2015年8月30日日曜日

4日と6日(2015年8月の)


 
84日は住民投票(1996)の日。
私は海に居ました。海に入りながら角田の山を望みました。ここから十数キロのあの山裾に原発が作られようとしていたんだなぁと改めて思い起こしました。今打ち寄せる波は角田の方から新潟方向へ斜めに寄せています。空の雲は西の角田方向から流れてきています。

 

86日。(非人道兵器原爆が6日ヒロシマ9日ナガサキに投下された)
私は“核兵器と戦争のない平和な世界へ”2015ピースアクションin NIIGATAに参加していました。

今年の催し・講演は5年ごとに国連の場を舞台に開催されているNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議に参加した人の報告でした。
どのようにそしてどの位掘り下げて伝えられるかということは様々。でも運動の広がりとともに色々な切り口があった方が好いのは誰しも異論のないところ。
今回私の印象に残ったのはNPT開催期間中さまざまに行われた取組の一つでのやり取りの模様。被爆者の証言も含めて原爆の惨禍を報告した後の質疑応答の場面で「原爆・核兵器をなくせと言っているけれど、日本には原発があるままじゃないか。」という趣旨の話が出たんだそうです。その時は間に入っていた通訳の人が冷静に「原発があるのは確かにその通りだがこの場ではまず核兵器をなくそうという話をしましょう」という趣旨のことを言ったんだそうです。
こういう言い方は昔からありました。そんな風に言われるとまじめに一生懸命やっている人ほど傷ついてしまうんですよね。明らかにおかしいときなど、会場の混乱を覚悟の上で手を上げなければならない時もあるでしょう。きっと発言した人も運動自体を非難 否定したわけじゃあないと思うんだけど、結果として水を差すことになってしまいますよねぇ。
当日の話では触れられていなかったとしても、テーマに合わせて報告内容を検討してきたんだろうし決してその問題を忘れていたわけではないかもしれないのに。
非人道的兵器である核兵器をなくそうという同じ思いで集っている人同志のはずなんだから、否定しているととられるような打撃的な言い方にならないよう気を付けなければと思います。“他山の石”とします。

 

ただここ新潟での平和集会の資料に目を通すと、今年も原発に関しての意思表示がないことに物足りなさを感じます。薩摩川内市の川内原発再稼働が大きな関心事になっているときでしたから。

2015年8月28日金曜日

「食べるものは今日食べて、言うことは明日言え。」


千葉に住むNAさん。昭和19(1944)、自分が小学校2年のとき父が戦死してから必死に自分と弟と妹を抱えて生きてきた母親の言葉を紹介していました。

「食べるものは今日食べて、言うことは明日言え。」

必死に生き抜くため、明日も食べるものがある保証がないなく今日食べられるものがあるなら今日食べておこう。言い返したい時、一晩おいて冷静になってそれでもまだ言いたかったらその時は口にしよう。人生、弱い立場で生きていくときの知恵でしょうか。
この言葉、現在78歳になったNAさん自身これまでの人生で自分に何度も言い聞かせてきた言葉だったのでしょうが、その頃のお母さんにとってはまさに子どもに言うとともに幾度も幾度も自分に言い聞かせてきた言葉なんでしょうね。
戦中・戦後、女手一つで三人の子どもを育てる。決して楽ではなかっただろう生活、そして人生。 育ちざかり食べ盛りの子どもを抱えて明日を考えられない日々だったでしょう。理不尽な扱いに憤りを覚えることもたくさんあったでしょう。そんな時、言い返したくてもぐっと我慢して明日になったら言い返そうと自分に言い聞かせて乗り越えてきたんでしょうね。そして、とにかく食べる物にことかいた戦中・戦後、三人の子どもを抱えてよく乗りきってきたと思うと切なくなりました。 

 私の生まれる前、戦争で夫を亡くしまだ小さかった従兄を連れて実家に帰ってきたおばさん。その後実家に小さい子を残して隣の県で住み込みで働くようになったおばさん。私が中学くらいの時に従兄と一緒に泊まりに行った時「怒りが爆発しそうになった時自分あてに手紙を書く。実際かいているうちに落ち着いてくる。でも時には書き終わってもまだ気持ちの落ち着かないおさまらない時もある。そんな時はその手紙を自分あてに投函し配達されたら読み返してみる。」
その日何でそんな話になったのかは覚えていないけど、辛さ悔しさを話す相手のいない人生を生きるしかなかったおばさんの生きる知恵だったんだと思っています。 

どんな生活を送ってきたのかどんな思いで子どもを育てていたのか。 戦争は多くの女性の人生を家族の生活を壊してきたんだなぁと改めて思いました。

2015年8月26日水曜日

アベノミクス と 自己責任論 が 命を奪う


 日本()は未だ人権意識が低い と痛感させられる出来事が後を絶たないと思っている私ですが、どこの国だったか失念してしまったけど水道使用料金未払いの人への水()供給停止を人権問題だとして行政を訴えたという話を耳()にした時は正直びっくりしました。 
 

 死後何日もたってから見つかる幼い子を抱えた母親。それも最もつらいと言われる餓死で。「ちゃんとたべさせてあげられなくごめんね」などという手紙が残されていたなどと知るといちだんとせつなくなります。
 助けて!と声を上げられなかったのか?と母親のことを全く思わないと言ったらうそになるけれど、以前配属になっていた職場 つまり私の身近な所でもすでにそのようなことが起こっていたことを思うと、本人が声を上げる上げないにかかわらず周りの方の異変に気付く力、人としての感性が鈍くなってきている(させられている)ことに気付かされます。
 その母子が行政の窓口に何度も助けを求めに行っているのに何の手も打たない、それどころか追い返していたということを知るに至っては憤りを覚えます。これは行政による殺人としか思えません。
 社会資源・基盤維持のための負担はわかります。ただしその負担の仕方は能力に応じてであるべきだと思います。まっ、求められてもない袖は振れない、払えないわけですけどね。そこが、自分のせい、何とかしてと我慢してしまうのが日本人の悪いところですけど。
 この親子の場合は、助けを求めて行政の窓口に来た時に生活支援の制度を適応すべきでした。他の諸制度、担当と協力して助けるべきでした。行政・担当の不作為による悲劇としか言いようがありません。必死に働いても見合った賃金でないために貧困から抜け出せない、貧困の悪循環を生んでいる労働環境。4人に1人とも言われている貧困状態にある子供の存在。これらは昨日今日に始まったことではなく根の深いことだけれど、昨今の 人の話を聞かない安倍政権のもとでは改善の糸目も付きません。ここまで来た(社会)問題の深刻さは個人レベルのではありません。“自己責任”という言葉で問題の本質を隠し追い詰めさせておいては新たな悲劇を生むばかりです。

 人それぞれにできることは違うけど、今自分の条件でできることから意思表示すべきですね。社会不安を生まないためにも必要十分な社会保障・社会の安全弁を求めて。それが日本のこれからにつながると思っています。

2015年8月22日土曜日

小規模多機能型施設 2/2


なだらかな坂を上っていく感覚ではなくて 「あっ今階段を一段上がった」そんな感覚を覚えることがあると思います。 時間的には少したってしまったけれど、これから紹介する講演会でそんな感覚を味わいました。

「スウェーデンの認知症ケア」(620日) 講師は北欧の福祉の研修などを仲立ちしてくれるSQC=スウェーデンクオリティケアの方で、当日はスライドを用い手慣れた進め方でした。 以下羅列的に

スウェーデンでは

・高齢者達自身で団体をつくり運動している。決めるのは決して政治家ではなく高齢者・国民が運動、その結果で決定している。(希望→運動→決定)

・地方自治体・コミューンが自分たちの要求で使える予算(税金)が保障されている。

・チームワークとは「どの職種が一番ということではない。それぞれの役割が必要」

・施設内アクティビティ。 全員が同じように参加したがるとは限らない。参加しないのも尊重。

・自分で出来ることはしてもらう。⇔ 職員がするより時間がかかるが。

・一緒に座って話をすることも大事

・食事-時間を決めて一斉にではない。 本人が内容も選択、時間も食べたい時に食べる。 例へば、6時から10時の間ならいつでもどうぞ等。

・(一度)食べたのを忘れてまた(二度)食べる → 二度食べてどのような悪い影響があるのかの視点で対応する。例へば肥満が問題になるようであれば一回の食事量を減らして本人の要求に対応する。   

・家に帰りたいお母さんに会いたい。 → もう遅いから 死んで居ないから などと否定しない。→ そうなの帰りたいの お母さんに会いたいの 家はどんな家かしら お母さんはどんな人でした などと声をかける。

・認知症の人は一人ひとりユニーク →その人 事に対応する

などよく学べました。
 

そして講演後の質疑応答の所が、私にとっては非常に有益でした。

・スウェーデンに小規模多機能型の施設はない。 

小さくてアットホーム、デイ+泊まることもできる。慣れている職員-付き合いが深いなど、学ばないといけないと思っている。

・スウェーデンでは基本的にボランティアは少ない。 職員が対応する。 ボランティアは(介護の)専門家ではない。

・介護職員の処遇は、スウェーデン全体の平均より少し低い。  賃金・待遇 労働環境の改善が進められている。無料の教育プログラムが取り入れられている

・スウェーデンの個人負担は応能負担(日本は応益負担)

・トイレ→この人はどのようなパターンの人か知る、技術的に習熟する。

 

 働き出して数か月たち職場にも仕事にもだいぶ慣れてきたころでしたけれど、今何をしたらいいかそしてこれからの方向を確信できました。

小規模多機能型施設 1/2

 
「毎日何してるの~ ちょっとのぞきに来ない」すっかりご無沙汰していた人からの電話でどんなものかと見に行った先の介護施設。比較的新しい業態で言葉は知っていたものの具体的なイメージが浮かぶほどには実際を知らないままに出かけていきました。

行ってみたら、お年寄りが利用する施設同士なのに、たとえばデイサービスとはずいぶんと雰囲気が違う。具体的にどこがということは最初からつかめたわけではなかったけど、違うということはすぐわかりました。 

その日わかったこと、先ずその規模。小規模といういわれか最大量登録人数は25名。その人たちのうち一日上限14名の方を対象に運営される。もっと大勢の人が登録しその人たちが入れ代わり立ち代わりやってくるデイサービスとはずいぶん違います。そしてデイサービスとの決定的違いは小規模の方は必要に応じて泊まることもできるというところ。

 

働き出したとき介護技術的にも“知識と実際”の違いを実感させられたけど、一番大変だったのは利用登録している20数名の人たち全員を一度に覚えなければならなかったこと。人間関係を結ぶこと。いくら介護・お手伝いと言っても、知らない人に触られたくなんかないですものね。

これはあと後になって確信したけれど“集団対応と個別対応

もちろんほかでもその人個人を見据えてはいるんだけれどそれを承知の上で大きく言わせてもらえばそれは 集団対応と個別対応 という言葉で言い表せると思います。

わたしより少しあとに他の施設・デイサービス経験の長い人が入ってきました。その人は確かにベテランで、段取もいいし“介護技術”“手慣れたもの”。 でもどうしても一つの集団として捉えて対応しているように見えました。これは、長年そういう対応で良しとする施設にいたからなのかなぁ。

 “多機能” これも味噌。介護・食事つきで泊まることもできるは先に書きましたけれど。朝夕の送迎のほかに、必要に応じて病院や他施設お店まで付き添いながらのお出かけも可。すべてができるわけではないけれど私の所は医療要求度が結構高くても対応しています。もちろん在宅訪問も可。よそでは施設や職種によって細かく分けられてしまうところもつなぎ目無しで対応。

同じ小規模多機能型と銘うつところでも細かく言えばいろいろ差異はあるのだろうけれど、ここの対応は集団対応を持って好としているところに置き換えると協調性のない人 問題行動のある人 問題のケースといわれてしまう人・行動も可。 さあみんなでカラオケですよと言われたってみんなが演歌が好き童謡唱歌が好きな人ばかりじゃあないですものね。私なんかジャズボサノバそしてワールド系が好きですもの。

2015年8月18日火曜日

久しぶりの海水浴 舞台  そんな間にあったこと 


やっぱりここ新潟はお盆を境に気候ががらりと変わってしまいますねぇ。もうあの盛りの暑さではないなぁと思いながらも日中はまだそれなりの気温になるものの、朝晩の気温はずいぶん下がりました。朝も変わったなぁと思うものの一番変わったと気づくのは、同じ時間に同じところを車で走っているのに電気をつけなくちゃならなくなったこと。さびしくなります。
そんな新潟なので、日程が気になりながらも水と土の芸術祭参加の舞台公演前に、ほんと何年振りだろう久しぶりに海水浴に出かけました。小学生の子供のいる従兄家族を招いて昼は海、夕方は結構有名なラーメン屋さんにみんなで出かけ、そのあとは花火。翌日は朝ゆっくりしてから、ドライブで少し離れたところにある水族館に出かけました。
小学生の子・NちゃんはもちろんNさんが喜んでくれて、段取もいろいろあったけどやっぱりよかったなぁと思いました。私も疑似家族的に満足できました。感謝
子どもがいたころはそれでも毎年海に出かけていたので その時の海水パンツを久しぶりに穿いてみたら縮んでいました!。 いや、ほんとのところは私が肥ったということなでしょうけど。
 舞台、ほんとはこれじゃあいけないんだけど、動きは確認し全体のチェックもしてはいましたけど個人的には台詞がなかなか入らない。いや、本番の出来のことを考えるとこの時も入っていたのかもしれないけど何せ本番直前になっても関係者全員が顔をそろえるということが全くないというありさまで確かめようがありませんでした。 でもまあ大勢の方が観に来てくれたし、今回初めて舞台に立った人たちもみんな好い顔をしてたし成功と言っていいんじゃないでしょうか。
この本番前休みを取った分その後の勤務日程がきつく、ブログも更新しなければと思った矢先。冷房にしても熱風が出る状態になってしまったエアコンの部屋で作業をしていたらテザリング設定にしていたスマートフォンが高熱・加熱ためついに病に倒れ、その対応でまた数日を要してしまいました。
生きていると毎日いろんなことがあります。大変だけど“生きてるなぁ”って実感します。 

個人的にはそんな数日を過ごしている間に、危険を指摘する多くの声と反対の声に耳を閉ざして九州川内原発が再稼働してしまいました。それも、よりによって11日に。そう、11日というのは東日本大震災・福島第1原発の月命日なんです。傷に塩を塗る行為そのものですよね。逆なでするなぁ。
9日の長崎では盛り込んだというものの、6日の広島で非核三原則を入れなかったことで批判を浴びた安倍首相の70年談話(14日)もありました。この間の、一内閣での憲法解釈変更、秘密保護法・戦争法案によって、一層その内容が危惧されていた談話は5060年・村山小泉談話に盛り込まれた単語を盛り込んではいましたが、いつもながらいろんな音は口から出ているけれど言葉としてはいったい何を言いたいのか本意が明かされない・伝わらないものでした。責任ある立場の人が歴史をかってに修正し、その責任を認めないままに次の世代にまで謝り続けさせる必要はないなどと公言してしまう。相変わらず中身のない話人の心を打たない話し方だなぁ、こんな人が首相だということが情けなくなります。
それを思うと翌15日の全国戦没者追悼式での平成天皇の話が一層光ります。宗教的立場はいつにするけれど人間としては立派だと思います。

2015年8月15日土曜日

唐突ですが 目尻の下がる生活・性格


従兄家族の夏休みの思い出にと出かけた先でNさんがテレビ電話でJさんとつないでくれました。Jさんとは、56日に帰国する前日にあったのが最後だからちょうど3か月ぶり。

 電波の状態が悪いのか画面が時々モザイク状態になるし、色合いもはっきりしないし全体的に今一つ不鮮明。そして電話の角度もあるのか幾分痩せた顔だちに感じました。それでも春の時と同じようにはにかむ様はまさに懐かしい彼女の表情。

2度目の滞在がすでに10年にもなろうというNさんを見ていると、南国の国というところからくるイメージよりは肌の色が濃くなくて、日焼けした日本人という感じ。交通誘導をしている人たちの方がよっぽど色が濃い。普段衣類に隠れているところを確かめるわけにもいかないけれど、実際にフィリピンの日差しで日焼けしての濃さで、長年日本に住むうちに抜けてきたということなのでしょうか。画面の向こう、何枚も着込んでいるのにそれでもまだ「寒い寒い」を連発していた時とは全く違うタンクトップ姿のJさんは、暑い暑いとあえいでいる日本よりもさらに10度も暑いところだから日焼けしたんでしょうか。

一番感じたのは目。ずいぶん目尻が下がって十分たれ目。目の感じ 顔立ちも全部こんなだったっけ。つい3か月前なのに。

 でも思いましたよ。常に目を吊り上げているような生活・性格をしていないということかなぁ と。そう思ったら、そういう性格の人って いいんじゃぁない! と。

2015年8月11日火曜日

健康阻害要因


戦争は最大で最悪の社会的健康阻害要因

この発想 言い回しは決して初めて耳にする言葉ではありません。戦争は破壊と殺戮であり、敗者にはもちろん勝者にも多くの犠牲を払わせます。戦争においてはだれにおいても何の犠牲もなくということはあり得ません。

相対的貧困という言葉がありました。そのものずばりの本もあるくらいだけれど病気には社会性がついて回ります。例へば風邪一つとっても、社会的経済的条件によって栄養状態や環境が異なりその結果風邪にかかりやすかったり治りにくかったりの差異が出てきます。

 

昔、経済的には高度経済成長の時期を経て「食べられないとか生きる死ぬ(絶対的貧困)ということが問題になる時代ではなくなった今や貧困問題は社会的格差から生まれる相対的貧困の時代になった」と言われた時期がありました。それを聞いてそうかぁそういう段階に来たかぁと思った覚えがあります。でもそんなに簡単に線のひけるようなことではありませんでしたね。未だに最もつらい死に方ともいわれる餓死した状態で見つけられる人が後を絶ちません。これは直接生命にかかわる絶対的な貧困ですよ。ただ地域も家庭も力をなくしてきている中で、孤立してだれにも助けてと声をあげられない みつけられないだけ。貧困、格差の拡大はこれだけ国としては経済的に大きくなっても国民一人ひとりにはその恩恵が届いていない状態です。ワーキングプアという言葉で言われるようになった、いくら働いても必要最低限な生活にさえも到達できない低賃金で働く状況が生まれた社会になってしまいました。

 

別の切り口で、ずっとまとめようと思いながらもいまだ形になっていない問題でもあるけれど、今改めて日本の社会問題の深刻さを感じています。

そんな中7月に開催された日本社会医学会の総会で「戦争は最大で最悪の社会的健康阻害要因だ」という特別決議が出されたということで、今ホントに危ない状態にある時に意義ある決議 言葉だと思いますので改めて記しておきたいと思います。

2015年8月10日月曜日

指導と援助


 先日“指導”と“援助”という二つの言葉の説明で、短いけれどとても分かりやすいものを見つけたので紹介します。

 
 

 指導とは

何かをさせようとする接し方

援助とは

何かをしたくなるようにする接し方

 

 

 

怒ると叱るの違い同様似て非なるもの。私としては腑に落ちました。
怒る叱るは私の側の感情状態。指導と援助は相手の側の気持ちの向かい方。 というあたりでしょうか。

近況


達成感と解放感に満たされた穏やかな今朝を迎えています。新潟市主催の「水と土の芸術祭」参加企画の演劇公演が昨日終わりました。
福島第1原発のせいで未だに海山で遊べない子供たちを、せめて夏休みの間の数日間だけでも思う存分遊ばせようという取り組みでこの新潟の地で行われる臨海学校に参加するために来ていた福島・南相馬出身で未だに避難生活を続けている子供とその親御さんたち30名近くを含めて150名近くの人たちが観に来てくれました。
個人的には水と土の芸術祭に多少の疑義があるけれど、今回私は地元の全く経験のない人たちと一つの作品を作り上げるにおいて、観ていて観賞に耐えられるものに仕上げるため参加をしてほしいと声を掛けられ寄せてもらうことにしたのです。
とは言え、あまりにも同時進行でいろんなことにかかわっているからなのかもしれないけれどこの人の台本はいつも遅く役柄や話しの設定も私から見ると決してそのまますすめられるようなものではなく。この度も 台本を手にしてからが話し合いの日々でした。
脚本を書き上げた立場からすれば決して面白いことではないでしょうが私の疑問や指摘 同様のことを他の人からも言われたというところもあり、あまりやっては失礼にあたることだとわかっていながらも直しを受け入れてもらいました。
台本をもらってから約2か月。セリフの入らない原因は台本の読み・回数が圧倒的に足りないからと原因はわかっていても。私個人、早番・遅番そして夜勤もある変則勤務。そしてこの暑さ。夏前ためしにつけた時は冷風が出たのに肝心の真夏に熱風しか出なくなったエアーコンディショナー。 夜も寝苦しく、早番でみなさんの家に迎えに行く時からの体にこたえる暑さと汗でだらだらの入浴当番。言い訳でしょうが、このような事情でこれまでになく台詞が入りませんでした。
 そんなこんなで、どうしようどうしようと思いながらも最後の10日ほどは必至に台本をてに役柄の探求を深めながら、これが私だったらどんな言葉を選び言い回しをするだろうかと考えました。他の俳優との関係で、その人の台詞きっかけを壊さないようにだけは気を付けましたが
結果、多くの人・福島の人みんなが喜んでくれたようだし、このたび初めて“演劇“舞台というもの作り上げていくということにかかわった人たちの、成し遂げたという達成感と清々しさ。もともと地元の人同士だった人が一段とその絆を深めたように感じました。 

ところで、いつも知り合いからは「地で行ってるみたいだ」と言われていました。その人の本意はどうなのかなぁ、演技できてないというふうに感じたのかなぁ。だとしたら私の役作りがうまく行って自然な演技ができたということなんだけどと少し複雑な思いもしていました。この度終わってからの交流会ではこんなことを言われました。「一人だけ演技力が違っていたけれど劇団の人ですか」と。脇にいたこのたび声をかけてくれた代表の人が「劇団の人は私ともう一人で、この人はフリーの人です」と伝えてくれました。演技(力)を評価してくれたのは感謝だけれど、演じていると観えたのならどうだったのかなぁと感じてしまいました。もちろん演技しているんですけど。

台詞・日程調整大変だったけれど、充実した時間を過ごさせてもらいました。感謝