「苦しみそのものは愛の本質ではありませんが、苦しみと犠牲は愛の証明です。
愛のために大いに苦しむことができる人は、イエス様のように自分の愛の深いことに幸福を感じることでしょう。」
愛は歓びなのになぜ苦しみがついて回るのか
“愛”というと
この身を犠牲にしてでも… ということを聞いたような覚えがあります。 見返りを求めない無償の愛 などということを聞いたような覚えもあります。これには続きがあって、見返りを求める
情が入ったり欲が入ったり、苦ではなく安楽を求める、それらは本当の愛と言えるのか。本当の愛とは 母親が子どもに注ぐ愛だ というようなことが言われていたように覚えています。
おそらくは、ここに書いただけ以外にもさまざまに 愛とは を語り説明しようとする言葉が人それぞれの体験に導かれてそれこそ人の数だけ無数にあるのではないでしょうか。
“苦しみそのものは愛の本質ではありません” 今回この言葉を目にした時 腑に落ちる説明が示されたように私には感じられここに記します。
実はこの言葉は、「聖母の騎士」誌に連載中の カシアノさんのおくりもの 第6回(文・絵/テモテ・マリア中野利晃祐修道士)にあった言葉です。 全文ではありませんが、紹介した言葉の前段の言葉も載せておきます。
~ あるばん、私は次のような夢を見ました。コルベ神父様がわたしのところへ来られ、わたしの手を取って、何も言わずにわたしを高い山に連れて行きました。そして「愛する子よ、聖母マリア様がお前をここで犠牲にすることを求めておられる」と言って姿を消しました。 とても不思議な夢で、わたしは深く考えさせられました。聖母がわたしの苦しみを知っておられえ、聖母への愛の証として、そして人々の永遠の救いのために、わたしがその苦しみを耐え忍ぶことを聖母は望んでおられると、はっきり悟ったからです。 「苦しみそのものは愛の本質ではありませんが、苦しみと犠牲は愛の証明です。愛のために大いに苦しむことができる人は、イエス様のように自分の愛の深いことに幸福を感じることでしょう。」 ~
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