2014年4月13日日曜日

数年ぶりに参加できた集会 と 引いてはいけない“線引き” について


18回目となるNM学術運動交流集会に参加してきました。(2014412)

この取り組みは、わざわざ一日特別休診体制にしてより多くの関係者が参加できるようにと位置づけられる大きな取組です。思えばここ数年は参加する予定にしていながら、当日はどうにも身体がいうことをきかずに欠席でした。そう思うと先の選択はその点でも身体にはよかったんでしょうね。実際大変でしたよ。
 さすがに通勤まではまだ感じはしませんが、このような年に一度のような催しは、あぁ今年が最後なんだなぁ とか 少なくともこのような立場での参加はこれでおしまいなんだなぁと思ったりします。そういう意味では新鮮(!?)かなぁ。

この名前での開催となる以前から同様の集会は毎年開催際されていました。その当初のころに比べると規模と言い内容と言い、発表する側も聞く側も格段にレベルが上がってきたと思います。良くも悪くも、今後は開催の仕方での検討が一段と必要な段階にまで来ていることは間違いないと思います。

楽しみにしていた、全大会での三上満さんの講演は話し方と言い琴線に触れるエピソードの数々と言い期待を裏切らないものでした。
 
 
 

同時に3会場という分散会は物理的に無理なので泣く泣く取捨選択しましたが、その中の一つ「最近の水俣病の戦いと被害者たちの現状」と題して関川医師から行われたものの中に、他とも共通する問題だと思う発想(311における被ばく線量の安全基準)が出ていたのでそれをここで書き留めておきます。
 それは 昭和35年 昭和40年問題 と報告されていたもので。
水俣病の“行政”認定上において、昭和35年まで阿賀野川流域に1年以上居住し阿賀野川の魚をたくさん食べたか、水俣病の原因となった水銀を昭和電工で使用しなくなった昭和40年 というはっきりとした線引きがあるということなんです。
 昨年12月にも提訴前夜集会の模様を伝える一文をアップしましたがさまざまだと思うんですよね。大規模な事故などで高濃度の暴露状態になれば劇症型の症状も出るでしょうし亡くなる人も出てくるでしょう。でもさまざまだと思うんですよね。
 在野の研究者故河辺先生の研究でも、観測される水銀の濃度は工場の操業状態を反映しての増減はあるものの、ある年から急に出現してある年に忽然と消えてしまうというあらわれ方はありません。
 どういう状態でというのは私には想像でいくつかのケースを思いつくくらいでしかありませんけれど、例えば洪水などで濃度が上がるようなこともあるとのことだし人為的に回収(それでも0ということはないと思いますが)でもしなければたとえ濃度が下がったとしても 低濃度になっていったとしても汚染は続くわけです。
 その上 社会的な公害によるものは、具合が悪くてもその時は名乗り出られないということがあるのが常ですから。
 個人の抱える様々な事情。それは 社会的 地域的 個人の身体と様々でしょう。 低濃度だけれども長い間その状態に置かれるということもあるでしょう。そのことによっての遅発性の発症もあるわけです。

ある時をもってして“線を引く”ということは不可能だと思います。そしてしてはいけないことだと思います。福島第1原発における 年間被ばく量の“安全基準”と同様 社会的な病気 状態においては 線を引いてはいけないと思います。
 それ以上でも発症しないというケースもあるかもしれない、けれどそれ以下でも発症するというケースもあるだろうし、何より放射能のことについては時間的に人類にとってはこれからはじめてわかってくるだろうことがいっぱいあるのだけは間違いないのですから。

 

このたびは、数年ぶりに参加した(できた)集会ということでの私個人の違い(体調)、そしてそこで目にした 線引き ということで思うことを書かせてもらいました。

0 件のコメント: