2015年5月31日日曜日

10-9-15 ユガンスン生家にて


午前に新潟を発ち独立記念館を見て今ユガンスン生家に到着しました。独立記念館は韓国の人たちにとってはとても大切な所だから間違えようもないところだけれどユガンスン生家は観光コースからは完全に外れたところのようです。運転手さんが道を勘違いして、生家によってから柳寛順烈士記念祠堂に行く予定が逆になってしまったほどです。ガイドの李さんいわく「普通の観光客コースではここには来ない。私ももっと早くわかっていれば事前に一度来て下調べをしておいたのですが…」との由。

先ほどの柳寛順烈士記念祠堂は独立記念館の印象が抜け切れないままに過ぎてやってきたユガンスン生家は、秋口の夕暮れの時間になってしまったせいなのかもしれませんが駐車場に車はなく人気がありません。隣接する教会そして集落にも人気がありません。このソウルの大学に進学するきっかけとなった教会。建物自体は当時のものではないと思いますが、ユガンスンの家とこの近さで建っているということを実感しただけでも現地に来たかいがあったというものです

生家は、きれいに整備されているとはいってもこじんまりとした建物。広大な敷地に建てられた独立記念館との差異に正直な所ちょっとほっとして家の作り日常の生活用品などを韓国の生活文化として眺めることができました。

 そんな風にしていて改めて感じたのが“こんな地方のそのまた小さな集落、教育者とは言え特別な政治活動家でもなかった父親母親という環境から韓国のジャンヌダルクとも評され教科書にも乗るほどの人が生まれたの?” でも考えてみればこれは至極当然のことだとも思いました。どこに生まれどのように育ったから後世に残るすごいことをするという決まりごとはない。その人の出自に関係なく事を成す人は生まれえると。物事はそんなに簡単ではありませんから、もちろんどんな人でも同じことができるとまでは言いません、ユガンスンだったからというのも紛れもないことでしょうけれど、時代が彼女を押し出したということもあるのかなぁと思いました。

2015年5月28日木曜日

自分が望んだわけでもないのに運命に押しやられる時が人生には幾度か


教会 青年たちの「沖縄・辺野古 高江ヘリパット反対行動支援」の報告集が送られてきました。これまでも自分たちのできることでかかわりを持ってきた青年たちが、昨年沖縄の教会員の方の訪問を受けたのを契機に実際に沖縄に出かけたのです。報告集を見るとこれまで私が知っていた人たちとはまた違う名前がたくさん出てきて運動の広がりを感じています。

ただその報告の中に直接だったり行間を読むとという感じだったりですが、“政治的”という言葉が妙に響いている感じがしました。幅広い人たちがかかわっていますから、一見して明らかに自分とは違うと感じさせられる人もいます。だから「人殺しに直結する新しい基地建設には反対です」と言いながら、「でも私はあの人とは違いますよ」と言っているように聞こえてしまうのです。周りから見れば、もうすでに十分一緒なのに。でも私も含めてそのように言ってしまうのはあるし、気持ちはよくわかります。
けれど、この度のようにわざわざ沖縄まで自分の方から改めて出かけて行かなくてもすでに私たちの生活は政治の中にあるんです。「政治的な事にはかかわりたくない」「あの人たちとは別だ」と思っていても言ってみてもすでに政治なんです。

もちろんその人事に得手不得手もあるし、みんなが同じようにできるわけでも すればいいわけでもありません。先頭に立つ人も必要なら、その後ろからついていく(支える)人もいなければ困るんですから。 

今回の青年たちの行動は、これまでのお話を聴くという形、そして実際に現地まで出かけていくというふうにかかわり方が多様になって来ています。そして ちょっと隣までというようなところではなくわざわざ沖縄まで出かけ、帰って来てからの報告の集まり報告集の発行ということで十分と思います。いろんな形があるし、無理なくできることを続けていけばいいんですよ。

ひとはどこに住んでいようと、何を生業にしていようと、自分には関わり合いのないことと思って日々暮らしていてもすでに政治の中にいる。日々の生活、生業は全く影響されていないと思い そう主張したとしても、日々の暮らし将来の生活設計は至極国の政治動向に左右されています。それが予期しないきっかけではっきりしてしまうことがあります。それがこのたびの青年たちには基地建設のことだったり、東日本大震災・福島第1原発事故をきっかけにしての社会問題だと思います。沖縄まではまだしも、原発はいやおうなしにこちらに来たのですから。自分が望んだわけではなくともという時が人生には幾度かあると思っています。

2015年5月27日水曜日

新しい新潟市水族館に行ってみて


建て替えられてからすでに3年ほどたつ3代目新潟市水族館に先日初めて行ってきました。一帯の規模、施設そのもの、賑わい、展示の仕方・そのスケールは「悪くはないんだけれどもう少し○○ならなぁ」という感じ。と言っても、比較する基準が3年ほど前に行った全国有数の沖縄・美ら海水族館というのが無謀なのかもしれませんが。

新しくなった3代目の入館料は(2代目水族館と同じ場所に約1年の休業を経て建て替えられた時から)大人1,800円。対して、少し離れたところにあった初代は入館料が100円でした。初代は今思うと信じられないくらいの低料金だったわけです。その上、駐車場(台数)も無料で(注 現在も駐車場は無料)若いお母さんが幼い子供と日常たびたび通っても財布にやさしい施設でした。対して現行の水族館は、もちろん連休などになると交通規制が行われるほどに多くの人が訪れる施設ですが、家族そろってとなると結構な金額になってしまいます。そう思うと、新しい方は特別な時 デートで行ったりとイベント的な感じかな。

初代、最後の方は確かに施設が古かったし生臭い臭いもしていたし展示もわざと照明を暗めにしているところ以外でも暗い感じでした。それでも長年飼育されて大きくなったウミガメやペンギン、ヒトデや貝類とのふれあい展示などもあり、あれはあれでいい施設だったと今でも思っています。

今のイルカショーまで見られる水族館ももちろん好いと思うけれど、そんなイベント的な水族館でなくとも低料金でしょっちゅう行くことができるものもあり続けてくれていたらよかったのにと改めて思いました。

2015年5月22日金曜日

ファッションレボリューションデー

 
2013424日のバングラディッシュ近郊ラナプラザビル崩落事故によって、多くの女性がフェアではない賃金 劣悪な労働条件のもとに有名ファッションメーカーの製品を作っていたことが公になり、それを契機に行われるようになった ファッションレボリューションデー 、今年も424日に行われました。
この取り組みは主催団体の一つのピープルツリーのウェッブサイトなどを見てみますと、1100人以上が亡くなり2500人が負傷したと言われている大事故(危険を指摘されていたとの事なので事件というべきか)後始まり現在では50か国を超える国々で取組が行われるほど広まっているそうです。
 その集まりの模様を伝える記事の中にあった私をびっくりさせた発言、そして書き留めておきたい発言を記します。

 「~日本では“安く早く大量に売る”外資系ファストファッションの店舗数がこの10年で倍になった。日本人の着ている45%が安物衣料という状況。~」 中村善春(織研新聞事業局長代行)  “安物衣料” という言葉。そしてそれがいつの間にか全日本人の着ている衣類のうちの45%がすでにその安物衣料に分類されるものに置き換わっているという発言にはびっくりしました。 これでいいのか! 日本の(世界の)伝統的な衣服・文化はどうなるのだ!? それで本当に幸せな気持ちになれるのか?
 高い安い  その服を着て幸せな気持ちになる。わざわざ労力をかけ高いお金おはらってでも気に入ったもの良い物を手に入れる。あえて古着を選ぶ。(物々)交換ということもあるので、幸せな気持ちになるかどうかは、ただその服を手に入れる時の金額の高低だけではないように思います。金額が高くても「いいものを手に入れた」と感じ、決して高いとは感じない費用対効果が高いというケースもあるので
 ファストファッション 今の時代・時代の流れの中で生まれてきたと考えればこれも“文化” 伝統的な(衣料)文化に対してのカウンターカルチャーと言えばそうかもしれません。食でもそうですし、社会がファスト○○早く早くと急かされているようになったのは事実です。けれどこの事故でも明らかになったような先進諸国と言われる国の大企業と発展途上国そしてそこでの低賃金と劣悪な労働条件という関係によってのみ成り立つようなことが許されて良い訳がありません。
翌年にはもう着られない(デザインも強度も)使い捨て。そのための過酷な生産現場、そして低賃金を求めての発展途上国へ津波のように押し寄せて引いていく。その国の産業育成にも発展にも結び付かず、その国の人たちへの不公平・不公正な対応。このような行為が何の問題を持たないなんてことはあり得ません。 たとへ事故というような悲劇が起こらなくとも、人の犠牲の上に立つ自分の喜びは幸福などとは言えないことなのですから。


 他いくつかの発言を
「どんなふうに作られたかわからないものは買いたくない」イギリスやドイツにおける2040代女性の8割がエシカル(倫理的な)かどうかを購入時に意識している。
「量と価格から心へ。着たときにだれが幸せになるかというところに代わってきている。」「利益を上げることが最優先の産業構造を変える時。」「経済効果だけが望まれがちな社会で大事なものを見失ってはいけない。」
生駒芳子(ファッションジャーナリスト)
 
「私たちが着る服が作られている環境や現実を知ることが必要です。」
                        末吉里香(フェアトレードコンシェルジュ)

「大量に安く作ることではなく、雇用を守り、家族との幸せを感じるつくり方とはどんなものなのか、考えることが必要。」
 中村善春(織研新聞事業局長代行)

2015年5月19日火曜日

「2015年」WWⅡから70年 3/3

 今年はWWⅡから○十年ということではいろんな節目の年にあたるようです。その一つに、ベトナム戦争終結から40年というのもありました。

それもあって、久しぶりに時の南ベトナム臨時革命政府外相としてパリでの和平交渉に  臨むアオザイ姿もあでやかなグエン・ティ・ビンさんの写真を目にしました。

脂ぎった肥満体の男たちと小柄できゃしゃなグエン・ティ・ビンさんというイメージで、判官びいきの日本人というのを差し引いても声援を送ったものです。そう思わせるだけでも外交上の駆け引きでは勝っていたといえるんでしょうね。“アリと巨像の戦争”とも言われたベトナム戦争。自主独立とか民族自決とかの言葉を初めて耳にしたのもこのころのことでした。

 

日本では昔から“言霊”と言ってとても大切にしてきた言葉と行動、行為の崇高さ。改めて安倍首相の数々の発言は軽いなぁ 中身がないなぁと感じます。

中身のない言葉はうんざりするほど聞かされているけれど東京オリンピック誘致の時の“アンダーコントロール”もその典型。実際はどうかに関係なく、すでにできているかのように口にする。口に出すと、すでにやったかのように出来ているかのように思えてしまうんでしょうね。いや逆か?!そうしか思えなくて簡単に口にしてしまうのでしょうか。願望が安倍首相の中では結果になっているんでしょうね。

やってくれ(やめてくれ)ということをほっておいて、自分のやりたいことだけをやっている。 みんなの意見・気持ちに耳を傾け聴くことなく、自分の立場での発言がどのようにとられるかどのような結果を呼び起こすかをなんら顧みず発言しています。

積極的平和主義だとか、この度の安保法制。“平和”という言葉を並べて言っているのがすごくおこがましい。戦争が起こらないように外交努力をすることなく、戦争(軍備)に備える。その前にやるべきことがあるでしょ!と思うけど着々とですよね。

福島第1原発事故後の原子力発電への対応でも問題を感じています。

問題の深刻さ重要性をいち早く察知して、決して革新でも環境派でもないメルケル首相は全原発の廃止という大転換を選択しました。 これが国・未来に責任を持つ人・対応だと思いました。決断のできる人だと思いました。

ビキニ水爆実験の後の平和・放射能の危険のない生活を希求する人々に対して、“原子力の平和利用” という言葉を弄した至極政治的な対応。いまだに経済的に(その計算のしかた自体に問題有り)原発は必要だと言ってはばからない事故当事国の選択は、本当にその国のため国民のために国のかじ取りをする人・責任者かという、政治家として人としての違いを感じました

「2015年」WWⅡから70年 2/3

 
  2015年はWWⅡから70年ということで世界中でそれに起因する催しが行われています。そんな中年明け早々「荒れ野の40年」という名演説を行ったリヒャルト・フォン・ブァイツゼッカー元ドイツ大統領が亡くなったのには改めて人知を超えた神の意志を感じてしまいます。ご冥福を祈ります。


 

話し戻って。先日ロシアで行われた対独戦勝記念式典はウクライナ問題がありドイツを含めて欧米の多くの国々が出席しませんでした。けれどそこが“さすがドイツ”と感じさせてくれたのが、その記念式典とは明確に別の位置づけで対独戦で亡くなった多くの無名戦士の墓にドイツのメルケル首相が訪問、献花をしたということです。

ある意味旧ソ連・ロシアが対資本主義諸国・対外的に力を誇示しようとする式典には参加しないけれど、ナチスドイツが行ったことは認め責任を取り続けるんだ、誤りを繰り返さないという国そして国を代表する首相の決意の表れということですね。そんな対応のできる首相・国だからか、戦後補償への対応も日本と違います。

法律上 外交上一区切りがつくということは条約・法律の上では存在していることだけれど、その後新たな事実が明らかになった時の日独の対応違っています。「もう決着をみた事柄だ」と言い切って顧みない日本、新たに明らかになった事柄に対して「法律上は一つの決着をみたけれど道義上の責任を認め、法律をある意味超えたところで公的機関も含めて対応。」しているドイツ。日本の従軍慰安婦=セクシャルスレィブ他の諸問題、取り返しのつかない被害をこうむった人たちに対する対応を顧みるとほんと違いを感じます。

 特に安倍首相が登場してからの矢継ぎ早の危険な動き。民主主義国・立憲君主国とも思えない民意を聴かない進め方。いったいどこの国(国民)の政府・代表なのかと思う数々。制度としての国の姿勢 形、そして制度・法律では対応しきれない事に対しての対処の仕方。人間としてどうふるまえるか未来を預かる政治家として国の内からも外からもどう評価されているか、政治家としての違いを強く認識しました。

「2015年」WWⅡから70年 1/3


 「戦後70年の中で最もふさわしくない人・・・」これは先日アメリカ合衆国を国賓として訪問、上院あるいは下院議員の前でというのはこれまでにもあったけれど上下両院議員が一堂にそろったところでは初めてという“日本の代表”安倍首相の演説後、当のアメリカ合衆国で出された論評の中の一文です。

 中国・韓国はもちろん世界中の国々から、戦後70年の政府談話・安倍首相の発言が注目されている中わざわざアメリカまで出かけて行って何を話すだろうと注目を集めていた演説でした。満面の笑、絶頂、嬉しかったんでしょうねぇ。でも中身がなかったというかうまくかわしたというか、取り方で変わってしまうような微妙な言い回し単語で結局はっきりしたことは言いませんでした。印象に残ったのは、ほんとに受けてるのかどうかわからないジョークの場面。テレビ映像ではこちらの方としっかり握られた英語の あんちょこ ばかり何度も流されていました。

 ところで。事前の準備で苦労している場面が取り上げられるくらい無理をしてまで英語でスピーチしなければならなかったの?と思ってしまいます。今のご時世ですからできないよりはできた方が好いでしょうけど、今よりはるかに困難な状況下で時の吉田首相は(白洲次郎の注進を受け入れて)英語で準備していた演説をあえて巻紙に書き起こし演説したという逸話を知っているので。国を代表する“首相”として国の内外に発する姿勢、印象としてこのような選択も時にはありですからね。

2015年5月16日土曜日

職場・仕事がストレス(オーバーストレス状態)を生み出すとき。 それが結局…


 

 私よりも若く、ずいぶん前に(自己都合)退職した人がいます。 縁あってその後も時々会っているその彼がある時こんなことを言っていました。 「思い切ってやめてよかった。あれではだめだと思う。やめてわかったことがたくさんあった。」と。

 ヘッドハンティングされたわけでも特別な技能を持ち合わせてもいなかった自己都合退職者が新たな仕事・職場を見つけるというのは決して楽なことではなかったと思います。実際その時に聞いた仕事そして待遇を聞くと、前の方がよかっただろうにとすぐ分かりました。けれどその待遇の違い(ダウン)を超えて彼を明るくすっきりさせていたのは何だったのだろう、ずっとずっと気になっていました。

 その時彼が口にしたことの具体的な事は聞きそびれたけれど、最近自分なりにこういうことかなぁと感じたことがあったので一つ。

 休日出勤するということについて

私は前の職場で(配属先は別だったけれど彼と同じ医療法人)私も嫌だし他の人もいやだろうと思って極力土日には催しを入れないようにしていました。 「それも含めての仕事だよ給料だよ」と言われればそうなのかもしれないけれど、どんなに夜遅くなろうと土曜日曜休日に出勤しても出て当然、どこかに代わりの休みがということはありませんでした。休みの日にわざわざ出勤しても、だからと言ってねぎらいの言葉などは何にもありませんでした(でも出ないと言われる)。

じゃあ前の職場のそれは仕事じゃなかったのかと言うと、同じことを平日の勤務時間にしても問題にならないので“仕事”だったんだと思います。そう考えてくるとなんだかわけのわからないおかしな話。そう感じながらだったから積もり積もってストレスを増していました。 やはり仕事、仕事をしたんならちゃんと評価をしてもらいたかったということだったんでしょうね。  

 それが不思議なもので今の所・変則勤務になってから土曜日曜の出勤も苦にならなくなったんです。仕事自体はどちらが楽かと比較できるものではありません。今の所・職場はシフト制による変則勤務だからそもそも“休日出勤”という発想・言葉がないのかもしれません。でも日曜に出れば出たでちゃんと別の所で休みがつく。つまりその日はちゃんと仕事をしたと認められ評価されているということなんです。
 ちゃんと評価されてほかに休みがつく。 その点で気(精神的には)は楽、自分の中ですっきりわり切れています。 

 と考えてくると、企業としてよりいいものになるためには有形無形いろいろなものがあるんだと改めて気づきます。

2015年5月14日木曜日

2015年連休 2/2


4
1日 映画「ナイトミュージアム」鑑賞。日本語学習のための辞書ドリル類 筆記用具購入。
なるべく話しかけるようにするも「ありがとうございます」以外は聞こえてこない。「まぁこんなものかな」その過程で、自然な日本語に聞こえるには“ありがと う ”だけど、英語を話す人なんかからすると“ありが と ”と母音まで発音するかどうかが決定的に違うということを説明。
4日 先日の温泉の時の写真プレゼント。 写真を手にして見ている表情がかわいい。
笑顔で喜んでくれました。
25日 映画「シンデレラ アナ雪」鑑賞 
  従兄の子どもの誕生日(21日)のお祝いで、観たいと言っていた実写版シンデレラに併映されていたアナ雪を観に行き、その前後会食。お客様のお箸の使い方が上手なのにはちょっとびっくり。
29日 前々から新潟を一望してもらいたいと思っていたのでトキメッセの展望台に。いろんな情報も入手できるので紹介しておきたかったJICA事務所も紹介。
  展望階の休憩・軽食を取れる所で、お客様には緑茶と笹団子にチャレンジしてもらいました。

5
 1日 市内近場のチューリップが盛りを過ぎた感があったのとドライブもしたかったので胎内のチューリップフェスティバル会場まで足を延ばす。お花に囲まれて記念撮影。
 ビザ延長申請がかなわなかったということで帰国の日時が決まり、帰りにお土産購入。 話を聴いていると、せっかく日本に来てまでそんなお土産で良いのという感じだったけど、チョコ(それも普通の板チョコや大袋の雑菓子みたいなチョコ)そしてカップヌードル(特にその中でもシーフードが絶対一番人気)を購入。
夜は、日中学校行事の角田登山でドライブに行けなかった従兄の子どもの帰りを待ってみんなで回転ずしに。従兄の子どもも喜ぶだろうし、お客様がびっくりしてくれるかと思って、私も久しぶり。お客様のびっくり具合は今一つだったけど、従兄の子どもが流れてくるお寿司のお皿そして注文したお皿が運ばれてくるのを面白がってくれました。従兄も「自分はこういうところに全然連れてこなかったから…」ととても喜んでくれたので少しジーン。 私 相変わらず別れというのに弱いので心中複雑。
5日 お客様に写真プレゼント。この日持って行った庭の大手毬を、お国まで持って行ったとのこと。とにかく喜んでくれてよかった。従兄の奥さんが荷物を規定重量に収めるのにやきもきしていた。
6日 お客様、羽田空港まで乗合タクシーで行き帰国。 

 前々からアメリカの基地を撤去させたということでは関心のあった国ではあったけれど、今回のことで一気にそれが強まりました。先日送られてきた旅行社の企画案内に撤去させた基地跡やスラムでボランティア活動をする現地学生との交流というのがあったので行ってみようかな。

2015年連休 1/2


2015年 間に平日を挟んで前半後半型になった今年の連休。前半は日勤帯、後半は夜勤が入ってしまいました。その仕事、だいぶ慣れてきたとはいえまだまだ新しいことが出てきます。一つ覚え一つ課題を乗り越えるとまた新しい壁が立ちはだかる、そんな感じでしょうか。

 この時期毎年行っていた全国でも珍しい、低地での水芭蕉の群生と柿山の散策、今年は行きませんでした。 実際の所この時期では花の盛りには少し遅いのかなぁということを感じていたのと、さすがに広い柿山も一通り回りきったような感があって、今年は昨年秋に見つけた岩室温泉街のはずれにある山を歩いてみることにしたのです。結果は北国街道沿いの湧水を見つけたり、へぇこんなところにこんなものがという発見をしました。

もう一つ、特筆しておきたいこと。もう何年振りのことになるでしょう人物を中心にした写真をたくさん写したこと。それは従兄の家に2月最初に来日した外国からのお客様に、せっかく来てもらった日本だからいい思いでを持って帰ってもらおうとあちこち出かけ、その最中に写した数々の写真です。

このお客様、昨年末に初めて来日の話を聞いた時、どういう人なのかも知りませんでしたし「着たら一度おいしいものでも食べに行きましょう」と話していました。そして初めて会ったお客様は可愛かったし雰囲気もいい感じ。わかりやすい私! それで、日本文化をほんの少しでも、そしていい思い出を持って帰ってもらいたいと思う気持ちに拍車がかかりあちこち出かけた次第です。でもそれが私にとっても実に久しぶりの だれかと出かける行楽(地)という形になったのです。と言っても、2月は母方の親戚の大おばあさんが99で亡くなり、実際にあったのは3月も後半になってからでしたけど。

ここでは連休のということでは外れてしまうことも含めて、このお客様つながりでまとめておきます。 
 
2
13日 従兄よりお客様が26日に来日したとの連絡「近じか挨拶に行きます」と返事。
20日 母の実家の大おばあさん逝去(18日)。享年99歳のお通夜。(21日お葬式)
3
15日 かのん公演
20日 従兄宅訪問 対面
25日 温泉にて会食。温泉と着物(浴衣 丹前)和食のお膳料理を体験してもらう。
 まだまだ雪の残る山々を背景に記念写真。「寒い寒い」と。他、水原代官所(阿賀野市)阿賀の里 ヤスダヨーグルト・ショップなどを訪れる。話の中でつい数日前に誕生日だったということがわかりサービスに拍車がかかりました。
30日 父入院 (49日退院)ちょうど職場でも肺炎の人が出て非常に危険な状態というのを目の当たりにした後だったのでいっそう心配しました。
 

2015年5月7日木曜日

やっぱり写真には何かある


このところご機嫌な音楽の映画によく出会ってます。今日観てきた「バードマン」。思わず「死刑台のメロディー」が頭に浮かんだドラムのみによる音づくり。パンフを読むと賛否両論あったようだけれど、カメラワークも緊迫感を高めていて いかしていました。 子供に良かれと色々なところに出かけ体験させていたのに、仕事がうまくいかなくなってそんな特別なことができなくなったある時「ずっと一緒にいられて今までで一番良かった」と初めて思いを打ち明けられるシーンにドッキリした「シェフ・CHEF」はしょっぱなからノリノリだったし。 

音楽ではないけど映画つながりで一つ。

写真大好き日本人の今からは想像できないことだけれども、日本に写真が入ってきたころ「写真を撮ると魂を吸い取られる」とか「3人で写すと真ん中の人は早死にする」とか言われたということがあったんです。さすがに今ではそんなことを言う人はいないと思うけれど。 とはいえ私は“写真”には矢張り何かがあるんじゃないかと感じています。そんなことを「やっぱりそうだよね」と意を強くさせてくれたのが「おみおくりの作法」という映画。
だれ一人にも看取られることなく亡くなってしまった人の葬儀を執り行うことを仕事とする男性が業務縮小のために最後に担当することとなった人の人生をたどっていく中で、同じ時に起き同じ道を通り同じものを同じように食べる ただ一つの趣味(?)がかかわった人の写真を自分のアルバムに加えていくこと。そんな繰り返しだけの毎日が初めて変わっていくと思った矢先のあまりにもあっけない事故死。そこで明らかになる、この男性も脇で泣き弔ってくれる人のいない人だったという経緯。映画ラスト、機械的に葬られだれも残る人のいない彼の墓に次々に集まってくる、彼によって弔われた人たち・写真をアルバムに加えてもらった人たち。映画の終わりかたとしてはいくらかでも救われたような形になるのかもしれないけれど、私はそれ以上にゾクッとしました。 

“写真” いまだに小さい時の写真を見ると思いだします、可愛いあの頃のこと。薄いたった一枚の平面の中にたくさん入っているんです。実際の所は平面の印画紙にプリントされた写真の中そのものにすべてがおさめられているわけではなくて、それが記憶を呼び覚ますきっかけということだと思いますけれど。でも確かに一枚の写真でもそんな力があると思うのです。

写真を撮る、そして撮られた写真には何かある と不思議な感覚を覚えます。その写真を撮ったという関係性がその一枚の中に封じ込められる・その時が封じ込められているのだと思うのです。 だからそれを捨ててしまうと、その行為・記録・歴史自体が消去され捨て去られてしまうということかなぁと感じるのです。そういうことで言うとただ一枚の…ということではないんじゃないかと思えて仕方がないんです。 

そんなことを前々から思っていた私なので、先日「おみおくりの作法」を観て、矢張りそうだったと意を強く、やっぱり写真にはそういう力があるんだとお思った次第です。