2012年10月8日月曜日

他人の犠牲によってなるものは幸せでも正義でもなんでもない


「オバー自慢の爆弾鍋」の楽天性、へこたれない柔軟性のことを書いたせいも多少あるのかこのところまたウチナージャズを聴いています。

どこか懐かしい、角のない、聞いていて和む演奏 音作り。きっと演奏している人たちが 穏やかな人たちなんだろうなぁと思いが至りました。(もちろん、沖縄だって穏やかなひとたちばかりでないことはわかるし、他所にだって穏やかな人がたくさんいることはわかっています。)

 直近のオスプレイのことを始め、辛く 悔しいことがたくさんあるだろうに。

もしかしたら、痛みを感じている故に他の人の傷みがよくわかるのでしょうね。

 
  そんなことを思うとはなしに思っていて「はッ」と頭に鮮やかによみがえってきた言葉があります。
   それは
「ほかの犠牲の上に成り立っているものはなくさなくてはいけない」  と言う言葉。

間違いなくそれ以前からそういう認識 言葉はあったと思うけれど「ほかの犠牲の上に成り立っているものはなくさなくてはいけない」。言うなれば「誰か(どこか)の犠牲の上に成り立っている正義、幸せはない」という短い言葉は、私の心にあったこと、目の前の出来事を短い言葉でどう判断したらいいかを明確にしてくれたと思いました。

       


そういう視点でこの度のオスプレイのことをもう一度考えてみると沖縄の犠牲で一段落とさせてはいけないと改めて思いました。

 まあこの度のことは山口の岩国にもいたし飛行訓練ルートは日本中にあるのでより問題が沖縄の事だけじゃないと鮮明になったと思いますけど。

 

ビキニ集会の時に「だれも広島と長崎の責任を取っていない。だからビキニ・第五福竜丸が起こり、福島が繰り返された。」と言う言葉を聞きました。

そうすることも必要だったとも思うけれど、広島と長崎を象徴とすることによって私たちはそこで思考を行動を停止していたのかもしれないなぁと思いました。

 “象徴として忘れない、けれど他所は別”としてしまっていなかっただろうか。だから繰り返してしまったのかもしれないこの度の福島。

問題を、他人の傷みを、自分の事として真剣に考えないとどうなるかをこの度の福島第1原発の事故が突き付けたと思いました。

 

話しが唐突に飛ぶ印象でしょうが、神様はあのパウロにも足の不自由を与えました。
そして、こんな私にさえも。
辛いし大変だし、この傷みを何とか取り去ってくださいと願ったことも何度あったことか。

 でも、そのおかげでほんの、ほんとに少しだけれど前よりは人になれたんだと感謝して受け入れているつもりでいます。

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