2013年2月14日木曜日

みんなが受け入れられるものが見いだせない場合 において 人が間違いを起こさないための一つの選択肢


彼ら(選手 生徒)は“罰”を受けなければならないようなことをしたんだろうか。

監督・コーチ・先生と呼ばれる人たちは 人に罰を与えることのできる人たちなんだろうか。

 

今でも思い起こすと 見っともいいもの とは思えないけれど、ロンドンオリンピックで試合に負けた直後のあの柔道選手達の表情・発言。  (ブログに書かせてもらいました)

この度公になった柔道界での“体罰”のことを考え合わせると実はそういうわけがあったのか。 見苦しいと評したことが少し悪かったなぁ、と思えてくる。

 

それにつけても出るは出るは、“体罰”と言う名の下での暴行事件が。

普通の感覚で言えば当然警察沙汰ですよ。

先生から体罰と言う名の暴行を受けて自殺した生徒のこと、事の深刻さを一層明確にした柔道選手の告発…

一般の社会・地域では通用しない行為が平然とまかり通る隔絶された学校や道場・練習場の中。

私がやっていたことは「愛のむち」「良かれと思って」「暴力とは思わなかった 体罰だと思っていた」と。

 

どこが違うの。暴力とどこで線引きされるの。

 

された相手がどう思っているか。 実際 暴行は暴行としか取れない。

であれば 一切を認めない というのが一番間違いのないことなんではないだろうか。

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