以前は、教会 教会員に 聖書に 証明を求めていました。 この神は信じるに足りるか 頭を垂れ洗礼を受けるに足りるか、教会に集う人達は と証を探し求めていました。 「私の身には重すぎる荷です」と取り去ってもらう事を神様に願う日々の後、救いを求め悩み苦しんでいる人と話す機会が有りました。その人は私なんかより“知識”も探求もしてきている人。何年にもわたり様々な宗教宗派を回ったその人は、一つ一つを比較し納得できる証拠を探し証明を求めていました。けれどいずれにも良いところが有り足りないところが有り、結局どれにも決められずにいました。 この どんぐりの背比べ状態に陥ってしまった人との出会は私に一層の確信をもたらしました。 なぜ“信仰を持っていても”受洗まで到達できないのか。それは、自分を納得させるできる証明・証拠を見つけようと探すからかじゃないかと思いました。 神のことを調べる証拠を見つけようとする行為、したくなる気持ちは良く理解はできます。でも今は、神 証明 証拠 を探すだけの時はだめだと思っています。証明を探す行いから始まってもいいけれど、「そんなものどうでもいい」となった時に、洗礼を受けられる(身に付く)のだ。」と思うようになりました。 人知を超えたところにある神の計画 人間の時間軸を超えた神の計画の前では、人間の知識 時間だけでは説明しきれるはずがないのです。 身体でも気持ちでも何か重荷を架せられる“棘”を与えられてこんなことを考えるようになれました。
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