2016年9月29日木曜日

病気だけれど決して不幸ではない


今年のリオ・オリンピックで団体でも個人総合でも金を取った内村航平選手がある大会で銀に終わった時、母親が息子に「銀は金より良いと書くのよ」と語ったことを以前書きました。

そんな感じの思いやりと優しさでいっぱいの心から出た言葉を知りましたので記します。 

それは姉(6歳)が難病の筋ジストロフィーの小さい妹(4歳)のことを思う中で生まれた言葉です。


「筋ジストロフィーは豪華な名前です。


       “ きん”   もついてるし “ トロフィー ”   もついているからです。」


                                                                                                                  KY(姉)

2016年9月25日日曜日

2016夏 二つの集会 2/2 2016 なくそて原発柏崎集会 (9月3日 柏崎市文化会館アルフォーレ)


   昨年の集会終わりのあいさつで「来年は柏崎刈羽原発を人間の鎖で包囲しましょう」との訴えは、残念ながら移送の課題が解決できないという事でかなわずダメでした。 その結果第3回となる今年の集会は、駅近くのアルフォーレを会場に静岡県湖西市の三上元市長を講師に「原発立地県からの発信 脱原発8つの理由」と題した講演会。制服向上委員会の歌、各団体の取り組み報告、パレードという内容となりました。



会は一段とかかわる人・団体の輪が広がっているように感じました。その運動は浜岡原発から60㎞圏に入る浜名湖西岸に位置する湖西市の脱原発を目指す首長会議・世話人でもある三上市長の話をはじめより多様に具体的になってきているように感じました。

春夏秋冬の各季節ごとに行っている風船プロジェクトの報告では、冬に挙げたときわずか3時間で170㎞も離れた福島市から風船が飛んできたという連絡が来たそうです。530㎞圏内の避難計画でもいまだ大きな課題が解決されないままなのにわずか3時間で170㎞ですよ。時間とともに休みなく放射能は拡散し続けるわけですが、それに加えてわずかな時間でそこまでという速さの問題もあるということですよね。根本は原発があること自体が問題なわけですが、事故対応避難対策の課題が残るままの現状を考えると恐ろしい話です。

三上市長の話はとても分かりやすい口調と内容で、戦争になれば標的になる原発はテロや飛行機の墜落という想定を全くしていない。地震大国の日本、津波を避けるどころかわざわざ危ない海岸線に原発を建設している。使用済み核燃料問題が解決していない。 本当は安くないと最近とみに争点になってきている原発のコストの話等々、原発にかかわる問題も含めての危険性 経済性に関して資料を示しながらわかりやすく話してくれました。



  びっくりしたのはこの日も母親大会の時と同じように泉田さんの名前が出てきたこと。「今立候補を表明している人が知事になったら柏崎刈羽原発が再稼働してしまいますよ。泉田県知事を何で立候補させないんですか。」と話していました。新潟の人が思っている以上に、県外では評価されているんですね。

2016年9月23日金曜日

2016夏 二つの集会 1/2 第62回 新潟県母親大会


暑かった夏も終わり、日もほんとに短くなりました夕方なんか真っ暗です。この夏もいろんなことを体験しました、順に記すつもりですが今日は母親大会と柏崎集会のことを。

2016 第62回 新潟県母親大会  (731日 ユニゾンプラザ)

今年は参議院選挙にぶつけて衆議院選挙が行われるだろうという事で日本中が大騒ぎ。母親大会もその余波を受けて様変わり、分科会なしの全体会・記念講演という内容になりました。例年通り準備するべきだと思ったけれどいたしかないのかな。

 講師は福島市在住の後藤宣代さん。講演を聞いていて、至らない私が知らなかっただけでなかなかの人なんだなぁとすぐにわかりましたが、自己紹介を兼ねて名前のいわれの説明で私の好きな山本宣治との縁が話され、もうその時点でやられてしまいましたけどね。

 東日本大震災・福島第1原発事故直後から、日本で言われている以上に福島第1原発が危険な状態だという事が伝えられていたアメリカの友人からすぐ逃げろという連絡が来たそうです。 

以下羅列

・普通20年かかるといわれているがんの転移。それが甲状腺検査の結果161人でガンが見つかり、すでに転移している人まで見つかっていること。 
・原発を推進することで互いに利益を得てきた政治家・企業・研究者からなる“原子力村”では年間許容量の基準値は1m㏜なのに国は年間20m㏜でもいいと言っている。どちらが正しいのかの検証。それとは別に、もし20でもいいとなると、いま県外に避難している人も帰還できることになり、それでも戻らない場合は本人の都合で残っているんだからと支援対象から外してもいいことになってしまう。 
・福島に住みながら「まだ危ない」と声を上げると「どうしてそんなことを言うのか、復興の足を引っ張るのか」と周りから言われてしまう・同調圧力がある。
・事故調査委員会責任者の総括
 「この国は何も学んでいない」畑村洋太郎
 「この国のリーダーは志が低く、逃げて責任をだれもとらない。自然災害ではなく、人災・社会的災害。学習しない社会ニッポン」黒川清
・ソビエト社会主義の瓦解によって、それに対抗するための資本主義・福祉国家政策が必要なくなり新自由主義の弊害があらゆる面に表れてきた。 それに対しての新しい行動原理が誕生してきた。(多様な人たちの集合体 多様性を認め合う。一点共闘 連絡会方式。2国・多国間協定に対抗して、政府・企業のほかに市民社会という三者方式の誕生と定着。99%と1%の戦いの発生。オキュパイ運動の誕生と広まり。)
・雑誌TIMEが気づいた3つの共通点。
 世の中の不条理・不公正に憤る個人から始まる
 この声をきけ 真の民主主義(参加 決定)を今すぐ
 ピラミッド 垂直型の堅い上下組織ではなく、対等 水平で緩やかなつながり
・福島の女性の政治参画は全国最下位(2001年)それが2011年の原発事故後若い母親たちが「子供を守れ」の声を上げだした。 声を上げる文化 生活の始まり。
 巻町の住民投票運動の時と同じ流れ!!

 そして、今年10月にある新潟県知事選に触れて「新潟の皆さんにはいろんな考えがあるでしょうけれど、福島の人間にとっては大勢の避難者を受け入れてもらっているし、原発・原発事故に対する発言では泉田知事を評価している…」の話が出されそういう見方もあるのか~と気づかされました。(水俣病問題でもそう)確かに、国や東京電力に物申す姿勢は見られます。 (その後8月の末になって、真意のほどは今一つわからない、どうももやもやしたものが残る感じだが選挙には出ないとの意向が公になった)

 201662回新潟県母親大会 確かに例年とは取り組み方が違ったけれど いい話が聞けました。

2016年9月20日火曜日

F3 16-4-17  ココナッツジュース


ようはヤシの実・果汁ということになるわけですが、一度飲んでみたかったんですココナッツジュース。 どんなに冷たく甘く香りもよくおいしいのかとずっとイメージしていました。頭のところをほんの少しカットしてそこへ直接ストローを差し込みチュウチューと吸ってみたかったんです。

それをここシェルマーケットで見つけました。 一目見た印象は、ずいぶん青い。表面はツルツルで青々しています。頭のところをほんのちょっとではなく、皮をはぐように刈り上げ・カットされています。カットされたところはちょうど赤ナシの実の表面みたいな感じで少し粒粒が目立つざらざらしています。イメージでは繊維をかぶってもっと茶色いものをイメージしていたのでずいぶん違います。値段は一つ50pとのこと。ほかに飲む人はと声をかけてみたけれど、特段飲みたいものでもなかったのか反応なし。結局Jさんがお付き合いしてくれて二人が(一人一個ずつ)飲むことにしました。

感想は、甘いことは甘いんだけどずいぶん薄いという第一印象。もっと濃厚な甘さを想像していたのでずいぶん水っぽいそして青臭い印象。直射日光の当たるところに山と積み上げられていたからぬるくなってるし。 でもこれは日本のようにどこでも自動販売機でよく冷えた冷たいジュースが手に入る環境はないし、もし冷たいジュースを買おうと思ったらお金も余分にかかるということを考えると必要十分なのかもしれません。のどの渇きは十分うるおせますし。



丸々一つのココナッツはズシリと重く、その重さは両手でなければ持てないほどです。大きい。 皮と果汁の蓄えられている白い果肉に囲まれたところとの間はずいぶん分厚く、この白い果肉からココナッツオイルを搾り取るのでしょうが捨てるところのほうが多い印象。まさか食べませんよね。



私のイメージしていたものは、旅行会社の宣伝からくるものだったのかもしれません。だからそんなパンフにある観光地に行けばそのイメージ通りのものがあるのかもしれませんが日常にはこんなものなのかもしれません。

現場・現場の職員にもっと裁量権と予算を


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テレビのニュースで新しい委員会の立ち上げにあたって大きな看板を掛けるところが流されました。

また新しく諮問委員会の立ち上げですよ。つくづく安倍さんは「立ち上げます」が好きだなぁと思います。もうすでに首相職をいったい何年やってきたというのでしょう。それなのにいまころになって! これからやっと取り組むの?! 子育 経済 教育 自殺 女性 雇用等々 そのどれもがここにきて急に問題になった事柄ではないのに初めて今から!と思います。

 もともと公式な機関ではなく自分に都合のいい答申を出してくれるだろうメンバーを選任して作られる諮問委員会。 高度な専門知識を持った“有識者” 専門家 いろんな言い方があるだろうけれど結局は安倍さんの意向に沿った人が集められその意向にお墨付きを与えることになるだけなのに。(別の委員会で菊池桃子さんの正論が話題になったのはだからこそ)
 広く人の意見を聴くというのはいいこと、安倍さんにはお仲間以外の人以外の意見をそれこそ広く聴いてもらいたいとさえ思っています。

委員の人たちだってすべての人がダメなんてことは言わないけれど、功成り名をなした有識者と言われる人たちは今となると現場を離れ社会問題となっている生活実態とかけ離れた生活をしている人が多いんでしょうから、いま何が問題なのか何が必要とされているのかほんとにわからないんじゃないでしょうか。 


待ったなしの問題解決のためには、ここまで深刻になってしまってからやっと委員会を立ち上げますなんて嬉々として演説するんじゃなくて、課題によっては毎日問題に直面している現場・現場の職員にもっと裁量権と予算を回せばよっぽど早く問題の解決がはかられる思います。

2016年9月15日木曜日

F2 16-3-9 すごく大きな旗






地図にR1と記載のあるレイディアルロード1・ロハス通りを走っていたときはるか遠方になんとも巨大な旗がとてもゆったり波打っているのが見えました。大きさも大きいけれど、あれだけ大きいと重さも相当なものなんだろうなぁといらぬ心配をしてしまいました。

「すごく大きな旗があるけどあれは何?」と聞いたけど進行方向の逆、後ろのほうだったし道が少しカーブでもしていたのかすぐ見えなくなって、「どれどれ!」と案内してくれた人が振り向いたときはもう視界から消えていて結局わからないまま。 あれだけ大きな旗だから何かあるなと少しもやもやした思いが残ってしまいました。



今回は限られた日程で手続きのためあっちもこっちもいかなければならなくて大忙しでした。 それでも夕方一段落すると、せっかくここまで来たんだから私も少しは旅行案内に載っているような観光名所に行っておきたいと、車を出してくれた人には疲れているところに重ねて悪いなぁと思いながらも何カ所か希望の名前を挙げてみました。

Jさんも生まれ故郷とマニラ以外は行ったことがないというし(それでいきなり日本!)、「新婚旅行みたいだね」なんて話しながら連れて行ってもらいました。



そんな感じで回ったところにあったんですよ!あのすごく大きな旗が。リサールパーク・リサール記念碑に掲揚してあったフィリピン国旗でした。

リサール・パークに集う人たちを目にして、愛着もそうだけれど独立を勝ち取るために払った犠牲 ホセ・リサール フィリピン国旗,フィリピンの人たちはほんとに誇りに思っているんだなぁと感じ入りました。

 ちなみにリサール記念碑前にはキロメーターの0地点もありました。基準なんですね。

O2 14-11-8 この日は歯が見つかりました アブチラガマ


南城市の糸数アブチラガマは2度目でした。

避難壕として病院(!)として使われたアブチラガマ。出口 入口、十分な照明のない内部、この真っ暗な中でどのようにしていたのか。 耳に届く説明以上の非常な状態だったと感じます。



戦後遺骨の収集が行われたとのことですが、いまだに個人の遺物や骨が出てくるそうです。このときは歯が見つかりました。

チャフラフスカさんが亡くなりました


チャフラフスカさんが亡くなりました。2016830

小柄なまだ小さい選手が難易度を争う今の体操競技のスタイルとは違う体操スタイルで魅了 一世を風靡した体操選手でした。ですが私にとってはそれ以上にプラハの春と呼ばれた歴史的運動にかかわりその後もその意志を貫いたということですごく印象に強い人です。

決してすべてにおいて“強靭”な人ではなかったということも一層親密感を抱かせます。だとしても私の抱える困難さとは比ぶべくもない状況でも最後まで自分の生き方を貫き通した人生・人であったのは間違いのないことですが。


冷戦時代の鉄のカーテンの向こうチェコスロバキアでの出来事ということもあり、いまこの時に大変なことが起こっているのがわかっていながらも手が出せないという状態の中オリンピックという舞台で難易度を競う以上のことをなした人でした。その姿に世界中がただファンになっただけではなくチェコで起こっていることに目を向け味方になりました。



ソ連の選手と競い合うときは(選手一人一人が悪いわけではなくとも)みんながチェコスロバキアの味方になったと思います。その後の冬季オリンピックのアイスホッケーでチェコスロバキアとソ連が戦った時は会場も世界中もみんながチェコスロバキアを応援してすごいものがありました。



ペンは武器よりも強し と言いますがスポーツも(音楽も)個人にとって素晴らしい可能性があるだけでなく様々な可能性・力を持っていると感じさせられる一つの出来事でした。



ご冥福を祈ります。

2016年9月14日水曜日

ドナルド・キーン さんの言葉

















                        伝えるべきことを伝えているメディアを高く評価すべきである



                    ドナルド・キーン

2016年9月13日火曜日

O2 14-11-8  せなか と おなか の戦い


辺野古はもとより高江もひどいことになっています。何度も何度も言うけれど日本の政府のはずなのに日本のために日本国民のために仕事してませんね。生活苦 低予算の教育、実感でも統計や各種調査でも大変なことになっているのと同様に、これはもう意図的に見ない知ろうとしていないとしか判断できません。 マスコミも一段とおかしなことになっています。全国紙 テレビ キー局はほんとに扱い方もおかしなことになっています。“公共放送”という言葉が泣くよ!と思うNHKを筆頭に中立(中庸ではない 右が伸びれば真ん中も右に動く)と言いながらすごく意図的な報道姿勢。これだけ意図的に操作(取り上げない)されてしまうと、意識している私でもこれくらいなんだからみんなはどれほど知っているのだろうかという言う思いになります。 このことは直接には沖縄の辺野古 高江で起こっていることですけれど日本の主権の問題 民主主義の問題としてもとても大きな問題が問はれていると思います。安倍政権とマスコミの姿勢は大きな問題です。



ところで2度目の沖縄の時同行していろいろ説明してくれた人からこんな話を聴きました。それは おなかとせなかの戦い というものです。

今沖縄県の行政責任者として県民とともに奮闘している翁長県知事。そのお父さんと沖縄の近代、特に戦後沖縄の人物の中でその名を上げずにいられない瀬長亀次郎さんが選挙で争ったとき、昔は漢字の読めない人が多かったので選挙の時何とか名前を読んでもらおう書いてもらおうという事で漢字をカタカナやひらがなにしたんだそうです。簡略化はもっと進んで濁点を取るところまで行ったんだそうです。それで 瀬長せながせなか 翁長おながおなか となって、せなかとおなかの戦い といったそうなんです。

 今となれば面白い逸話ともいえるけど、当時はそんなこともあったのかと歴史を感じます。

嫌なことはしない生活


2年ほど前 「これからは嫌なことはしない」生活を送ろうという思いに至りました。好きなこと(だけ)をする というのが身体にも精神(心)にも一番いいことだと思い込んでいたので私にとってはコペルニクス的転回だったかな。 実は似て非なるものなんですよ。

良くも悪くもそれまでのしがらみから離れ個人的にも自由な身だったので、生活していけるのではないかな と思って。その後縁あって働くようになったところ、年収では約1/4月収では1/3だったけれど毎日様々なことができるしこれまでの経験が生かせると実感できる職場でした。

それが、どうも“標的”なってしまったようでこのところずっと辛い。ここの責任者の私に対する対応を見ていて他の職員も ここではこういうことを言ったりやったりしてもいいんだ この程度まではいいんだな というところを判断したなと思えるのです。もともと、考えてしまってぱっと言い返すのは得意でないうえに感情的に言い返してしまったらただの喧嘩になってしまうという頭もあって言い返さないでいるから この人は言っても大丈夫な人 と思われてしまったのだろうという感もあります。 という毎日になってしまったので職場に行くのが辛いつまり今 嫌なことをしている という事に気づいてしまったのです。 仕事の大変さは自分の精進で対応できるけど、職場のこのことは対応しきれないことなので辛い。いつも見られている、そして突然何か言われる、それが毎日毎日。辛い。

何人かに打ち明けてみたら気づいていてくれた人もいました。それはパワハラですよねとびっくりする人もいました。 一方的に言われる(狙われる)人は私だけではないこともわかりました。「ふつうはそんなになると辞めちゃうのよ、そして今度は次の人が狙われるのよ」なんてことを言う人もいました。

今、2年前 嫌なことはしない を実践と思った時と比べるとこの春からだいぶ事情が違ってしまいました。そのことは十分わかっているのだけれどどうにかできないものかと考えるようになっています。



昔のことを思い出しました。

西日本でその事件が起こったので知識としては知っていたけれど実感のなかった森永ヒ素ミルク事件、進学先でその人たちと知り合いになったのです。その中の一人がよく、彼女のできた仲間に「こんなに早くから縛られる生活になるのか」というようなことを言っていました。

家庭・家族が与えられたことを感謝とともに喜んでいるけれど、そのためには嫌なことでも我慢しなければならないのかほかに選択肢はないのかと思い悩んでいます。道をお示しください。

2016年9月7日水曜日

F2 16‐3‐8  大統領選余波


 
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今年

6月フィリピンでは任期満了によりアキノ大統領からドゥテルテ大統領に代わりました。

私はそれに先立つ3月と4月に実際にフィリピンを訪れましたが、日本では電柱や壁掲示板に張り出してあるポスターをトライシクルの乗車席カバー・日よけ用の屋根(バスでもあったようだった)以外に見かけなかったし宣伝カーも見かけませんでした。日常の騒がしさはあっても選挙だからという騒がしさは感じませんでした。それでも運動はしていて、お店に入って食べていたら運動員が入ってきてパンフを渡し話しかけ腕輪を置いていきました。その間お店の人は制止するでもなく静観。そんなものなのでしょうか。ほんの道端の広まったところに人が集まっていて何かと聞いたらこれから候補者が来るというところに遭遇もしました。
事実上3人で争われた大統領選挙、フィリピン滞在中に現地でお世話になった人に聞いてみましたら、ドゥテルテさんが一番人気があるということでした。そして結果は前ダバオ市長で治安面で大変成果を上げたというドゥテルテさんが大統領に当選したというわけです。ただし、成果を上げたという治安面での強権的な 法律を無視して進めるやり方には批判もあり私も同様に思っていました。
ドゥテルテさんは就任後、公約であった麻薬対策に着手し、これを成果と言っていいものかという気もしますが密売人たち70万人が自首とか警察の取り締まりの過程で1,900が殺害されているということが明らかになり現在内外問わず大きな問題になっています。
で、こういうやり方はまずいと思っていたら、少し前に知り合いになった人が「私は支持していなかったけれど、レイプだ強盗だとすごく危なかったのが随分変わってきた。これはドゥテルテのおかげだ。少し見直した。」というのです。
私もあちこち行ってきたけれど、たいがいは場所とか時間を考えれば意外といけたのが、フィリピンに行ったときは時間も場所も関係なしでいつやられるかわからないような怖さを感じました。だからこの人の言うこともわかります。でもこの話で、支持していなかった 好きじゃなかった人の気持ちを変えさせるほどに治安・安全の問題は大きいんだなぁと再認識しました。


余波。
この間様々な手続きをしています。手間暇をかけるということは日本よりいいことかもしれないという手続きもありますが、基本的に窓口は一か所では済まないことが多いしどの窓口も非常に混んでいて大変。そして終了までがとても待たされるのです。たとえばパスポートの切り替えが3か月、免許証の発行が約半年というように。それ以前もどうだったのかと思う節もありますが、なんでこんなに時間がかかるのかと聞いたらこのたびは大統領が変わったから全部変わるんでなおさら時間がかかるという説明でした。
もちろん日本でも法律自体変わるレベルのことから書式が変わるくらいのことまで含めて変わることはあります。でも全部なんて、ここまで変わることなんてことは聞いたことがありません。お国柄というのかもしれませんが、完全に余波を受けてしまいました。

2016年9月1日木曜日

O1 12-6-2 沖縄の伝統的民家 自分の文化


初めて沖縄に行ったとき、美ら海水族館もその一部になる海洋博公園内のおきなわ郷土村に保存されていた沖縄の伝統的な民家でお茶をごちそうになりました。
外に面して全面解放された部屋、懐深い軒そして土間。土間から出入りするので足りていると言われればそれはそうなんだけれど、どうも普通に言うところの玄関にあたるものに気が付きません。
ここには管理やお客様の接待をする人たちなのでしょうか、34人ほどの女性がいてお茶を出してくれました、お茶請けの黒糖とともに。喉も乾いていたし疲れてもいたのでしょう、お茶はおいしくお行儀が悪かったと思いますが出された黒糖も全部口にしてしまいました。
雨模様という天候のせいもあったのでしょうか美ら海水族館のような賑わいはここにはなく、それでだったのか誰に聴かせるという感じでもありませんでしたけれど三線を弾き歌いだしました。穏やかないい雰囲気でほんとにくつろぎ、流れる時間が変わりました。

2度目になる今回の沖縄行きで沖縄の伝統的民家にはそもそも玄関がないという事を知り、それをきっかけにアフリカケニアのキベラスラムのマゴソスクールを知ってもらう講演会のことを思いだしました。演者がキベラスラムの知人の家を訪ねたとき、門はあるけれど周りを囲む塀がまだ完成していない状態だったので入りやすいところから入ったら「門から入ってくれ」と言われて入り直したという話。
 
閑話休題 

 今回知った沖縄の伝統的住宅・民家を映した写真に玄関が写っていないのは撮り方かなぁとばかり思っていました。けれど、そもそも玄関がなかった、玄関という発想がなかったんだとは。私にはそれがどういうところからか思いもよりませんし日常も想像できません、沖縄以外でも農村部などでの家々の縁でくつろぐというようなことはあります(町場の長屋などでは縁側ではなく縁台になる)、でも縁側から上がったりするとお行儀が悪いちゃんと玄関から入りなさいと言われてしまいます。それが沖縄ではそういう生活がおかしくない、そもそも玄関がないんですから。これが土地と土地の歴史に結び付いた“文化・風習”という事か、文化を持っているということかと思いました。
 そしてキベラスラムでの逸話は人の尊厳という事を。