2017年6月26日月曜日

確実に変わってきている沖縄の情勢


今回大田さんの活動を時系列に振り返って気づくことがありました。

大田さんは第2次世界大戦・沖縄戦末期に鉄血勤皇隊に召集され同期125名の内約4分の3を亡くしながらも生き伸びて、戦後は沖縄の戦いの記録発掘(有名な“白旗の少女”も大田さんが戦後在米中発見したもの)に尽力し米軍基地問題に取り組み、県知事だった1995年には米軍基地用地の強制使用に関して代理署名を拒否するという対応もした人でした。 代理署名拒否のことはニュースでも大きく取り上げられ、そんな選択・対応もあったのかと遠く離れた地にいた私も勇気ある行為に感動したものです。

この代理署名拒否以外にも無名の市井の人達による弛まない尊敬すべき行為が日々途切れることなくあった事は想像に難くありませんが、ここではそんな私でも知りえた勇気ある行為を二つ紹介します。

その時を記録した写真をこの目で見ましたけれど、一つ目は第2次世界大戦後アメリカ軍占領下1952年の第一回立法院議員選挙で議員となった瀬長亀次郎さんがアメリカ統治下の琉球政府創立記念式典での宣誓を拒否しほかのみんなが立ち上がっている中ただ一人椅子に着席したままだったという事件。 もう一つは3年前新潟で行われた集会で本人の口から直接話を聴く機会に恵まれた、アンガー琉球列島米民政府高等弁務官の就任式(1966年=昭和41年)で「あなたが最後の琉球列島米民政府高等弁務官でありますように」と祈った平良修牧師の話。

のどれをとってもたやすくできることではありません。それを承知のうえでその後の今の沖縄・辺野古新基地建設に関する動きをみると、地元沖縄の人たちが知事選で国政選挙で何度も新基地建設反対の意思表示をしているのに安倍政権・国は中身の伴わない「丁寧に説明し理解してもらう」を繰り返すばかりで沖縄人の気持ちを聞こうせずこの春には埋め立て作業を強行してしまいました。 わたしなんかは「こんなに反対しているのに…」という思いが全くないと言ったら嘘になります。



ところで、沖縄には個々の勇気ある行動の他に、保守も革新もない“島ぐるみ闘争”という歴史・経験があります。日米講和条約(1952年発効)後に“銃剣とブルドーザー”で基地用地接収が図られたのに対して繰り広げられた保守革新を問わない運動のことです。 その時は切り崩しにより一度志半ばという形になってしまったのですが、1995年(9月)の米兵による少女暴行事件(95年9月)後開催された県民大会。その後も幾度も開催され(つまり基地があることによる事件が繰り返されたという事!)た県民大会が、今の“オール沖縄”運動につながっている歴史があるわけです。

激しさを増し一見厳しい状況のようにも見えますが沖縄の団結は確実に強固なものになってきているというわけです。情勢は確実に変わってきています、自分の方からあきらめなければ終わりではありません。

2017年6月21日水曜日

大田昌秀さんが亡くなりました


大田昌秀さんが亡くなりました。(2017612日) 

大田さんというと1990年から98年まで、28年沖縄県知事を務め、その任期中に軍用地代理署名拒否(駐留軍用地特別措置法に基づきアメリカ軍基地用地使用及び収容に土地所有者が応じない場合に知事が代理で使用に応じる書類に署名捺印するという行為)。米軍人による少女暴行事件(19959月)、県民総決起大会が印象に残っています。

 

沖縄戦末期・19453月、鉄血勤皇隊に徴集され同隊の半数以上をなくし自身も九死に一生 軍・日本の沖縄に対する振る舞いを身を持って体験し、知事になってからも一貫して反軍反戦反基地の考えを貫き平和を求め沖縄の人たちの立場に立って行動した人でした。



それに加えて亡くなられたことを報じる記事の中に、“平和の礎”を建立(1995年)したとあるではありませんか。 平和の礎と言えば一回目の沖縄行きで訪問がかなわず非常に心のこりだったところの一つ。 改めて大田さんの成したことの数々を振り返りました。(すごく有名な“白旗の少女”の写真を世に出したのもその一つ) 

ご冥福をお祈りします。

2017年6月19日月曜日

桑の実ジャム 2/2




・注意するのは、とにかく焦がさないこと。一度焦げた臭い・味はどうにもならないそうです

・灰汁取り  当日は桑の実ジャムのほかに講師の方の家で取れたという小粒のイチゴのジャムも作りましたが、こちらは水気も多く灰汁も出ましたのでお玉で灰汁をすくい取りました。桑の実ジャムのほうは量がイチゴより少なかったからか水気の出方がもともと少ない材料なのか灰汁を取る手間は必要ありませんでした。 材料によって、状況に応じてという事なのでしょうか。 灰汁も味というか、個性 特徴なのでわざと取りきらないという事にもするようです。

・レモン汁 は入れなくてもいい。 ジャム作りにはレモンを入れるものだとばかっり思い込んでいたら、甘味を強めるための酸味という使い方もあるそうですが固めるために入れるんだそうです。レモンに限らず柑橘類全般使えるそうです。より固めにしたい場合はゼラチンを使う手もあるそうです。

・水気を加えずに火にかけても大丈夫。 材料から水分が出てくるから改めて水は加えなくて大丈夫。 一度ミキサーにかけてから鍋にかけるようなもの、たとえばニンジンジャムを作る時ミキサーが回りやすくするためその段階で少し水気を加えることはあるそうです。



出来上がった少し赤みを帯びている黒い果肉の桑の実ジャムの、赤っぽく染まった細かい種は口に運んでも気になりません。 味は甘味の中に青みを感じるような味。食感的には市販の物に感じるゼリーそれも少し硬めのゼリーのようなものとは違う食感。鍋 火にかけていた時の汁気は 火からおろし冷めると汁気が消えて桑の実そのものを口に運ぶような感じ。



この講座を終えて感じたのは

・ジャム作りは決して難しいものではない。

確かにこの日のジャム作り、これまで私が持っていたイメージに比べるとはるかに手軽。 

・大変だと思ったのは、とにかくジャムの材料集め、白いものはもちろん赤いものもまだ早いんだそうで黒く熟した桑の実を集めることでした。 この日のジャム作りに向けて、主催者の人がこまめに採取して冷凍しておいてくれた桑の実があったのでどうにか形になりましたけど。 なんでも今年はいつもの年より黒く熟すのが遅いとのことでした。



昔々の“狩猟採取”生活、木の実などを採取してくる生活(手間)は大変だっただろうなぁと痛感しました。

桑の実ジャム 1/2





この日の作り方は



























・深型ではなく水気が早く飛ぶように底の平たい開口部の大きい鍋と木べらを用意。
鍋はホーローでも銅でもガラスでなくても可。この日もう一種類、イチゴジャムを作る時はごく普通に家庭で見かける持ち手が両方についたアルマイト加工のされたアルミ鍋を使いました。
・採集した桑の実は塩水で汚れを洗い流した後軸を取り除く。軸ははさみで切りとるのが簡単。手で取ろうとすると実をつぶしてしまう。
・火は強火。この日は3,100KCというシールの張られたカセットコンロを使いましたがもっと強い火でもいいんだそうです。 
・鍋に材料を入れ焦げ付かないよう休みなく木べらでかき混ぜているとみるみる水気が出てくる。
強火の火にかけた鍋に水を入れず材料だけを入れるというのは少し不安にもなりましたけどそんな心配は杞憂に終わりました。
・水気が出 材料の形が崩れてきたら材料の重さの30%を目安に砂糖を入れる。
 砂糖は材料の熟し具合、甘さの具合、好みで調節。日持ちさせるには砂糖を多めに。
使う砂糖は、この日は白砂糖でしたが、グラニュー糖が一番きれいにできるとの由。
・砂糖を加えた後は、それまで以上に焦げ付きやすくなるので注意が必要。
・さらにかき回していると木べらの抵抗が増してくる。砂糖を加えたからなのでしょう、木べらを持ち上げてみると糸を引きます。 その状態で完成。

2017年6月16日金曜日

O2 14-11-7 大きなシーサー


 アーケードの向こうが広く明るくなっています。出た先は、左斜め前には奥へ向かって少し上っている道、左から右へ流れてくる道は幅が広くゆるくカーブしながら先に伸びています。その道に向かって立っている私の右手には、威厳のある顔立ちの大きいシーサーが玉に前足をかけて半立ちの姿勢でいます。ずいぶん大きなものです。こんなに大きなものもあるんですねぇ。  
国際通りと反対側にアーケードを抜けシーサー作り体験のできる壺屋近く。桜坂中通りから神原大通に変わるところで見つけたこのシーサーには“壺屋うふシーサー”という名前がありました。 仰ぎ見る人と比較すると その大きさがわかると思います。ゆいレール牧志駅にもこちらと兄弟にあたる大きなシーサーがあるそうです。

シーサーの由来は古代オリエントにまでその起源はさかのぼるとのことですが、身分のある人のお墓や城 集落の境等に置かれる災い除けだったそうです。
でもシーサーと言われて私が思い出す逸話は、明治以降一般の人も家の屋根を瓦でふくことができるようになってから屋根をふいた瓦屋さんが漆喰と瓦のかけらで魔除けとして作ったという話。火災や広く魔除け災い除けという事で屋根の上に置くようになったという話の方が印象に深いですね。

2017年6月13日火曜日

O2 14-11-7 “トンタッキー” 

トンタッキー?! 牧志公設市場一階のお肉屋さんの店頭、無造作にバットに盛られていた豚足・足テビチや 頭というか顔というかチラガー等と共にトンタッキーと書かれた紙が張り出されていました。 鶏肉のケンタッキー・フライドチキンはわかりますがトンタッキーとはどんなものでしょうか。トンタッキーのトンとは豚肉の“トン”でしょうか。 そりゃそうだろうなぁと思いますが、余すところなく食す豚肉付きで有名な沖縄の人でもさすがに鳴き声は食べない(食べられない)そうですが、トンタッキーとはどんなものなのかヤマトンチュウの私には思いつきません。
写真左奥上に目を向けると そこにかかっている看板には トンタッキースモークポーク と書かれています。 もしやと思って「トンタッキー 沖縄」とネット検索してみましたら一発で出ました。スモークした豚足だそうです。ゆでた足テビチ=豚足は食べて来ました。ゆでた豚足は多分にブヨブヨとした食感でしたけれど、それがスモークされるとどんな感じなんでしょうか。

2017年6月12日月曜日

O2 14-11-7 琉球コーラ


桜坂劇場から平和通りに向かって少し下った所に琉球コーラの自動販売機を見つけました。 実際に飲んではいませんが、沖縄・ウチナンチュウの人がヤマトンチュウと言っているところでジャスミン茶と言っているものが沖縄では“さんぴん茶”と名前が変わるという例もありますので、名前が違うだけなのでしょうかそれとも味も微妙に違うのでしょうか。

世界には地球規模で各国に進出している有名ブランドのコーラの他にも、その国独自のそれ以上にもっと限定的な地域ブランドのコーラが存在します。今ではその名前の起こりとなった材料をたとへ使っていなくても、あの独特の色以外のコーラもある時代。極端な話“コーラ”と名乗っていることがコーラの条件と言ってもいいような状態らしいのでナショナルブランドの他にもローカルブランドが多数存在しているのでしょうか。 

個人的なコーラへの関心度は、飲んだことがないわけではなく飲もうとする人を止めようなんてことも思いませんけどほかに様々な飲み物があるし自分ではわざわざ飲まなくてもいいかな、コーラとともに他の飲料が一緒に並んでいたら他の飲料の方に手が伸びる程度です。 
コカ・コーラが大々的に宣伝され全国各地で日常的に入手されるようになったころ、そこにどれだけの真実が含まれているのか当初から疑わしいものでしたけれど、都市伝説的に歯が溶けるとか男子は子どもを作る能力が落ちるとか流布された事を覚えています。ちょうど“70年安保”の前という事もあり、特に二つ目の方はアメリカ(合衆国)がアメリカ人以外の子どもを増やさないようにするためだなんて尾ひれがついていたような気がします。 私はそこまで極端なことは考えませんでしたけれど、アメリカの生活スタイルが素晴らしいものだ 目標だというアメリカ文化の進出・アメリカナイズということは思いました。クリスチャンホームに生まれ、KJ3の取り組みで日本に来ていた若い宣教師にかわいがってもらい“文明”的には当時の日本の一般家庭の生活レベルとは違う生活になじんで育った私ですが、そんな時代背景もありコカ・コーラの日本本格進出がその一環のように見ていたように思います。

話が変な方向にそれもずいぶん大きくなってしまいました。とにかく、ここで沖縄の地域ブランド“琉球コーラ”(の自動販売機)を見つけました。

2017年6月8日木曜日

O2 14-11-7 電柱商店

それで 行ってみました“平和通り” 今度はたっぷり時間を取って。
その平和通りの、昼が近づくとともに人が増えた時の様は生命力たっぷりにうねうねと増殖したのだろう韓国ソウルの南大門を思い起こさせるものでした。曲がりくねり狭い小路の伸び方広がり方、建物と建物・お店とお店の間が近く遠くが見通せません。比較的大きなお店もあるけれどどちらかと言ったら小さなお店も多く、道にまでせり出して品物がいっぱいです。中には“電柱商店”などというものまでありました。

O2 14-11-7 日本で一番短い小路


小路はいっぱいありました。よく、日本で一番まずいとか二番目にまずいとか言って宣伝している食堂・ラーメン屋さんがありますが、ここには“日本で一番短い”と書かれた小路もありました。 

O2 14-11-7 華やかな通りとは別の姿


平和通りの印象、特に国際通りから入ったすぐのあたりは観光客らしき人も多くそれに対応するお店もありましたが少し奥まると人通りも少なくなり服装も地元の人それもどちらかというと年配の人が多く見受けられるように変わってきます。 

使い込まれた昔はこうゆう顔立ちだったなぁと思うマネキンが、下町や地方の小都市に暮すおばさんたちはこういう服を着ているなぁと思う服を身にまとってポーズをとっていました。

全体の印象は使い込まれてすすけているような感じ。時代の流れとしてこの小路・通りがこのままでずっとはいけないと思うけれど、これまで続いてきて今あるあまり明るくない店内照明 内装。華やかな通りとはまた別の日常の沖縄の姿として記憶にとどめておきたいと思いました。

O2 14-11-7 平和通りの分かれ道



そんな“平和通り”をあちこち歩きまわりました。道自体も曲がり起伏が合ったりしていましたが、幾度も遭遇する分かれ道ではどちらへ行こうか思案のし通し。そのどれもが目的地に行くために整理整頓された道・十字路とは違う、それ自体の歴史と存在意義を感じさせてくれるものでした。 

O2 14-11-7 ベトナムの雰囲気 ちとせ商店街








ちとせ商店街ビルの道?通路?の“ひさし”が覆いかぶさっている感じは、実際に行ったわけではなく映像で知るだけですがフランス文化の影響を大きく受けているベトナムの街並み・小路を私に思い出させるような通りでした。








こんなところにまで石敢當がありました。

O2 14-11-7 平和通り

 
響きにひかれて前から行ってみたいと思っていた国際通り、念願かなって行くことができたものの事前の知識不足からどこに行くべきだったのかどこを観るべきだったのか、次に行くときはもっと調べてもっと時間をかけてと思う満足しきれない悔いの残る経験でした。

そんな思いで調べていましたら平和通りというものもあって、観光客が集まるのが国際通りで平和通りは地元の人の台所 地元の人が集まるという記述が目に入りました。

“平和通り”いい名前・響きです。今度はぜひ平和通りを歩いてみたいと強く思いました。