「私達はこの世では片手でしか祈ることができません。*1(もう)片手で*2(は)自分が堕落しないようにつかまっていなければならないからです。天国に行けば両手で祈ることができます。」 聖コルベ神父
*1あった方がわかりやすいかと
*2ないほうがわかりやすいかと
パウロは神の使命として大きな働きを成した人ですが、間違いもおかし、心身ともに問題なく万能な人ではなかったとのことです。 できることならこの棘を取り去ってくださいと言っているほどですからさぞかし辛かったのだと思います。 でも同時に、パウロにはこの”棘゛があったればこそ大きな働きを成すことができたというのは間違いないようです。
さて、ここに続けて書けるような事ではないのですが。私 実は左のお尻と左の膝下から足首にかけて、そして腰背部の傷みが続き難渋しています。 整形を受診したところ、軟骨がすり減っている 腰椎が変形してしまっている状態でした。 昨年の6月のある日の仕事中のことがきっかけで整形外科を受診するに至ったのですが、今の痛みと制限はこの骨の状態を顧みるにそれ以前からであってこの日のことは引き金だったんだと思っています。相手があることなので一応書いておきます。
それにしても痛い。仕事はできるけれど、正直辛いことが多く夕方以降は傷みが増します。 ただし、それがいけないのでしょうが痛いけれど動ける、昔より力が無くなったなぁと痛感するけれど何とかできている。走れなくなりました、ほんとに走れなくなるものなんですね心底びっくりしました。 意識すると無意識にと無理をしているのでしょうが、整形を受診しているとき立っていたら「立ってられるんですね」と言われ、普通この骨の状態では立っていられないレベルなんだなぁとへんに感心してしまうような事も有りました。 整形でお薬をもらい腰椎のブロック注射もしてもらいましたけれど痛みは一向に改善しません。 安静にするまで行かなくとも、仕事をいくらかでも加減出来たら多少なりとも楽になるのかもしれません。でもこの歳になって今までで一番身体的に辛い仕事を、初めての職場で初めての人たちの下で新たに一から覚えなくてはならない条件で働いていますから、いろいろな意味でそういうわけにもいかないのです。 出かけるのも運転も好きな私ですが、昔に比べればずいぶん短い通勤時間の間でも、足をさすりながら動かしながらの状態は残念な思いです。
可愛いMは上の子とはずいぶんと離れてこの世に誕生したので一からすべて必要で、以前のように収入のない今はほんとに大変です。今の収入は、同じ月にもう一回給料日が有ればと思うくらいの物ではありますが、保育園に通うための就労証明をもらうため、可愛いMのため、”痛みを感じながら゛励んでいます。 給与は、頂けるのはありがたいけれど今の時代・社会 生活では不十分。私は年金と併用しているのでまだ”やりくりに苦労しています゛で済んでいるのだと思いますが、これから結婚とか子どもなんて言う人は、とてもとても踏み切れないのではと思います。躊躇すると思います。 日本は人口減少の時代に入りました。もう何十年、”少子化問題対策゛というものが取られてきました。しかし、自己責任とか受益者負担という言葉がはびこる日本の現状では、国レベルでの対策が求められているのに相も変わらずの個人任せのまま。個々の家庭の負担は増える一方で減る状態にはなっていません。
傷みの話に戻ります。 まだ3歳にもならないMのためにも”目標100歳゛と公言しています。自分で「もういい」と思ってしまえば終わりですから。 「もっと肉を食べましょう!(栄養を取りましょう)」と言い出されて久しくなりましたが、年配・高齢者 特に一人暮らしそのまた特に男性一人暮らしの貧弱な食生活は寿命を縮めます。 私は若いJと可愛いM、食欲旺盛な人・成長するために栄養をたくさん取らなければならない人と一緒なので、同年代の 特にいうならば一人暮らしの男の人よりも食事の回数 量、結果として栄養を取っていると思います。 目標も必要もあります。新しいこと(仕事)を覚えなければなりません。人と会います、話します。ストレスにもなり得ますが、それが刺激にもなっています。目標達成できると考えています。 でも今こうしていてもうずく傷みが辛い。どうにも居た堪れません。 この傷み、無理と承知しながら、何とか取り去ってもらえないかと祈る思いです。それなのに私の生活では、祈りが足りていない と自覚しています。大切さをわかっているのに。
で気づいたんです。 そもそも大きな声を出さなければ一番いいのでしょうけど、かわいいMに接するときとっさに大きな声が出てしまって泣かせてしまうとき、一番身近にいてくれて私のことを理解してくれる人に接するとき、この傷みがあるからいい意味で抑制できている、自分の行いを振り返ることができているんだ と。 「そんなのつながりがわからない」といわれてしまえばそれまでですが私にはそう思えて感謝しているのです。
歳を取るのも悪くない 何か不自由(痛み 動きの制限)を抱えるのも意味が有る、と感じられるようにしてもらっていると取ることができるようになれたと感謝しています。
砂の上を神様と私二人(二つ)の足跡が続いていた。 苦しみ悩みを抱えていた時振り返ると足跡は一つになっていた。 この苦しい時に神様は一緒にいてくれなかったのかと祈ったら、「足跡が一つなのは私があなたをおぶって歩いていたからだよ」と声がした。
自分の振る舞いを振り返ると到底天国に入ることができないとわかっています。 それでも、すべてのことを司る全能の神様なら、その御心に少しでもかなう事を行うならばこんな私でさえも救い上げてくれるのではなかろうかと一縷の望みを抱いているのです。 ですから、「聖母の騎士」2024年6月号のサビオ川渕浩修道士の文中で”両手で祈る゛を目にした時「私は片手でも祈っていない、それは、両手で捕まっていなければならない私だからだ」と立ち止まってしまいました。気づきが有りました。 全能の神様がその御心ならばすべてを変えて救ってくださることを確信しています。 今私に多少の不便と痛みを与えてくれているのは、自分を振り返り気づかせてくださるためだ、と納得しています。
ほんとに、神様の成さる事、神様の考えることは人知を超えて有り難いと感謝しています。
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