2021年9月20日月曜日

記念紙誌原稿 洗礼を受ける 8/8

 


   長々と話してきました。 証明や証拠を遠くまで探しに行かなくともと気付くきっかけ、実は意外と簡単なんだよと気付くきっかけについて。 この度4人目の子どもが与えられることになった人が出席する礼拝に送迎し一緒に顔を出した時、そのスタイルのあまりに違うのにびっくり。そこで気付くことが有ったのです。 ある礼拝の帰りに聞いてみました「今日はどうだったの?」と。その返事は「楽しかった」でした。 礼拝で説教を聴いて、為になる有り難いという事は有っても楽しいという表現の仕方を私は知りませんでした。 神の前に頭を垂れ、神妙な様で祈る事は有っても、アップテンポの曲(讃美歌)に合わせて思い切り声を出し踊ることさえある礼拝は私の“礼拝”のイメージを覆してしまいました。 賛美歌を歌う時、見事なまでののコール&レスポンス。 祈り。祝福の時は一緒になって念を送るように手を掲げ、今日ここに再び集えたことを感謝する姿に感銘を受けました。 私はこの一人一人の姿、全体の雰囲気の中で「これでいいんだ」と改めて気づかされ確信しました。 私は ずっと自分に対してもまわりに対しても納得させる“証拠”を探していました。神の姿を求め声を求めていました。でもほんとは、ただひたすら感謝すればいい。生ある事今日ここに来れたこと、家族のこと仕事のこと、理由を付けたり説明しようなど考えずに、ただ喜び感謝すればいいのだとこの姿に接して確信しました。 自分を納得させるに足る証拠を探すではなくただ感謝すればよかった。 今は、様々な経験をすることによって証明を求めるのではなく神を感じるようになったことを感謝し子どもの名前を考えています。

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