今回大田さんの活動を時系列に振り返って気づくことがありました。
大田さんは第2次世界大戦・沖縄戦末期に鉄血勤皇隊に召集され同期125名の内約4分の3を亡くしながらも生き伸びて、戦後は沖縄の戦いの記録発掘(有名な“白旗の少女”も大田さんが戦後在米中発見したもの)に尽力し米軍基地問題に取り組み、県知事だった1995年には米軍基地用地の強制使用に関して代理署名を拒否するという対応もした人でした。 代理署名拒否のことはニュースでも大きく取り上げられ、そんな選択・対応もあったのかと遠く離れた地にいた私も勇気ある行為に感動したものです。
この代理署名拒否以外にも無名の市井の人達による弛まない尊敬すべき行為が日々途切れることなくあった事は想像に難くありませんが、ここではそんな私でも知りえた勇気ある行為を二つ紹介します。
その時を記録した写真をこの目で見ましたけれど、一つ目は第2次世界大戦後アメリカ軍占領下1952年の第一回立法院議員選挙で議員となった瀬長亀次郎さんがアメリカ統治下の琉球政府創立記念式典での宣誓を拒否しほかのみんなが立ち上がっている中ただ一人椅子に着席したままだったという事件。 もう一つは3年前新潟で行われた集会で本人の口から直接話を聴く機会に恵まれた、アンガー琉球列島米民政府高等弁務官の就任式(1966年=昭和41年)で「あなたが最後の琉球列島米民政府高等弁務官でありますように」と祈った平良修牧師の話。
このどれをとってもたやすくできることではありません。それを承知のうえでその後の今の沖縄・辺野古新基地建設に関する動きをみると、地元沖縄の人たちが知事選で国政選挙で何度も新基地建設反対の意思表示をしているのに安倍政権・国は中身の伴わない「丁寧に説明し理解してもらう」を繰り返すばかりで沖縄人の気持ちを聞こうせずこの春には埋め立て作業を強行してしまいました。 わたしなんかは「こんなに反対しているのに…」という思いが全くないと言ったら嘘になります。
ところで、沖縄には個々の勇気ある行動の他に、保守も革新もない“島ぐるみ闘争”という歴史・経験があります。日米講和条約(1952年発効)後に“銃剣とブルドーザー”で基地用地接収が図られたのに対して繰り広げられた保守革新を問わない運動のことです。 その時は切り崩しにより一度志半ばという形になってしまったのですが、1995年(9月)の米兵による少女暴行事件(95年9月)後開催された県民大会。その後も幾度も開催され(つまり基地があることによる事件が繰り返されたという事!)た県民大会が、今の“オール沖縄”運動につながっている歴史があるわけです。
激しさを増し一見厳しい状況のようにも見えますが沖縄の団結は確実に強固なものになってきているというわけです。情勢は確実に変わってきています、自分の方からあきらめなければ終わりではありません。
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