2015年7月29日水曜日

国策の結果に無責任な日本政府


日本経済新聞 2014223日 日曜に考える 熱風の日本史第26回 捨てられた「勝ち組」(昭和)遠見卓見より
 

1973年に帰国した「勝ち組」の人たちを取材して感じたのは、国家を信じて疑わない純粋さと忠実さ。とくに農村出身の人はその傾向が強かった。彼らの年代は「日本は絶対負けない」という教育を受けてきた。

 戦前、日本は日韓併合の国策として、日本人と朝鮮人との「内線結婚」を奨励した。彼らと子供たちは戦後に両国で差別的扱いを受けた。日本国家は全く手を差し伸べなかった。ブラジルの移民問題と共通するものを感じた。日本は国策の結果に対してあまりにも無責任だ。

 日本の近代史には穴が開いたように知られていないことがたくさんある。国策の結果、苦しんだ人たちがいたことを忘れてはいけないし、記録にとどめておかなければならない。

 藤崎康夫 サンパウロ・ニッケイ新聞東京支社長
 



       特に今の安倍政権において心配な
      広島長崎そしてビキニ 加えて福島
       “従軍慰安婦”の問題
       教科書 教育の問題
          を思うと一段と意味のある指摘。
  
 

 

*「勝ち組」

海外移民先で、第2次世界大戦が日本の無条件降伏において終わったことを信じなかった人たち。日本が負けたとする人たちを襲撃殺害する事件を起こした。特にブラジルの勝ち組が有名。

2015年7月27日月曜日

燕市教育委員会が文化芸術的に後援するに足る作品ではないとした映画「ひろしま」


今朝は久しぶりにゆったりとしています。と言っても夕方から仕事なのでもう少ししたら徐々に調子を上げていかなければいけませんが。
先週は早番の日があったり遅番の日があったりで大変でした。その上に、土曜午前は子育て支援センターで の公演。午後からよるは父がお世話になっている施設の納涼会でPAのお手伝い。開けて日曜午前は水と土の芸術祭参加企画の演劇の練習。昼からは、やっぱり手塚治虫さんはすごい人だったと再認識させられた、人形劇団クラルテによる「火の鳥」黎明編の観劇。これは大勢集まったし、演じ手のすごさで一段と感じた色褪せない今こそともいえるテーマに感じるところ大でした。

その感動も冷めやらぬ中 燕で上映会が催されるということで、私だけでなく多くの人にとってもそのような存在のこれまでどうしても観ることのできなかった映画「ひろしま」を、火の鳥終演時間からの時間が非常に厳しかったけれど今日何としてもみたいと高速で駆けつけました。

映画は想像通り見て楽しいというものではありませんでした。「ああもう少しで原爆投下時間だ」という時間の流れがわかるものだからその瞬間に向かっての場面を観ていてつらいものがありました。もちろん原爆による惨禍をこの映画だけで描ききれるものではないでしょうが「数ある作品の中ではこの映像が一番近い」と、実際に原爆投下後の広島で救援活動に当たり戦後平和活動にかかわり続けている肥田舜太郎さんに言わせている再現映像は、俳優たちの鬼気迫る演技と相まって恐ろしいものでした。地獄を実際に見たことはないけれど「これは地獄じゃ」という台詞を聴くと本当にこのようなものなのかもしれないと思うに十分でした。
原爆投下・戦後も7年も8年もたち復興する中で原爆=ピカを自分の体験として知らない人も出てきます。激しく影響を受けた人たちが時をおかずして亡くなった後でも、原爆=放射能の影響で亡くなる人が後を絶ちません。同じ広島の人、たとえその日その時に広島にいてピカを体験している人の中でも「私は違うじゃけん」と被爆者とは違うとしたい人々も出てきました。その存在に聞かせる形での(実は私たち観客に聞かせるための)資料的な場面は、映画「アオギリにたくして」でも印象的なシーンの一つに通ずるものがありました。と同時に、今のご時世だからなおさら上映しようという人がいるように、当時実際に広島に住み被爆した人たちが、証言し遺品を提供し9万に近い人たちが実際に原爆投下後の場面にも出演しているのです。何とかこの地獄絵図を記録しておきたい、再びこのようなことが起こらないようにという思いが伝わってきます。
映画終盤では、原爆により戦災孤児となりその後をやっと生き抜いてきた青年が務めた工場で大砲の弾を作り出したので「もう戦争は嫌だ」と仕事を辞めた挿話が出てきました。1953年に公開された作品ということを考えると第2次世界大戦が終わってからまだ何年もたっていないうちに起きた朝鮮戦争のことを言っているのだろうなぁと、ただ過去のことを描くだけでない視点も盛り込まれていて一段とこの作品のことを考えてしまいました。

この映画、決して楽しい映画ではありません。けれど、原爆の事実を留めておきたいという強い思いが作り手にも市民にも役者にもある、後世に留めておくべき一本だと思いました。無理をして時間をやりくりして観に行った価値がありました。
ちなみにこの映画は公開当時、 映像的にも 扱われた逸話においても国の内外で物議をかもす中1955年の第5回ベルリン国際映画祭において長編映画賞を受賞するという評価を受けてきている作品でもあります。 

最後に、この度この作品を上映するにあたっての話を一つ紹介します。
上映後あいさつに立った人がこんなことを話してくれました。
このたび上映会を計画するにあたって市の教育委員会に後援をお願いに行ったら“この映画は文化的にも芸術的にも後援するに足る作品ではない”と断られたのだそうです。何おか言わんやです。却下した理由は別の所にあるというのは見え見え。逆に、だからこそこの作品の重要さが改めて裏付けられたということになったと思います。

2015年7月22日水曜日

「沖縄連帯・支援の集いin新潟」(2015.7.19)


春先から案内を目にしていた、沖縄の伊波洋一さんを講師に招いての「沖縄連帯・支援の集いin新潟」(2015.7.19)に行ってきました。
 集会は大勢が集まりすごい熱気でした。こんなことを言っても地元のひとでないとわからないでしょうが、信濃川右岸の近道を通り会場を目指し県庁を過ぎて少ししたあたりで会場を目指す車による渋滞に巻き込まれてしまいました。特に昨年からの、辺野古新基地建設を巡っての動きで多くの国民が関心を高めているところに先日の安倍政権による安保法制=戦争法案強行に対する思いの意思表示の場として一段と多くの人が詰めかけているようです。雰囲気が変わってきていると何度も書いていますが、ここへ来て一段と変わってきたと思います。

 伊波さんによる講演-沖縄からの報告-「沖縄が変われば日本が変わり、アメリカも変わる」は、私にとってここ数年で一二と感じさせる内容でした。
 紹介される数々の資料の一つ一つが驚く内容、各資料のつながりもとても滑らか。それを時系列に並べて見直してみるとまたびっくり。いかに用意周到に準備を積み重ね、戦争に向かって準備がされてきていたんだということがすごくよくわかりました。
その資料の数々が極秘扱いのものではなく、関心を持って当たれば一般の人でも普通に入手できる公表されているものだということに2度びっくり。

辺野古に建設が画策されている新基地が、単に世界で最も危険と言われる普天間基地の移転ではなく規模も機能も大幅に強化されてのものだということ。いかに大浦の自然を破壊するものであるか、それはアメリカ(合衆国)本国では通らないことを日本・沖縄では平気でやっている。その二重基準に対して、日本の政府は何ら異を唱えるどころか日本の国民に対してアメリカのお先棒を担いでいることがよくわかりました。
 スライドで紹介される沖縄戦の映像“鉄の雨”という言葉は知っていたけれどこれほどのことかこういうことかということが目で見てほんとによくわかりました。 事件事故の実例・数の紹介。まさに植民地状態、いかにアメリカに遇されていたか、日本に切り捨てられていたか。アメリカ占領下での沖縄の人たちの上に降りかかった惨禍。具体的な数字 資料 映像で紹介してくれました。
 その中には、わざと地域振興を図らず基地があるから潤っているように意図的に仕向けられてきたこれまでと、不十分ながらも返還された地区の開発、そして平和・観光産業によって地域が大きく変わり経済構造も変わってきた流。東アジアにおける沖縄の地理的な位置・優位性。 歴史から見ても交易で栄えた沖縄 観光・平和産業によって発展してきている現在の沖縄。  

 原発も攻撃されるだろうとなっているアメリカによる戦略研究も紹介されました。
アメリカは経済規模で大きく伸びる中国と直接戦火を交えないで済むように、日本を守るのではなく中国と直接たたかわないようにするために日本を引きずり込もうとしているアメリカの狙い。

 それにつけても。安保法制=戦争法案 自体問題ですが、それ以前に日本の国会に法案を提案する前にアメリカ議会で法案成立を約束してしまう屈辱的な安倍首相の言動・日本政府の卑屈な態度。対米従属以外の何ものでもないと思います。

2015年7月18日土曜日

10-9-17 ソウルと烏頭山(オドサン)統一展望台   日常と戦争の距離

 

 臨津閣・自由の橋 烏頭山(オドサン)統一展望台 とソウルの近さ=日常(生活)と 非日常(戦争)の距離(近さ)を実感しました
 

 ソウルと先ほどの臨津閣公園・自由の橋は高速を使ってバスで約1時間。そして臨津閣公園からソウルに戻るような方向でこの統一展望台まではバスで約20分。感覚的にはすべてが近いところにまとまっている感じです。ガイドブックにあるごく簡単な地図を見て改めてその近さにびっくりしました。この近さじゃあ、ソウルの人が(北朝鮮は)漢江を下って一気に攻めてくると心配するのも当然と理解できました。 
 
 

臨津閣・自由の橋 烏頭山(オドサン)統一展望台よりも一般には耳なじみのある板門店。こちらの言葉・発音ではパンムンジョムというそうだけど、板門店はこの先こことはまた別の所で、一般の人でも絶対に行けない所というわけではないそうですが、個人で勝手にきやすくというわけにはいかないそうです。 団体のみ、国境を超えるわけでなくともパスポート持参との由。  
 

いずれにしても、地理上の距離はこんなに近くても政治上の距離は相当あるということですね。

福島第1 ビキニ 奇しくも同じ進展


楢葉町の福島第1原発事故後出されていた避難指示が解除されることになりました。まだまだ福島第1原発の事故の収束はおろか、その糸口・めどすら立っていない状態でそんなことをしていいの!と感じています。
 結果、同じようなことを感じた人が多数いたようで、当初8月のお盆の前にでもとされていたものが9月に先送りされるということになりました。 

除染作業の進み具合も含めて放射線量の問題。そして何より、生活していくうえで欠かせない水道などの生活基盤の整備がまだ終わっていない。お店がない学校も病院も復旧していない現実を無視して「解除しました。もう安全だから帰りなさい。」と言われても帰れるものではありません。
下がったからと言いながら、例へば新潟とは一ケタ違うと言われる放射線量。医療・教育環境がそろわないという課題以前に、育ちざかりの子どもたちは細胞レベルの傷つきでもその細胞がどんどん細胞分裂して傷ついた細胞が増えていくのでその悪影響が出ないはずがありません。子どもの行く末を心配する親や祖父母の心配は当然のこと。

 

それにつけても当初の予定が先送りになったと公表されたら突然、すでに避難策から帰った人たちのこと・“地区”のことが放送され始めたのにはびっくりしました。気にしている方の私でも、地区単位では避難指示が解除されていたということは初めて知りました。「驚くことはありませんよ、すでに帰ってちゃんとらしている人がこんなにいますよ」とお先棒を担いでの宣伝。そこまでやるんだなぁと、その姿勢の卑屈さにある意味感心さえしてしまいました。
 それらの報道の中で、政府方針としてすでに20173月には帰還困難区域以外の避難指示を解除する予定でいるということも知りました。解除したのだから支援・保証もこれで終わりですよというふうに持っていこうとしているんだろうなぁ。ビキニ水爆事故後のマーシャル諸島・ロンゲラップ島の人たちにアメリカ合衆国が行った対応、行い続けている対応と同じ進展です。何処でも同じようなことをやるもんですねぇ。

2015年7月8日水曜日

御嶽  再び吉野裕子さんと結び付けてくれたもの


  私にとっては貴重な資料 でも人から見るとただの紙屑 を整理していて久しぶりに見直した在野の民俗学者・吉野裕子さん紹介記事について。  (日本経済新聞 2004425日 遅咲きのひと より) 

  この記事を手元に残したのは、印象的な南伸坊さんのイラストに添えられていた「何かを始めるのに遅すぎるということはないと思うの」という言葉。 「なぜ?」と感じると疑問をそのままにしておけない~という文章でした。
「~吉野裕子は趣味で習っていた日本舞踊でなぜ扇を使うのか扇の起源はなんなのかが突然気になり扇を扱っている職人や学者にも聞いてみるが納得のできる返事は聞かれない。ならば と自分で答えを捜しだしたのは50歳の時だった。専業主婦だった吉野裕子は、東北から沖縄まで足を運び 扇の起源は沖縄の神を祭る御嶽(うたき)にある御神木 蒲葵(びろう)の葉 が起源ということにたどり着く。~」

 そして今日紹介しようと思い立ったのは“御嶽”という言葉・地名をそこに見つけたからです。前回行きそびれた平和の礎そして高江に行った昨秋、この御嶽にも初めて行ったのです。前日一人で那覇の平和通そして首里城に行っていて、御嶽で巫女が祈りをささげる場所が首里の王様の玉座と向かい合う方向だという説明を聞いて、戦績を実際に回って感じた感慨とは別に思いを深くした経験があったもので、前に目にした時とはまた異なる意味で印象深かったもので。 

  私の中で、ここ数年ほんとにすべてが結び付きだしているんです。10年も前特に意識することなく瞬時に残す方に振り分けていたこの記事にもこのような日が来るとは。

2015年7月7日火曜日

「ブームではなく文化に」


                  「ブームではなく文化に」
 

女子サッカーワールドカップ日本代表チームのキャプテン宮間あやさんはインタビューの中でまたまた深い好いことを言いました。
もともと日本人は童顔なほうなのに、その中でも一層そういう顔立ちの宮間選手はサッカーの技術はもちろん抜きんでているけれどキャプテンとしても、そして人としてもほんとにかしこい人ですね
人は、自分のため(だけに)にという時は意外と簡単にあきらめてしまうものだけれど、だれか人のためにとなると苦しくてもやり通してしまうもの。
今回代表に選ばれた一人一人が、勝ちたいいいプレーをしたいと思うとともに日本の女子サッカーのことを考えて一生懸命だったということを知り感動しています。この言葉はその思いを端的に言い表している言葉だと思います。
それにしてもいいこと言いますね。

 

昨夜のテレビは、見ごたえのある感動的な試合だったこともありたたえる声がどの番組でも聞かれました。そんな中で事前に時間をかけて制作されていた番組で、日本の女子サッカー人口が優勝したアメリカ合衆国の40分の一。”プロ”と呼ばれてもその位置づけ・待遇のあまりにも大きい格差を指摘するものがありました。
すそ野が広がらなくてはより優れた選手から成るチームは作り上げられないし、すそ野を広げるにはサッカーを仕事として選択しても成り立つ道筋がなければ良い方向に変わっては行かないでしょう。
前回のワールドカップで優勝し日本の女子サッカーが一躍注目されそれまでに比べればマスコミの露出も人気もずいぶん変わりました。それでも日本代表になるほどの選手でも、ワールドカップに出るほどの選手でもサッカーでは食べていけず、生活のために仕事を優先している現実。サッカー選手になればイコール プロとして生活が保障されるわけではないのは承知しています。いくら好きだからと言ってそれだけで生活ができる高額の契約金・報酬がもらえるわけではないということは承知しています。けれど選手として一流になれば、プロ契約が結ばれればアルバイトをしなくとも生活が成り立つという道筋がなければすそ野は広がらないでしょう。

2015年7月6日月曜日

サッカー女子ワールドカップ・カナダ大会


 

サッカー女子ワールドカップ・カナダ大会決勝戦(201576日)日本対アメリカ戦結局今日の午前中はほぼこの一戦で終わってしまいました。 

急ぎ手を付けなければいけないのになかなか集中できず内心焦っていることがあるのだけれど、今日の試合はその時間を割くに値する決勝戦にふさわしい見ごたえのある試合でした。

身体の動きだけでなく内面まで感じられて、試合中も試合後も、そして試合に勝つということは優勝するということは準優勝になるということはこういう違いがあるんだなということまで見せてくれて良い物を見せてもらったと感じています。

 どちらのチーム・選手のみんなありがとう。

2015年7月3日金曜日

行きました 写真を撮ってきました だけではだめなんです


新キ兵例会に参加してきました。(2015626日金曜 1830~ )この度は新潟在住のカメラマンSYさんを講師に招いてということでした。この名前は2月のシリア入国を目的とするパスポート騒動で久しぶりに耳にしました。
もう結構前のことになってしまいますが、初めてSYという名前を耳にしたころMTという名前もあちこちで耳にしました。当時の私は正直な所二人を混同していました。その後MTさんの方は写真そしてそれにかかわっての行動を継続し深め、方やSYさんの方はまれにその消息を聞くくらいで写真を目にすることもありませんでした。今は何をしているんだろういったい何をしたいのだろう何を生業として生活しているんだろうと思っていました。正直な所、まれに耳目にするときはいつも突拍子もない印象で、発想に少し関心を持ちながらも同時に何か違うような危惧も感じていました。 2月のISによる日本人ジャーナリスト殺害事件(多くの人々・ジャーナリストが殺されていますがここでは話の進め方で)後の渡航宣言とパスポートを巡る騒動のときも、もしかしたら私が知らないだけでこの間も何らかのことをしていたのかもしれないと思ってもみましたが、それにしても唐突な再登場でした。
同じころ名前を耳にした二人だけれど、その後の経緯は随分と違ってしまったように感じます。 

当夜は確かに、司会者による講師紹介そして自己紹介でパスポート返納のことが出てきましたがこの日のメインはシリアに行く資金をためるために昨年行った原発事故処理中の福島第1原発の写真とその時の話。→ 公式には3次下請けまでになっているが私は6次下請けだった。途中でピンハネがくわえられ日給1万円だった。仕事を紹介してくれたのは右翼の人間が主催していたペーパーカンパニー。 これが汚染水をためているタンクこれが漏れたオイルこれが漏れたオイルの入っていたタンク、なんの役にもたたない防護服を着ている私。いい宿舎いい部屋は地元の人に取られていた…  ただ話しの進め方写真の紹介も唐突で それでどうなの なにを伝えたいのかがさっぱり伝わらない。○○だからこれを見てくれということではなくてただあっちへ飛んだりこっち飛んだり。言葉(単語)は耳に響くけれどそれで何?という感じ。 途中何度も「今日は持ってきませんでしたが~」と言っていましたけれど、今夜に向けてちゃんと準備をしたの?いくら小さい集まりといえどこれではなぁという感じ。 私でさえ結果として満足してもらえないことになろうとも、自分なりにちゃんと準備をして臨みます。この人に対しての違和感、どうもわからない共感しきれない原因はこんなところにあったのかもしれません。 

パスポート返納に関してはこれから東京で裁判を起こすのだそうです。今弁護士と打ち合わせをしているのだそうですが、弁護士からは地元で支援するグループを作ってくれと言われている、資金カンパもお願いしたいと言っていました。人それぞれ、様々なので支援者も現れるだろうし、カンパも寄せられるだろけど私はそんな想いにはなれませんでした。

その時その場 現場に立つのが大事だと言っている私でも、じゃあ現場に立てばそれだけでいいなんてことは思いません。なぜその時その場に行ったのか自分でも考え、それを伝えるためにどうしたらいいかを考えて発信する。それが伴わなければ行きっ放し、手段が目的になってしまって終わりだと思います。 確かにこの人は現場に行った、でもそれで何をということではそれ以上のものを少なくともこの夜は感じられませんでした。

2015年7月2日木曜日

10-9-17 烏頭山(オドサン)統一展望台 3/3  展望台(室)から

 

この日一日を通してみてみれば決して悪天候というわけではなかったのですが、統一展望台・展望室から対岸を望むころはたまたまガスが出ていたというか見通しが悪く、イムジン河越しに北朝鮮側の“宣伝村”と呼ばれているところをよく見ることができませんでした。

ガスが出て見通しが効かないというのは、この地形的な条件そして時間帯なども何か影響しているのかなぁなんて感じました。攻めるも護も昔から重要な場所だったんでしょうね。

統一展望台・展望室では、説明映像が英語中国語と並んで日本語でも用意されていました。それだけ日本人が来るのか、意味合いとして別の配慮があるのかはわかりませんが。

 

 ところで、いくら大河を挟んでだとは言え特別に大きな兵器でなくとも十分届きそうなくらいに近い韓国と休戦状態にある対岸の北朝鮮。天気のいい日に望遠鏡越しなら人々の簿暮らしぶりまで十分に望めることでしょう。北朝鮮ではどのように呼んでいるのかわかりませんが、だからこそ“宣伝”村と言われるゆえんなんでしょうね。東西冷戦時代の西ベルリンが東ドイツ・東欧諸国に対してのショーウインドーだったなんて昔のことを思い出してしまいました。

 

でもこちら展望室から対岸の家々まで見えるということは、きっと向こうもこちらを監視しているんでしょうね。技術の進歩を伴ってということがあるけれど、今の社会情勢ですからここだけに限られたことではないのが怖いところですが。