2019年6月30日日曜日

こだわり を持つという事


念願のマリンバ・カンパニーのコンサートに行って来ました。 念願の というのは、これまで何度も鑑賞会で取り上げてほしいと希望を出していたのがかなったという事なのです。 当然と言えば当然ですが 当夜のマリンバは大型で音域が広く、響きよく倍音が唸った時はぞくっとしました。 メンバーはマリンバやシロフォン グロッケンを担当する女性4人とパーカッションと合間の話を担当する男性が一人。 1時間半のコンサートは小学校入学前の子どもたちも一緒の観劇だったので、曲目や一曲当たりの長さがもっと聴きたいと思わせるコンサートでしたので出来は良かったという事だと思いました。

途中、「仕事として小学校などを回ろうとするとアニメの曲を入れてほしいという要望が出る。でも私たちはクラッシックにこだわっている。アニメを演奏しないという事では仕事のセールがしにくい。けれどそれが自分たちのこだわりだし大事にしたい、こだわっていきたいと思う。」という話が有ったのですが、それが印象に残りました。 グループのアイデンティティという事でこだわりを持つ事は意味のある事。だから今日のコンサートになったのかと腑に落ちました。

ちょっと強引に結び付けますが、戦争反対にも原発事故を繰り返さないにも「こだわりを持つ」時には「根に持つ」そして「忘れない」でいます。

食育という言葉から考えた その2 2/2  病気の社会性


「病気の社会性」という言葉があります。 病気と社会 社会福祉から入って社会保障に進み、この繋がりについて感じ認識は有りました。でもそのものずばりのこの言葉・書籍に遭遇したときは やったー!と思いました。 “病気”は人(個人)かかるものでしょ? いえいえ実は住む地域だったり集団だったりの帰属性が大きく影響しています。風邪一つとっても なりやすい 症状がいつまでも消えず治りにくい 繰り返す 肺炎等重症化しやすいんです。劣悪な住環境 食事・栄養 水だって飲料に適した水が手に入らないところで住むことしかできない、人は思った以上に生まれながらの住む場所も、日常生活に何かあったからと変えられないものです。 備える間もなく突然襲ってくる災害、遅々として進まない災害からの復旧(元通りになるという事はまずありません)。福島第1原発周辺に住んでいたからの強制的非難とか放射能におびえる生活・人生。 じわじわと地域とそこに住む人たちの身体をむしばんでいく公害。 



人の健康、人の生命を脅かす最たるものは戦争でしょう。「大砲かバターか」という有名な言葉があります。平和・平安と戦争(軍備)は両立しません。 砲弾にあたって直接命を落とすだけでなく、紛争下の劣悪な生活環境・飢餓状態では食育・栄養バランスが悪いどころの話ではありません。 国連・WFPの冊子には「食べることは生きること」5歳未満の子供の死因に栄養不良が関係する割合45% 貧血が原因で出産中に亡くなる途上国の妊婦の数1ち日当たり300人  unicefの冊子では「21秒に一人 日本なら治療できる病気で、幼い子供が命を落としています。」防げる病気 救える命  世界では治療も予防も可能な肺炎や下痢 マラリアで年間150万人以上の幼い子供の命が奪われています。 ささいな風邪の症状がたちまち肺炎に進行。 先進国ではまず死に結び付かない病気下痢。きれいな水が手に入らず下痢で命が危険に。  支援活動にあたるスタッフの切ない思いを一つ紹介します。「命がけでやっと救護施設にたどり着き清潔な水を飲み栄養を補給して症状が一定の改善を見た後、ふたたび生まれ育ったところに帰ったとたんきれいな水も十分な食事(栄養)も取れず再び命の危機に見舞われる子供たち。」 予後が見えてしまうスタッフの気持ちやいかばかりか とこちらまで切なくなってしまいます。

2019年6月29日土曜日

食育という言葉から考えた その2 1/2  食欲は生命力

私の知る限り、以前の父は食事に関してこだわる方ではありませんでした。それが高齢になり、幸い施設には恵まれたと感謝していますが日常の生活をそれまでのように送ることができなくなり施設に入所することになりました。そこでは、家で見る父とは大きく異なる姿を目にするほどに慣れひたしんで暮らすとともに「あれが食べたいこれが食べたい」「今度来るとき持ってきてくれ」と言う事が多くなったのです。 その後歳を加えるとともに徐々に身体が弱り、救急車で病院に搬送され入院。施設もいくつか変わり、誤嚥性肺炎を繰り返すため経管栄養となってしまいました。それでも、初めて聞くような小さかったころの話、昔口にした食べ物の話などを聞くことができました。 そんなでしたので、せめて匂いだけでもと季節の物や甘いものを鼻に近づけると意識してか無意識か口をパカッとほんとに見事に開けるものだからせつなくなったことがあります。 最後の最後の何か月かはあれが食べたいと話す、それ以上に言葉数自体少なくなり“食べたい”と言っていたころを思うと食べるという事は健康 成長 生きる意欲に直結するほどに大切な行為“食欲は生命力”だなぁと改めて感じていました。 

2019年6月28日金曜日

“食育” 食育という言葉から考えた 2/2  国民の命と安全を守る義務の放棄


   “食事”(清潔な水も含めて) の重要性は改めて言うまでもありません。 誕生(宿る前から) 成長、どのタイミング・年齢にどのような栄養がどれくらい必要か。 身体の成長のみならず社会性の面でも大きな違いに結び付いています。学習や仕事 地域・社会生活と食事の関係、自然だけでなく社会環境にも目を向けなければなりません。

法律レベルだけでなく、第2次世界大戦敗戦そして高度経済成長を境に日本の社会構造は大きく変わりました。地域・家族が力をなくすのに反比例して、それまで見えなかった問題が多くの人の知る所となりました。社会問題が発見されたのです。  話飛んで食のこと。いまだ“手作り弁当こそが親の愛情だ”で(中学校)給食の導入に反対したままの人・行政、効率化の名のもとの後退もありますが、栄養士が栄養バランスを考えて小学校と多くの中学校で給食を提供しています。 ニュース・報道で取り上げられるくらいですからまだ当たり前にどこでもの段階にはなっていないという事なのでしょうが、大学や企業でも食事(特に朝食)の重要性から学生食堂や社員食堂に改めて力を入れるところが増えてきています。 食事・食生活、生活習慣病・肥満や糖尿病等となると投薬開始の前にまず食事と運動の重要性が言われるほどです。 内科的外科的を問はず治療・入院が必要になった時、健康の回復 維持には直接的な手術や投薬だけでなく栄養補給、疾病に対応した食事(病院食)も抜きにはできません。 それほどに“食”というものは大切なのに、破壊と殺戮にしか役に立たない武器を購入する予算はあるのに「財政が苦しいから…」と教育や医療などの社会保障をじわじわとけれど確実に縮小させている。(実際の税収以上の武器購入の仕方をしているのもすごく心配)

“核” 世界・時代の潮目は変わったと思います。 いまだ根本的な解決策の見つからない使用済み核燃料の厄介な問題。より高い基準で求められるようになった上にテロ対策も講じなければならない安全対策。私に言わせれば原子力発電施設は固定式核兵器。その人知を超えた危険性。あからさまなからくりを要して原子力が一番安いなどと言い張る日本。 福島第1原発事故はいまだ終息のめどは立たず。普通これだけダメージを受ければその時点で営利企業なら撤退。その上コスト的にも実は劣っている。 そこまで行っても原発推進・ 再生可能エネルギーへの作為的=サボタージュ。 

これらはまさに政治的選択そのもの。これらの政治的選択は国民の命と安全を守る義務のある政府・行政の責任放棄だと思っています。

2019年6月27日木曜日

“食育” 食育という言葉から考えた 1/2  人物紹介 食育の祖と言われる石塚左玄 

 
石塚左玄が陸軍軍医退職後刊行した「科学的食養長寿論」(1896)の中で「食育」という言葉を著しました。  考え方として、生きるために食べる 命をつなぐために食べる から、成長のためにはどのタイミングでどのような栄養・食事がどれくらい必要か へ。時代が変わった社会(経済)が変わった、そして気づいたという事でしょうか。その後この考え方は「食育基本法(2005年施行)の前文にも受け継がれ今に至っています。  ただし私思うんです。本人の従軍経験(日清戦争他)もありますし、1896年と言うと旧日本帝国陸軍の時代ですから富国強兵が事の始まりだったのかもしれない と。

2019年6月16日日曜日

人生に無駄なものは一つと無い 実感しています


ゲーム作家と並んで人気の職業 声優。 “声優”として有名な人や関係者の発言を紹介する記事や書籍も多く目にします。 それらに目を通していて共通するのは、ゲーム作家になる前にゲーム以外のこと、アニメやゲームの声優になる前にアニメやゲームの世界以外のことをたくさん体験することの大切さ。いろいろなシュチエーション、その時の人の心・気持ち 反応 言葉、その意味を理解できるように。それをちゃんと伝えられえるような表現力 演ずる能力を身に着ける大切さです。



昔 朗読劇の舞台に上がったことがあります。 新しい劇団立ち上げ後の最初の公演が朗読劇でした。 その公演に向けての練習の時、演出から(身振り手振り)下手な演技はするなと言われ、とにかく声で表現することに注視して本番を迎えた覚えがあります。 ところが本番で一人だけ、動き回ってまでこそはしませんでしたが身振り手振り表情豊かに“演じ”きる役者が出たのです。 私自身舞台の最中から 「これではない もっと演じなければ」と感じていましたが、相方が混乱するでしょうし突然は変えられないなぁと思っていましたので正直複雑な思いでした。 公演後のアンケートを読ませてもらったら、わたしに関して 「表情が変わらない…」と書き込まれた物が有りました。良くとれば 表情も変えずに声だけでよくあそこまで演じていたと言って感心してくれたのかもしれません。だとすれば、 演出によるこの朗読劇に向けての練習が、新しく結成された劇団の団員のばらつきをそろえるため 団の態勢を整えるため 団員の見極めという意図のもとにあったのかもしれませんので、演出の思うとおりにできたという事にもなります。けれど先ほどのことがあったので複雑な気持ちでした。 

“声優”とは役者と同じ 演じる能力が重要   声優の人たちの発言に目を通していて「役者と声優の基本は同じ、与えられた役を理解し、表現して伝える、演じる能力が重要。」「声優は声を使って演じる。」「映像の中の主人公が何を考え演じているか、同じ芝居・演技をしながら吹き替える。」「自分で考えて悩んで、表現を手に入れる作業がとても大切。なぜそれをやるのか うまくなるにはどうしたらいいんだろうと常に考えることが大切。」「声優 物語の主人公になるのだから 姿は見せなくとも演技力が必要なのは当然のこと。」「上手な言葉ではなく“生きた言葉”が大切。」「きちんと 表現者になることが大切。」映画もアニメもさまざまな人・人生が描かれるのだから自身のどんな経験も無駄なものはない。」 というものが印象に残りました。 豊かな表情 表現力。深い理解と解釈、それを伝えきる表現力・演技力。 人生に無駄なものは一つと無い。今まで生きてきて実感しています。

2019年6月10日月曜日

苦しみそのものは愛の本質ではありません


「苦しみそのものは愛の本質ではありませんが、苦しみと犠牲は愛の証明です。

愛のために大いに苦しむことができる人は、イエス様のように自分の愛の深いことに幸福を感じることでしょう。」



愛は歓びなのになぜ苦しみがついて回るのか

“愛”というと この身を犠牲にしてでも… ということを聞いたような覚えがあります。  見返りを求めない無償の愛 などということを聞いたような覚えもあります。これには続きがあって、見返りを求める 情が入ったり欲が入ったり、苦ではなく安楽を求める、それらは本当の愛と言えるのか。本当の愛とは 母親が子どもに注ぐ愛だ というようなことが言われていたように覚えています。 

 おそらくは、ここに書いただけ以外にもさまざまに 愛とは を語り説明しようとする言葉が人それぞれの体験に導かれてそれこそ人の数だけ無数にあるのではないでしょうか。

 “苦しみそのものは愛の本質ではありません” 今回この言葉を目にした時 腑に落ちる説明が示されたように私には感じられここに記します。



 実はこの言葉は、「聖母の騎士」誌に連載中の カシアノさんのおくりもの 第6(文・絵/テモテ・マリア中野利晃祐修道士)にあった言葉です。 全文ではありませんが、紹介した言葉の前段の言葉も載せておきます。

 ~  あるばん、私は次のような夢を見ました。コルベ神父様がわたしのところへ来られ、わたしの手を取って、何も言わずにわたしを高い山に連れて行きました。そして「愛する子よ、聖母マリア様がお前をここで犠牲にすることを求めておられる」と言って姿を消しました。 とても不思議な夢で、わたしは深く考えさせられました。聖母がわたしの苦しみを知っておられえ、聖母への愛の証として、そして人々の永遠の救いのために、わたしがその苦しみを耐え忍ぶことを聖母は望んでおられると、はっきり悟ったからです。 「苦しみそのものは愛の本質ではありませんが、苦しみと犠牲は愛の証明です。愛のために大いに苦しむことができる人は、イエス様のように自分の愛の深いことに幸福を感じることでしょう。」  ~

2019年6月8日土曜日

P 19 チッチャロン


フィリピンのスナック菓子「チッチャロン」を紹介します。こちら・写真のものの原材料はチキンの皮、「チキン・スキン・レス・チッチャロン」。チッチャロンにはもう一つ、豚の皮から作られている「バボイ・チッチャロン」もあります。
食感・食味。  豚の方は残念ながら知り合いへのお土産という事で袋を開けて味見というわけにもいきませんでしたが、このチキンの方は食べてみました。 日本でスナック菓子と言うと材料はポテトとかコーンの類。それを油で揚げ塩と各種調味料で味付けしたものになります。それと比較すると、ポテトチップスなどよりもはるかに油っぽさはなく乾燥()した感じ。見た目は、四角く成形されひようめんは網目状になっていました。そして揚げ方なんでしょうけれどかるくて鳥の皮、特に もも肉の皮のイメージはありません。味付けも調味料は感じましたけれど、日本の物より塩気はずいぶん控え気味。ポテトのチップスよりもコーンを材料にして作られた物に近い食感。日本人には、いつも口にしているものと比べて、味気が無くぱさぱさしてると感じられるかもしれません。 塩と油、だから安いんでしょうが栄養的には炭水化物だけのこの手のスナック類を日頃食べない私なんかには、黙って出されたら動物の皮なんて気づかないかもしれませんが。
 今回のチッチャロンは27フィリピンペソでしたが、一つづつのサイズがもっと大きいものもあってそちらは50フィリピンペソだそうです。 私思ったんですけど、塩 油 化学調味料 炭水化物の塊の日本の物に比べれば栄養的には好いのかななんて思ったりしています。

2019年6月2日日曜日

パラレル 並行して 決して交わることがない


パラレル(ワールド) 並行して 決して交わることがない。 


私は捨てるのが下手で、なんでも取って(録って)おいてます。 カメラ 超高速シャッターを切ると別の世界、今まで見えて否かったものが見える!という事は前から知っていました。 逆に、これまでだったら光量が足りない時にそれを補うために使うものだとばかり思っていた長時間露光シャッター・スローシャッターを切ると見えなくなるものがあることも知りました。 日常世界(スピード)において見えているもの、動くもの・自分のまわりを歩いている人たちが消えてしまう。建物は映っていても人がいない。私は映っていても、他の人たちはそこにいない。 

こんなことも知り・感じています。長い間、通る所行くところその先で会う人たちは大きく変わる事なく過ぎてきましたが、ある時を境に会う事のなくなった人がいる。 確かに場所としては以前もその後も同じにある 人も変わらず暮らしているのにだけど見えない・存在が感じられない 会わない人が居る と。

“パラレルワールド”の定義からするとそこに“私”がいないという事で外れてしまうのでしょうが、私が行く所に同じ時間に別の生活・世界がある と感じる感覚がありました。 それで気づいたのです。同じように仕事に行き曜日によっての出かける先は変わらなくても会わなくなった人がいた。 その場所は同じようにあり続け、時には同じ会場に行くことだってあるのに全然会う事のなくなった人がいたのです。 “別の世界”が有る。 回りくどくすごく個人的なことを言っていると思いますが、自分なりにそういう世界の存在を感じたものですから書いてみました。