2019年6月16日日曜日

人生に無駄なものは一つと無い 実感しています


ゲーム作家と並んで人気の職業 声優。 “声優”として有名な人や関係者の発言を紹介する記事や書籍も多く目にします。 それらに目を通していて共通するのは、ゲーム作家になる前にゲーム以外のこと、アニメやゲームの声優になる前にアニメやゲームの世界以外のことをたくさん体験することの大切さ。いろいろなシュチエーション、その時の人の心・気持ち 反応 言葉、その意味を理解できるように。それをちゃんと伝えられえるような表現力 演ずる能力を身に着ける大切さです。



昔 朗読劇の舞台に上がったことがあります。 新しい劇団立ち上げ後の最初の公演が朗読劇でした。 その公演に向けての練習の時、演出から(身振り手振り)下手な演技はするなと言われ、とにかく声で表現することに注視して本番を迎えた覚えがあります。 ところが本番で一人だけ、動き回ってまでこそはしませんでしたが身振り手振り表情豊かに“演じ”きる役者が出たのです。 私自身舞台の最中から 「これではない もっと演じなければ」と感じていましたが、相方が混乱するでしょうし突然は変えられないなぁと思っていましたので正直複雑な思いでした。 公演後のアンケートを読ませてもらったら、わたしに関して 「表情が変わらない…」と書き込まれた物が有りました。良くとれば 表情も変えずに声だけでよくあそこまで演じていたと言って感心してくれたのかもしれません。だとすれば、 演出によるこの朗読劇に向けての練習が、新しく結成された劇団の団員のばらつきをそろえるため 団の態勢を整えるため 団員の見極めという意図のもとにあったのかもしれませんので、演出の思うとおりにできたという事にもなります。けれど先ほどのことがあったので複雑な気持ちでした。 

“声優”とは役者と同じ 演じる能力が重要   声優の人たちの発言に目を通していて「役者と声優の基本は同じ、与えられた役を理解し、表現して伝える、演じる能力が重要。」「声優は声を使って演じる。」「映像の中の主人公が何を考え演じているか、同じ芝居・演技をしながら吹き替える。」「自分で考えて悩んで、表現を手に入れる作業がとても大切。なぜそれをやるのか うまくなるにはどうしたらいいんだろうと常に考えることが大切。」「声優 物語の主人公になるのだから 姿は見せなくとも演技力が必要なのは当然のこと。」「上手な言葉ではなく“生きた言葉”が大切。」「きちんと 表現者になることが大切。」映画もアニメもさまざまな人・人生が描かれるのだから自身のどんな経験も無駄なものはない。」 というものが印象に残りました。 豊かな表情 表現力。深い理解と解釈、それを伝えきる表現力・演技力。 人生に無駄なものは一つと無い。今まで生きてきて実感しています。

2019年6月10日月曜日

苦しみそのものは愛の本質ではありません


「苦しみそのものは愛の本質ではありませんが、苦しみと犠牲は愛の証明です。

愛のために大いに苦しむことができる人は、イエス様のように自分の愛の深いことに幸福を感じることでしょう。」



愛は歓びなのになぜ苦しみがついて回るのか

“愛”というと この身を犠牲にしてでも… ということを聞いたような覚えがあります。  見返りを求めない無償の愛 などということを聞いたような覚えもあります。これには続きがあって、見返りを求める 情が入ったり欲が入ったり、苦ではなく安楽を求める、それらは本当の愛と言えるのか。本当の愛とは 母親が子どもに注ぐ愛だ というようなことが言われていたように覚えています。 

 おそらくは、ここに書いただけ以外にもさまざまに 愛とは を語り説明しようとする言葉が人それぞれの体験に導かれてそれこそ人の数だけ無数にあるのではないでしょうか。

 “苦しみそのものは愛の本質ではありません” 今回この言葉を目にした時 腑に落ちる説明が示されたように私には感じられここに記します。



 実はこの言葉は、「聖母の騎士」誌に連載中の カシアノさんのおくりもの 第6(文・絵/テモテ・マリア中野利晃祐修道士)にあった言葉です。 全文ではありませんが、紹介した言葉の前段の言葉も載せておきます。

 ~  あるばん、私は次のような夢を見ました。コルベ神父様がわたしのところへ来られ、わたしの手を取って、何も言わずにわたしを高い山に連れて行きました。そして「愛する子よ、聖母マリア様がお前をここで犠牲にすることを求めておられる」と言って姿を消しました。 とても不思議な夢で、わたしは深く考えさせられました。聖母がわたしの苦しみを知っておられえ、聖母への愛の証として、そして人々の永遠の救いのために、わたしがその苦しみを耐え忍ぶことを聖母は望んでおられると、はっきり悟ったからです。 「苦しみそのものは愛の本質ではありませんが、苦しみと犠牲は愛の証明です。愛のために大いに苦しむことができる人は、イエス様のように自分の愛の深いことに幸福を感じることでしょう。」  ~

2019年6月8日土曜日

P 19 チッチャロン


フィリピンのスナック菓子「チッチャロン」を紹介します。こちら・写真のものの原材料はチキンの皮、「チキン・スキン・レス・チッチャロン」。チッチャロンにはもう一つ、豚の皮から作られている「バボイ・チッチャロン」もあります。
食感・食味。  豚の方は残念ながら知り合いへのお土産という事で袋を開けて味見というわけにもいきませんでしたが、このチキンの方は食べてみました。 日本でスナック菓子と言うと材料はポテトとかコーンの類。それを油で揚げ塩と各種調味料で味付けしたものになります。それと比較すると、ポテトチップスなどよりもはるかに油っぽさはなく乾燥()した感じ。見た目は、四角く成形されひようめんは網目状になっていました。そして揚げ方なんでしょうけれどかるくて鳥の皮、特に もも肉の皮のイメージはありません。味付けも調味料は感じましたけれど、日本の物より塩気はずいぶん控え気味。ポテトのチップスよりもコーンを材料にして作られた物に近い食感。日本人には、いつも口にしているものと比べて、味気が無くぱさぱさしてると感じられるかもしれません。 塩と油、だから安いんでしょうが栄養的には炭水化物だけのこの手のスナック類を日頃食べない私なんかには、黙って出されたら動物の皮なんて気づかないかもしれませんが。
 今回のチッチャロンは27フィリピンペソでしたが、一つづつのサイズがもっと大きいものもあってそちらは50フィリピンペソだそうです。 私思ったんですけど、塩 油 化学調味料 炭水化物の塊の日本の物に比べれば栄養的には好いのかななんて思ったりしています。

2019年6月2日日曜日

パラレル 並行して 決して交わることがない


パラレル(ワールド) 並行して 決して交わることがない。 


私は捨てるのが下手で、なんでも取って(録って)おいてます。 カメラ 超高速シャッターを切ると別の世界、今まで見えて否かったものが見える!という事は前から知っていました。 逆に、これまでだったら光量が足りない時にそれを補うために使うものだとばかり思っていた長時間露光シャッター・スローシャッターを切ると見えなくなるものがあることも知りました。 日常世界(スピード)において見えているもの、動くもの・自分のまわりを歩いている人たちが消えてしまう。建物は映っていても人がいない。私は映っていても、他の人たちはそこにいない。 

こんなことも知り・感じています。長い間、通る所行くところその先で会う人たちは大きく変わる事なく過ぎてきましたが、ある時を境に会う事のなくなった人がいる。 確かに場所としては以前もその後も同じにある 人も変わらず暮らしているのにだけど見えない・存在が感じられない 会わない人が居る と。

“パラレルワールド”の定義からするとそこに“私”がいないという事で外れてしまうのでしょうが、私が行く所に同じ時間に別の生活・世界がある と感じる感覚がありました。 それで気づいたのです。同じように仕事に行き曜日によっての出かける先は変わらなくても会わなくなった人がいた。 その場所は同じようにあり続け、時には同じ会場に行くことだってあるのに全然会う事のなくなった人がいたのです。 “別の世界”が有る。 回りくどくすごく個人的なことを言っていると思いますが、自分なりにそういう世界の存在を感じたものですから書いてみました。

2019年5月27日月曜日

始めはだらだらと見ていただけだったんですが

先に 新たにゲームも依存症に加えられたことはご存知の方も多いことと思います。関係
の近いところで心配になるような人が幾人もいるのでゲーム依存症のことは気になりますし他人事とは思えません。 
この間()実際忙しくて疲れていた(先週の体育祭のような気持のいい疲労感だけではなかった)せいもあって文章をまとめ上げるという気力にかけるところがあって、ちょっとした時間を活用して取り掛かるとならず漫然とYouTubeを見続けていました。 履歴からなのでしょう、よくまぁ次から次へと私が見たくなるようなのが出てくると半分感心半分寒心の気持になります。時々、こんなの見ないよと思うようなのも出てきますけれど、これは指が触れてしまって再生された物のせいか様子見でたまに混ぜるのかなと思うようなものもありますが。
そんな中、一部が紹介された物を見て前にも書いた・紹介した物ですが、以前自主上映で観たベトナム映画「無人の野」の完全版が今回出てきました。作風は、フランスとか東欧のスタイルに似ているかなぁという印象。 作品は、米軍が“無人”にしたはずの地域に生活し続けるという事が直接的に意味を持つ、それを自身で認識できる。もちろん戦争状態ですから、私が言うようなもんじゃない危険で困難なものなのは当然なのですが、今の日本で人生の目標を見いだせない 自分自身の存在意義すら見失ってしまう日常から見ると大きな違いが、というようなことを書いたかと思います。 こういう意味合いでいうと、これも以前紹介したレンタルショップでも見かけないし今の所YouTubeでも出て来ない「ノーマンズランド」という作品も忘れられません。紛争地帯に設けられた誰もいないはずの安全地帯、そこで出会ってしまった敵対する兵士達。味方に見つけてもらえるよう見通しのいいところに立てば争っている相手から撃たれてしまう。そこで考え出したのが、二人ともが軍服を脱ぎ捨て素っ裸になること。どちらも、味方の兵士なのか敵兵なのか区別がつかず撃つことができない。 服だけ!  敵か味方か 結局そんなことで見分けている。“人間”同士としてはどうなのか考えさせられた作品です。  だらだらと見ていただけだったと思うんですが、そんなことを思わせてもくれました。

2019年5月16日木曜日

痛快 笑いの力 紹介  その弐


納骨()を終えました。 行き違いから延び延びになっていた母と、亡くなったのがこの2月だったので内心少し早いんじゃないかなとも思った父のお骨を収めました。  亡くなった時、「頭ではわかるけど・・・」という感は持ちましたけれど、いざお骨を墓に収めた時「これで何もかも終わりなのかな」という思いに駆られました。

 そんなこんなでしたので、こんな時こそ“笑い”が必要と自分に言い聞かせました。その壱 の後のその弐もありましたしね。 ただしこの笑い、どうも 明るくスカッと笑いきれない感じなんです。でもせっかくですから紹介しておきます。



「アベノミクス」の巻 → 「安倍 のみ クスッ」

 「アベノミクス」 現状は安倍首相だけ、安倍首相の取り巻きしか笑えた状態ではありません。 でも 陰でこそッ クスッと笑っているところが目に浮かびます。 安倍首相は(いくつもの国で破綻 行き詰まりの憂き目にあった新自由主義の発想)「トリクルダウン」なんてことも言ってました。でも安倍首相・取り巻き以外にはいつまでも滴って来ません。欲深な人間 が一度手にしたものを手放すわけがなかったのです。知っていながら何か口にしなけりゃとアピールしたのか、いやもしかしたら、安倍さんはほんとに知らなかった よそでの失敗に学んでいなかったのかもしれませんが。



3本の矢」 「新 3本の矢」 の結果がいつまでも出ない、何年たっても道半ばの言い訳の巻 「道半ば」 → 「バカな道」

安倍さんが提唱した「3本の矢」 その結果がいつまでも出ないことで新たに打ち出したのが「新 3本の矢」。 ところがこれも成果が上がらない、それで言い訳・口にしたのが「道なかば」。  下から読んだら「ばか な道」。 安倍さんが、問われて「道半ば」と言い訳していたのは私も知っていました。でも下から読むと「バカな道」になるとは思いもしませんでした。確かにそう読めるし、実際の所提案していることその結果・成果のほどに目をやるとそういうふうなっているし、安倍さんが自分で言ったんだけど、見事に言い当てていてびっくり。最初にこれ気づいた人 偉い!