物語の終わり方の話から、突拍子もない展開だけど毎度の“記憶”の面白さについて。
多い年で年間100本ほどの封切り映画鑑賞も、職住近接の今の所になってからはすっかり減ってしまいました。こんなに楽に通勤できるのは初めて。そう思うと以前はほんとに“痛勤”でした。 ただし、仕事帰りに寄るという事がなくなってしまったのでもう100本は無理かな。それでも、月に一度はやっぱり劇場に と通っていたのですが今年はCOVID-19のせいでそれもかなわなくなってしまいました。 そのかわりレンタルCD(DVD・BL)は観ています。旧作借り放題会員になったのもあってすごく(!)観ています。 鑑賞スタイルだけでなく、鑑賞作品も変わりました。すっかりはまってしまったんですが、一番多いのは韓国の、それもテレビ作品、これが面白いんです!
“偉大なるマンネリ”の「水戸黄門」のように、主人公が悪人にいじめられる、けれど決してへこたれないし味方が現れる、そして最後には必ず勝つ、というパターンを忠実に踏襲。 場面転換には交通事故、実は財閥の息子・娘だったのパターン・・・ またかと思いながらも、変にひねったり
ひっくり返したりしないので安心してみていられる。勝てそうもない巨悪を相手に十分ハラハラドキドキさせて、回の最後はこの後どうなるのかすぐに続きを観たくなるような展開で終わりになる。要は見せ方・造りがうまいんです。 そんな韓国のテレビ番組ですが、巨悪に勝ったとホッとした後のもう一話・最終回がどうも気が抜けるというか「この回
無しでもいいんじゃない!?」と思うようなのが結構あって、それまでの出来が良い分もったいないと感じてしまう事が結構あります。難しいものですね。
物語の“終わり方”となるといつも頭に浮かぶのは、「釣りキチ三平」で有名な矢口髙雄さんの自伝3部作の一つと言われている「蛍雪時代」の事。 矢口さんが子どものころの記憶、時代で言えば農業機械化の少し前のころ、これから大きく社会が変わる高度成長時代に差し掛かるころ、描かれている矢口さんの母親は(そのころ農家はみんなそうでした)地面に這いつくばり泥田に足を取られながら農作業をしている。腰を曲げた視線の高さでの話が続く。それが最後のカットで俯瞰され一気に解放、木漏れ日のもとで一時目を閉じ休むシーンが描かれるのです。その時の母の記憶を匂いとして蘇らせるところがすごく印象に残っています。
この時の匂いがどんな香だったのか思います。 この作品を目にしたのはずいぶん昔のことになりますし、今手元に現物がないのでなんだったか確かめられないのですが。夏が旬のキュウリかスイカでしょうか。包丁を入れた時の匂い。いいですよね~。 ところが妙なんです。私の頭にはもう一つ浮かんでくるんです。害虫・厄介者として嫌われ者になっているカメムシの匂い(臭い)が。 だからどうというわけではないんですが、どこでどう“記憶”されたのか。この場合の“匂い”はそのもの自体も記憶なんですが、記憶を呼び起こすスイッチの働きをしていると思うのです。 目で見る耳で聞くそして頭で記憶する、この“記憶”は 過ぎてしまえばすべていい思い出となったり、想いが優先されて欠落したり付け足したあり変わってしまったり、“嘘をつく”と言うわけではないけれど事実と変ってしまう事も往々にしてあり得る。でも、もしかしたら舌の記憶や匂いの記憶の方は変わらないのかなぁと思いました。 私の場合のカメムシの記憶・スイッチで呼び起こされるのは、昔家族と賑やかに暮らしていたころ・子どもが小さかったころ、8月夏の終わり朝が少しずつ肌寒くなりだした頃。日中太陽の日差しに当てていた布団を取り込むと裏にカメムシが何匹もいたこと。手作りコンサートなどの片づけの時物をどかすとそこにカメムシがいた、なんてことかな。いまは今で感謝して生活していますが、その後離れて暮らした子どもたちはどうしたのかなぁ・・・ などにつながります。
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