2015年5月28日木曜日

自分が望んだわけでもないのに運命に押しやられる時が人生には幾度か


教会 青年たちの「沖縄・辺野古 高江ヘリパット反対行動支援」の報告集が送られてきました。これまでも自分たちのできることでかかわりを持ってきた青年たちが、昨年沖縄の教会員の方の訪問を受けたのを契機に実際に沖縄に出かけたのです。報告集を見るとこれまで私が知っていた人たちとはまた違う名前がたくさん出てきて運動の広がりを感じています。

ただその報告の中に直接だったり行間を読むとという感じだったりですが、“政治的”という言葉が妙に響いている感じがしました。幅広い人たちがかかわっていますから、一見して明らかに自分とは違うと感じさせられる人もいます。だから「人殺しに直結する新しい基地建設には反対です」と言いながら、「でも私はあの人とは違いますよ」と言っているように聞こえてしまうのです。周りから見れば、もうすでに十分一緒なのに。でも私も含めてそのように言ってしまうのはあるし、気持ちはよくわかります。
けれど、この度のようにわざわざ沖縄まで自分の方から改めて出かけて行かなくてもすでに私たちの生活は政治の中にあるんです。「政治的な事にはかかわりたくない」「あの人たちとは別だ」と思っていても言ってみてもすでに政治なんです。

もちろんその人事に得手不得手もあるし、みんなが同じようにできるわけでも すればいいわけでもありません。先頭に立つ人も必要なら、その後ろからついていく(支える)人もいなければ困るんですから。 

今回の青年たちの行動は、これまでのお話を聴くという形、そして実際に現地まで出かけていくというふうにかかわり方が多様になって来ています。そして ちょっと隣までというようなところではなくわざわざ沖縄まで出かけ、帰って来てからの報告の集まり報告集の発行ということで十分と思います。いろんな形があるし、無理なくできることを続けていけばいいんですよ。

ひとはどこに住んでいようと、何を生業にしていようと、自分には関わり合いのないことと思って日々暮らしていてもすでに政治の中にいる。日々の生活、生業は全く影響されていないと思い そう主張したとしても、日々の暮らし将来の生活設計は至極国の政治動向に左右されています。それが予期しないきっかけではっきりしてしまうことがあります。それがこのたびの青年たちには基地建設のことだったり、東日本大震災・福島第1原発事故をきっかけにしての社会問題だと思います。沖縄まではまだしも、原発はいやおうなしにこちらに来たのですから。自分が望んだわけではなくともという時が人生には幾度かあると思っています。

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