2015年7月27日月曜日

燕市教育委員会が文化芸術的に後援するに足る作品ではないとした映画「ひろしま」


今朝は久しぶりにゆったりとしています。と言っても夕方から仕事なのでもう少ししたら徐々に調子を上げていかなければいけませんが。
先週は早番の日があったり遅番の日があったりで大変でした。その上に、土曜午前は子育て支援センターで の公演。午後からよるは父がお世話になっている施設の納涼会でPAのお手伝い。開けて日曜午前は水と土の芸術祭参加企画の演劇の練習。昼からは、やっぱり手塚治虫さんはすごい人だったと再認識させられた、人形劇団クラルテによる「火の鳥」黎明編の観劇。これは大勢集まったし、演じ手のすごさで一段と感じた色褪せない今こそともいえるテーマに感じるところ大でした。

その感動も冷めやらぬ中 燕で上映会が催されるということで、私だけでなく多くの人にとってもそのような存在のこれまでどうしても観ることのできなかった映画「ひろしま」を、火の鳥終演時間からの時間が非常に厳しかったけれど今日何としてもみたいと高速で駆けつけました。

映画は想像通り見て楽しいというものではありませんでした。「ああもう少しで原爆投下時間だ」という時間の流れがわかるものだからその瞬間に向かっての場面を観ていてつらいものがありました。もちろん原爆による惨禍をこの映画だけで描ききれるものではないでしょうが「数ある作品の中ではこの映像が一番近い」と、実際に原爆投下後の広島で救援活動に当たり戦後平和活動にかかわり続けている肥田舜太郎さんに言わせている再現映像は、俳優たちの鬼気迫る演技と相まって恐ろしいものでした。地獄を実際に見たことはないけれど「これは地獄じゃ」という台詞を聴くと本当にこのようなものなのかもしれないと思うに十分でした。
原爆投下・戦後も7年も8年もたち復興する中で原爆=ピカを自分の体験として知らない人も出てきます。激しく影響を受けた人たちが時をおかずして亡くなった後でも、原爆=放射能の影響で亡くなる人が後を絶ちません。同じ広島の人、たとえその日その時に広島にいてピカを体験している人の中でも「私は違うじゃけん」と被爆者とは違うとしたい人々も出てきました。その存在に聞かせる形での(実は私たち観客に聞かせるための)資料的な場面は、映画「アオギリにたくして」でも印象的なシーンの一つに通ずるものがありました。と同時に、今のご時世だからなおさら上映しようという人がいるように、当時実際に広島に住み被爆した人たちが、証言し遺品を提供し9万に近い人たちが実際に原爆投下後の場面にも出演しているのです。何とかこの地獄絵図を記録しておきたい、再びこのようなことが起こらないようにという思いが伝わってきます。
映画終盤では、原爆により戦災孤児となりその後をやっと生き抜いてきた青年が務めた工場で大砲の弾を作り出したので「もう戦争は嫌だ」と仕事を辞めた挿話が出てきました。1953年に公開された作品ということを考えると第2次世界大戦が終わってからまだ何年もたっていないうちに起きた朝鮮戦争のことを言っているのだろうなぁと、ただ過去のことを描くだけでない視点も盛り込まれていて一段とこの作品のことを考えてしまいました。

この映画、決して楽しい映画ではありません。けれど、原爆の事実を留めておきたいという強い思いが作り手にも市民にも役者にもある、後世に留めておくべき一本だと思いました。無理をして時間をやりくりして観に行った価値がありました。
ちなみにこの映画は公開当時、 映像的にも 扱われた逸話においても国の内外で物議をかもす中1955年の第5回ベルリン国際映画祭において長編映画賞を受賞するという評価を受けてきている作品でもあります。 

最後に、この度この作品を上映するにあたっての話を一つ紹介します。
上映後あいさつに立った人がこんなことを話してくれました。
このたび上映会を計画するにあたって市の教育委員会に後援をお願いに行ったら“この映画は文化的にも芸術的にも後援するに足る作品ではない”と断られたのだそうです。何おか言わんやです。却下した理由は別の所にあるというのは見え見え。逆に、だからこそこの作品の重要さが改めて裏付けられたということになったと思います。

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