2015年5月7日木曜日

やっぱり写真には何かある


このところご機嫌な音楽の映画によく出会ってます。今日観てきた「バードマン」。思わず「死刑台のメロディー」が頭に浮かんだドラムのみによる音づくり。パンフを読むと賛否両論あったようだけれど、カメラワークも緊迫感を高めていて いかしていました。 子供に良かれと色々なところに出かけ体験させていたのに、仕事がうまくいかなくなってそんな特別なことができなくなったある時「ずっと一緒にいられて今までで一番良かった」と初めて思いを打ち明けられるシーンにドッキリした「シェフ・CHEF」はしょっぱなからノリノリだったし。 

音楽ではないけど映画つながりで一つ。

写真大好き日本人の今からは想像できないことだけれども、日本に写真が入ってきたころ「写真を撮ると魂を吸い取られる」とか「3人で写すと真ん中の人は早死にする」とか言われたということがあったんです。さすがに今ではそんなことを言う人はいないと思うけれど。 とはいえ私は“写真”には矢張り何かがあるんじゃないかと感じています。そんなことを「やっぱりそうだよね」と意を強くさせてくれたのが「おみおくりの作法」という映画。
だれ一人にも看取られることなく亡くなってしまった人の葬儀を執り行うことを仕事とする男性が業務縮小のために最後に担当することとなった人の人生をたどっていく中で、同じ時に起き同じ道を通り同じものを同じように食べる ただ一つの趣味(?)がかかわった人の写真を自分のアルバムに加えていくこと。そんな繰り返しだけの毎日が初めて変わっていくと思った矢先のあまりにもあっけない事故死。そこで明らかになる、この男性も脇で泣き弔ってくれる人のいない人だったという経緯。映画ラスト、機械的に葬られだれも残る人のいない彼の墓に次々に集まってくる、彼によって弔われた人たち・写真をアルバムに加えてもらった人たち。映画の終わりかたとしてはいくらかでも救われたような形になるのかもしれないけれど、私はそれ以上にゾクッとしました。 

“写真” いまだに小さい時の写真を見ると思いだします、可愛いあの頃のこと。薄いたった一枚の平面の中にたくさん入っているんです。実際の所は平面の印画紙にプリントされた写真の中そのものにすべてがおさめられているわけではなくて、それが記憶を呼び覚ますきっかけということだと思いますけれど。でも確かに一枚の写真でもそんな力があると思うのです。

写真を撮る、そして撮られた写真には何かある と不思議な感覚を覚えます。その写真を撮ったという関係性がその一枚の中に封じ込められる・その時が封じ込められているのだと思うのです。 だからそれを捨ててしまうと、その行為・記録・歴史自体が消去され捨て去られてしまうということかなぁと感じるのです。そういうことで言うとただ一枚の…ということではないんじゃないかと思えて仕方がないんです。 

そんなことを前々から思っていた私なので、先日「おみおくりの作法」を観て、矢張りそうだったと意を強く、やっぱり写真にはそういう力があるんだとお思った次第です。

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