キルタン・バジャイ・コンサートでは、寺院に詣る時そして寺院で日常奉じられている音楽が紹介されました。
当然ながらヒンズー教の たくさんの神様がたたえられ祈られている音楽、説明でした。
たくさんの神様
たとえば 不安な夜をしのぎ朝になり 朝日を見た時思わず頭を下げる気持ちよくわかります。自然の営みに接していると確かに人知を越えた尊いことを感じ、文化によってはそれを神に結びつけることもあるだろうなぁと。
でも神様ってそんなに大勢居るものなの!?と私は思っちゃいます。
私の神は唯一の存在であり、すべてのその奥にいる神なのです。
そういう確信を感じられるようになったのは、様々な出来事に遭遇し なぜ!と思ったり できれば感じないですめばと願ったりもした体験の故です。
大変だったし失うものもたくさんあったけど、そのおかげで得るもの わかるようになったこともたくさん。
そのおかげで今の私があるわけだし。
でもその深淵に私自身が直接体験したことだけでなくこんなことも大きく影響しています。
(おことわり・原本に当たってはいません)
それに学び後にそれを発展させたマルクスは、へーゲル哲学を高く評価しながらも人類の誕生を含めすべての事象、宇宙の誕生のきっかけの“最初の一撃”を神に求めたところに時代的限界、弱点があると指摘しました。
へーゲル個人の人間的限界ではなく、時代の進歩がまだそこまでだったのだと指摘したのです。
今時代は、科学は、そのころよりも格段に進歩しました。以前はここまでと思っていたことが、研究・仮説・実証の中でその先にまで踏み出しています。
すごい進歩だと思います。
でもそれで神は居なくなったのか?と問うてみると逆にいっそう神の存在を感じてしまうのです。私は。
これほどまでのことは人間業ではない、神業だと
これは観ました。
「大草原の中の小さな家」その中のどの回だったか失念してしまいましたが、ローラがおじさん(おじいさん)に出会います。森の中、その前後経緯は覚えていませんが、清流に足を踏み入れ流れの中の石を見て話します。人間・科学の進歩で様々なことが解き明かされてきた、それはすばらしいこと、でも神様は居なくなったのではない。そう話しながら流れの中の石に手を伸ばし裏がえすようにして少し持ち上げ言います「神はこの後ろにいるんだよ」と。
そうなんだ! 私は感動しました。
同じようなことを思っていました。でもこれほどまでに分かりやすい言葉で、映像で見せてもらえるとは。
すとんと腑に落ちました。ほんとにすっきりしました。
大事なこと、真理をこんなに分かりやすく伝える発想と技術に敬服します。
話は飛びますけど、大草原だけでなく、たとえばセサミでもそうですし大スターといわれる人でも結構“子ども番組”に出演するんですよ。それも真摯な態度で。いいことですよね。元々 子どもでも観られる番組はあっても“子ども(だまし)の番組”はそんな言葉も含めて向こう(この場合はアメリカ合衆国)にはないんでしょうね。
観ているとはッとするときが結構あります。
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