2018年8月30日木曜日

2018年のお盆 4/4 一億総懺悔  下   やはりお盆でよかったのかな




そんな私ですがお話を聴いている最中に思い付くことがありました。 終戦の日が現在の815日とは違う日だったとしても今度はその日が特別番組が作られ式典が行われる日となったでしょう。でも一人一人が今のように先祖の事亡くなった人のことをしのぶ日となったかはわかりません。お盆だからこそなのかな と。

もちろんみんなが同じように 戦争のことにまで想い馳せ人を忍ぶわけではないでしょう。  先人は頭を下げられても当然の人たちだと思います。  アジアのこの地域で日本が巻き起こした戦争で、日本だけで300万を超える人がアジアでは2000万を超える人が亡くなっています。自覚してではなくとも、より多くの人が自然に手を合わせ頭を垂れる日にしてくれたんじゃないかと。 

時がたつと何時か熱も冷め それが日常になり その日常になれてしまう。 でも一年に一度のお盆の時期が同時に終戦の日という事で、そこまで意識しない人でも戦争で亡くなった先祖も含めて、自分・今につながる先祖忘れない良いきっかけの日なのかなぁと気づいたのです。 日常普段に先祖のことを思わない人でもお盆には家族のもとへ帰り共にお参りをする、そこには今日のこの日にそれらの人とのことを思い、争いを繰り返してはいけないと考えるにふさわしい日なのかもしれないと思ったのです。 戦争の責任追及と検証とは別にと思った次第です。

2018年のお盆 4/4 一億総懺悔  中   誰が 誰に 何を




この時政府によって国民に下された「一億総懺悔」は、国民が 天皇に対して 戦争に負けてしまって申し訳ありませんでした とするものでした。

中国の地で朝鮮の地でインドシナやフィリピンで日本が行った作戦での行為その結果としての人的 物的被害を小さく見せようとする動きは戦後早々に始まりました。 安倍さんが表舞台に出てきたころから特にその動きは活発になり、そもそもなかったとさえする主張が出てきたのにはあきれてさえしまいますけれど



何せ、終戦の日に向け何日も焼却する煙が上がっていたという程 記録・証拠が隠滅されてしまったんですから、規模的なものに関しては最後の一桁まで事実とぴたりという事は難しいのかもしれません。でも、自分で記録をなくしておいて記録が残っていない! はないでしょう。

日本の国の軍隊がたとへば中国やベトナム インドネシアの地に行っていたというのは誰も否定のできない事実。 日本が中国やベトナム インドネシアの軍隊に侵略されて日本の軍隊が日本の国土で戦ったわけではないのです。日本の軍隊が中国やベトナム インドネシアで地元の人たちを殺したのです。



本来なら追及されるべき軍や政府高官が一億総懺悔と言い問題の本質を隠し焦点をずらし・ぼかす。   結局責任を取るべき人が責任を取らず 逃れ、下の物が責任を取らされる。しわ寄せを受けるいつものパターンになってしまっていたのです。

 ふたたび戦争を起こさないためにも 先の戦争はどのようなものだったのか 資料を発掘 保存しなければなりません。 責任 原因を明らかにし繰り返さない。責任の所在を明らかにし取るべき人が責任を取らなければ命を奪われた人たちが浮かばれません。

2018年のお盆 4/4 一億総懺悔 上   なぜお盆の8月15日に 




日本でお盆と言うと “盆暮れ”という言い方があるように特別な時期。この時期ばかりは、普段なかなか休みをとらない人でも仕事をやりくりして、故郷に帰り仏壇の前で手を合わせ先祖のお墓参りをし御先祖様の魂をお迎えし数日を共に過ごすのです。  御多分に漏れずこの風習もだんだん厳密ではなくなって来たものの、それでも 日本中あっちへ行ったりこっちへ行ったりさながら民族大移動。大渋滞のニュースはこの時期のお決まりのテーマとなっています。 

お決まりのテーマと言えばもう一つ。お盆の15日は終戦の日でもあるので、これに合わせての戦争・原爆関係の番組も普段なら考えられない質 量で放映されます。

 

ところで。私は前々から なぜ昭和天皇による玉音放送がお盆・815日に流されたのか。 815日を終戦の日にしたのかを考えていました。 

昭和20(1945)のころは地域の結びつきは今よりもずっと強く風習も色濃く残っていたころ。昭和30年代に入ってからの農業の機械化 都市部の労働力需要の高まりで日本の社会が大きく変わるずっと前でしたので今より固定的で単一的な考え方をしていた時代。 人々はずっと信心深く生活と風習は密接でした。皇民教育も徹底していました。 ですからこの日に玉音放送をし終戦の日にしたのには作為を感じます。 

日本のみんなが先祖のことを思い 頭を垂れる日にぶつけてきたこと、その後政府主導で一億総懺悔と言いだして責任の所在をうやむやにしたことなどを考えるとそんなたくらみを考えてしまうのです。 

2018年8月24日金曜日

2018年のお盆 3/4   出会いと教育で 人は幾つになっても変わることができる




午後は 日本キリスト教婦人矯風会新潟/新潟YWCA/日本キリスト教団新潟地区社会部共催による平和集会「愛するとき 平和はつくられる」(お話・在日二世のソン プジャ・宋 冨子さん) に参加してきました。  会場は人でいっぱい。この方は新潟・新潟の人との縁も深く、講演内容からも、私が知らなかっただけ 知る人ぞ知る のようでした。

出だしは今日のテーマはなんだったけと資料を見直すほど話があちこち飛びました。朝鮮から強制的に連れてこられた人の子どもとして生まれた、生まれ育ったところは被差別部落、女性が教育を受けるという事が特別視されていただろう時代に女性として生まれた、となれば幾重にも差別を受けて育っただろうことは容易に想像できます。 何度も自殺を考えたという生活、 結婚 子育ての中での出会い(人・知識・学ぶという事)で自分が受け苦しんできたことは自分のせいではなく差別のせいであること、なぜ在日と呼ばれる人たちがいるのか そして在日の二世として生まれたという事で経験してきたこと、学ぶこと 知ることの喜びを知り生活・人生が変わったことをいくつものエピソードで紹介してくれました。



8月の15日と言えばお盆。 ですが、この日のこの集まりは過ちを繰り返さないために過去を忘れない 過去に学んで平和を維持・構築する意味合いで終戦の日としての815日に企画されたもの。 そういう意味でいうと今年の講師は在日二世として、戦前に日本が朝鮮でしたこと 戦後したことを知識とともに実体験としても話のできる大切な人だと感じました。
もう一つ、より私には印象深かったこと。 人との出会い 真実との出会い そして教育によって 知識を獲得・学ぶことの喜びをしって一人の女性・人生が変わったという事実を目の当たりにしたことでした。   人は変わる 人はいくつになっても出会いと教育によって変わる事ができるんだ を改めて確信しました。

2018年8月23日木曜日

2018年のお盆 2/4  祈り 苦しい時の神頼み ではない日々祈りのある生活を




15日水曜日は久しぶりの二人そろっての休みでした。 正直二日もよく言えばゆっくり もしかしたらだらだらと過ごしたので、少し罪滅ぼしの想いもあって久しぶりに彼女の所属する教会の水曜集会に参加しました。 礼拝ではなく 集まり と言ったのは、教会の集まりではあるんだけれど日曜の礼拝とは違い、普段の日曜にはそれぞれの教会に集う遠方の会員も参加して楽しみ合っていてその様はずいぶん趣が違うので。 でもこの日参加していた顔ぶれはいつもの日曜の人たちだけ。人数も少なめ。お盆のせい?   後で聞いてみたら、遠方の人たちも参加して歌ったりダンスを披露したりするのは毎月の最終だけとのことでした。残念。 

結局のところこの日は聖書研究会()でした。 テーマは“祈り”。  祈りの大切さは 他所でも  これまでも 幾度となく言われ 自分でもそう思っています。 でもそれだけ言われながらも 自分でわかってます、まだまだ祈りが足りないなぁと感じています。



「主がそばにいるから」という讃美歌があります。 先の礼拝の時、歌詞が日本語で意味もよく分かり旋律もなじみやすくすっかり気に入った一曲です。 その歌詞の中で “苦しいときさえ感謝する” とあったのがどうにも引っかかっていました。 私が思うに “苦しい時こそ賛美する・祈る” ではないかと。 それがこの日の集まりに参加したおかげで気づいたんです。 日常に祈っている人にとっては 大変な時でもいつものように祈る となるのだと。祈りが特別なもの なにかあった時に祈るという人は 「苦しい時の神頼み」で 苦しいときだから祈るんだ となるのだと気づいたのです。  私の日常の信仰生活はこの程度なんだと気づかされました。 

毎週ではありませんが、母教会の日曜礼拝に行っています。 この毎週ではありませんがというのは、運転のできない彼女を送迎してそのままそちらの礼拝に私も参加という日があるから。 文字は違いますが聖書の個所を聴きとっては同じところを読み返しています。スマホの翻訳アプリで補足しながら説明してくれる人も何人もいます。私にとってこの時間は聖書の学び直しの時間であり、わからない言葉が話される中かえって集中して考え直す時間となっています。 そして(どちらが正しいとか何かではなく)神の恵みに感謝して頭を垂れるのではなく、顔を上げ今日生きていること今日ここに集まれたことを難しいことを言わず素直にただ喜んでいる姿を見るにつけ「これも有りだな。これで()良いんだ」と気づかされる時間となっています。 

これほどに異なる礼拝スタイルに驚きながらも新鮮な喜びを感じています。 こんなところにもやはり何か神の力、配慮を感じます。

2018年8月22日水曜日

2018年のお盆 1/4  天上の友記念礼拝 




土日と夏季休暇を含めての今年のお盆(お盆休み)811日から16日はまずは充実していた日々だと感謝しています。

12日教会の天上の友記念礼拝に父とともに出席しました。 昨年は入退院の繰り返しと退所、落ち着いてからは次の行き先探しで本人もまわりも大変で出席できませんでした。牧師始め教会員のお見舞いは感謝でしたけれど、体調のこともあり本人の日曜礼拝出席はかないませんでしたので本当に久しぶりです。

拘縮も進み、救急病院への転医が必要なくらいまでにはなりませんが肺炎も繰り返しています。それでも全体としてレベルは低いけれど安定している状態にまでなったので

会堂はこの時期・この日だからの顔ぶれも見うけられいつもに増していっぱいです。説教壇には130年を超える新潟教会の歴史・記録では300数十名の方が亡くなりそのうちの200有余枚の遺影が大型の額に収められ並んでいます。 

礼拝後大勢の人が父のところへ顔を出してくれました。 父はだんだんに記憶が戻って来たのかなごむように表情が変わり、次いで感情が高まり泣き出しそうになりました。 



私自身驚きもし感謝していますが、今の父と私の関係は今までの親子関係の中で一番会話できているような気がしています。 感謝。





13・14日は 朝もゆっくり、何にもしないままに終わってしまうなぁと思わないでもありませんでしたが、何もしない贅沢 自分たちだけの今だからもてる時間と思うようにしてのんびり過ごしました。

2018年8月18日土曜日

新潟の暑さはお盆まで  もったいない車


近況1  家の車が2台とも乗れない状態になってしまいました。こんなこともあるんですねぇ。 1台は車検(車両検査)で5月半ばに入庫して8月も終わろうとするのにいまだに戻ってきません。いくら古い車と言ってもレストアまでしているわけじゃないんですけれども。 もう一台の車は、交差点手前で確かにABSが作動するくらいでしたから、いつもより強めのブレーキだったとは思いますけれど。そのあとからブレーキペダルの踏んだ感じが、踏んでも踏み応えがない、奥までぎゅーっと踏んでもすぅーっと行く感じになったのです。 最初はブレーキホースにひびが入ってそこからオイルが抜けたでしょうかという話だったのが、よく診てもらったら結局ABSの交換が必要との由。 

 2台ともだめになり仕方なく代車・マツダのMPV(借りた車は2006年製)に乗ったらこれが実用で実にいい車。古い車に乗っていると、代車の方が具合がいいという事はそう珍しくないことですがちょうどそんな感じ。 まず感じたのが、ボデイサイズ・横幅も大きいけれど窓が立っていて体のまわりが広々という事。車体は確かに大きいけれど、四角いボディの見切りがよくて思ったより運転しやすい。目線が高いからこれまで向こうが見越せなかった職場出口の塀越しに、こちらに向かってくる車を確認できる。鼻先も短いのか道路に出る時の確認がずいぶん楽。サイドミラーも 細い道ですれ違う時、相手の車との高さが違うのでぶつかりそうに感じてハラハラすることもないし。 特筆すべきは車内の広さ。シフトレバーがコラムシフトで、運転席と助手席の間が空いていて2列目のへのウォークスルーがらくらく。 後ろのドアがスライドドアだから狭いところに駐車してもここから降りられるのでボディがスペースに収まればOK

豪華に見えるデザインなのかもしれないけれど、今はフロアシフトでラゲッジボックスが席の間に有ったりしてせっかくのミニバンなのにウォークスルーが妨げられているものが多いから新鮮でした。すごく実用的。 このタイプの車種、今はこのメーカーの選択で、後継車両はつくられていませんが正直もったいない。



近況2   新潟の暑さはお盆まで。 「今は暑い暑いと言っているけれどもお盆までの我慢だから…」  そう話しても相手・世代によっては曖昧な返事に。

そうしたらお盆明け17日朝の天気予報・今日の予想最高気温がなんと23度。 連日の30度越えから一気に10度の急降下。 やっぱり新潟の夏・暑さはお盆まで。

2018年8月14日火曜日

加藤剛さんがこだわりぬいた想い



人の痛みがわかるに人になりなさい。

他人のために涙が流せる人間になりなさい。

そうすれば世の中に戦争などという愚かな物はなくなるから。 


俳優 加藤剛さんが常々口にしていた大切な言葉・想い 

(2018618日 80歳にて逝去)






舞台 映画 テレビ 、いずれでも存在感のある俳優。 その存在感は、自身の実体験からも 戦争の対局にある平和へのこだわりから正義・公平・真実・平和 平安を最後までぶれずに体現し通した俳優であり人でした。

生きているときはもちろん、亡くなってからもこの人の悪い話を聴きません。 こんなに表裏、俳優なのに役と自身との乖離のない人はいないのではないでしょうか。

第2次世界大戦の反省、平和憲法、平和な社会・状態を守ることにこだわりぬいた人でした。 私も平和・平安へこだわり続けます。

2018年8月13日月曜日

“おなかとせなかの闘い”

  812日日曜日、天上の友記念礼拝に父と行って来ました。亡くなられた教会員の方々の写真が特大のフレームに収められ説教壇に並んでいました。皆さんいい顔をしてこちらを見つめていてくれます。この日の説教で印象深かったのは、命の重さ悲しみの深さについての話の下りでした。故人が亡くなられると私たちは悲しみを感じます。その悲しみが大きいほど深いほど故人との関係の強さ深さ、故人が果たしていた働きの大きさなのだというのです。
 



88日に志半ばで亡くなられた翁長雄志沖縄県知事のことを思います。11月に知事選を控え、辺野古・大浦湾に土砂を投下しようとする日を目前に控えての埋め立て承認撤回の手続き開始 、11日オール沖縄・県民大集会という大きな山場を迎えた時でした。信念を曲げない現役の知事として果たしていた働きがどれだけ大きなものだったか改めて思います。



沖縄には2度行きました。最初は2012年、2度目は2014年、そう、前回の沖縄県知事選のタイミングでした。 初めて行ったとき、辺野古に行けたし有名な国際通りにも行くことができました。やんばるの森のヘリパッド反対のところまではいけませんでしたけれどまずは満足。

でも、実際に沖縄まで行っておきながら行きそびれたところがいくつもありました。首里城に行けませんでした、平和通りのことが気になってきました。平和の礎もいけませんでした。 2度目の時は、首里城も平和通りも行きました。 もっとゆっくりしたかったけれど平和の礎も行きました。 そうしたらまた新たに行きたいところが出てきました。例えば平和祈念公園のもっと見るべきところ、国立劇場沖縄の公演も観てみたい。吉野さんの事、首里城との関係にびっくりした斎場御嶽ももう一度ゆっくりしたいところ。平和通りを歩いていた時に見つけ「ずいぶん大きなシーサーだなぁ」と写真を撮ったすぐ先の焼き物の やちむん も次はぜひ行ってみたいところ・・・   こんなふうにして関心は高まり続いていくのでしょうか。 沖縄の名所旧跡 文化だけでなく、沖縄に集中的に表れている基地問題は日本各地にもアメリカ軍基地があり沖縄に限った問題ではありません。平和 民主主義の在り方という事でもいまや沖縄で毎日起こっていることは日本全体の問題です。 という事で 沖縄には今後もかかわり続けようと思っています。



2度目の時に聴くことのできた「おなか と せなか の戦い」(正確にはこのたび亡くなられた翁長さんのお父さんと瀬永亀次郎さんの出来事) 確かに当時は限られた議席を巡って()翁長さんと瀬長さんの二人が覇を競い合っていたのかもしれませんが、代も変わり状況も変わり オール沖縄 の力として、対立の と ではなく共にの と にかわったそれを体現していたのがこのたび亡くなられた翁長さんだと気づきました。 

天上の友記念礼拝の説教の通り、翁長さんの成してきたことが大きかったことを証するように悲しみ困惑していますが、平和を求める力・歩みはたとえ容易く一直線でない道だとしても歩みを止めることはなく、歴史進歩の流れはもう止めることはできない流れとなっています。 翁長雄志沖縄県知事のご冥福をお祈りします。

2018年8月11日土曜日

O2 14-11-8 これは沖縄そばです



写真の沖縄そば、私のイメージから言うとこれは十分ラーメンだと思うんだけど沖縄では“そば”なんだそうです。

 うんちくとともに紹介される全国各地のご当地ラーメン、こだわりとともに提供される有名店の個性的な創作ラーメン。 食事と食事の合間の時間に一時の空腹を満たすための物的なものだったのが、今ではこだわりとともに供され値段も高くなり十分メインの物に変わりました。海外でも知られるようになり、いまや日本の“ラーメン”は世界の物になったと言えます。

 

 沖縄料理というと豚肉という事で、沖縄そばも広く沖縄地域以外・大和地域で使う焼き豚とは違う豚肉の塊・三枚肉が載っています。そして沖縄にはソーキそばというものもあると聞いていました。 じゃぁその両方を食べてみようと思い立ってガイドブックに目を通したら、ソーキとは豚のあばらの事、それを乗せた沖縄そばをソーキそばという。という事がわかりました。 つまり、沖縄には沖縄そばとソーキそばがあるというのではなくて、沖縄そばというものがあって、その中にソーキを使ったものヤギ肉や中身(豚の内臓)を使ったものなど様々なものがあるという事がわかってきました。 日本各地にご当地ラーメンがありますが、より地域的な違い・特色のあるものが沖縄一県の中にさまざまにある・残っているという事ですね。



 沖縄そば という言い方について。

昔 麺と言えば そば があって うどん があってその次にラーメンという位置関係があったように思います。今は見なくなった言い方でシナそばという言い方がありました。それがよくない言葉という事で、中華そば という言い方になり、今はすっかりラーメンという言い方が主になりました。 それでも、昔からのお店に行ったりするとメニューに中華そば、その中華そばに具が五品(沢山)乗っているという事なのでしょうか五目そばなんてものを目にしたことがあります。そのメニューにラーメンなんてのが併記されていたりするともうわかりません。

 そして、言葉の伝播という事でいうと少し前は“テレビの時代”と言われテレビを通して全国の言葉が一様になって(された)行きました。 そんな中、沖縄は1972年まで日本とは引き離されていましたから、その時間差が沖縄文化の独自性を保たせていたのかもしれません。 見た目は十分ラーメンなのに「これは沖縄そばです」という言い方もそのアイデンティティの一つという事かなぁと私は考えてみました。

*写真後列真ん中の小皿。 ジーマーミー豆腐 もおいしかったですよ。

2018年8月8日水曜日

O2 14-11-8 繰り返してはいけないという総意がひめゆり平和祈念資料館を育てている




ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館の少女たちの写真。こういう展示の手法はこれまで幾度も見てきましたが、いつもただの肖像写真・遺影に枠に収まりきらないものを感じます。多少なりとも背景を知っているからかもしれません、それにこれだけの枚数が一度にという事は日常まずないことですし。

どの写真の前に立ってもまっすぐこちらを見てきます。その視線が訴えているんです。

   

実は当初、ひめゆり平和祈念資料館の展示の仕方 解説の仕方は、ひめゆり部隊に動員されその多くが命を落とした女学生の話を美化した展示・説明という傾向が強かったそうです。でも、この説明の仕方では沖縄の戦いの実際を伝えていない ひめゆりの悲劇を繰り返してはいけないという声が高まり今の展示・説明に変わってきたんだそうです。

あまりにも残酷すぎる 刺激が強すぎるという理由で展示物を入れ替えてきている広島の原爆資料館とは別の動きという事ですね。

2018年8月4日土曜日

O2 14-11-8 平和の礎





 19956月、沖縄戦終結50年の年に建立され屏風のように連なる花崗岩で作られた記念碑に刻銘された人々の名前はすでに20数万人を超えているそうです。

 平和の礎に名前が刻まれているのは沖縄の人だけじゃなく、沖縄県以外の日本各地から来た人たちを含めた沖縄の戦いで命を落とした人たちを国籍・民間人か兵隊かにこだわらず名前を記しているのだそうです。


 刻まれている名前を追う目が思わず止まったのが 誰誰の子 とだけ刻まれている名前(!?)  全員が亡くなった一家なのでしょう。それがやっと生きていた証として平和の礎に刻まれた。 自分につながってくるものを絶たれ、自分からつながっていくものを絶たれる。 あまりに多くの人が亡くなる戦の中で、お葬式を挙げられることも弔われることもなく放置され、場合によっては野ずみにされ“処理”される遺体。 平和でこそ弔いの式が行われ悲しむ人がいてくれる。改めて、平和な状態って何の答えを思います。

2018年8月2日木曜日

O2 14-11-8 あまり高さのないまあるい墳墓型の慰霊“塔”






ボォ~ ボォ~ン  急に聴こえてきたという印象です。ここに来る前 遠くから聞こえていた覚えはないんですが、この場所に音が集まるように何か仕掛けがしてあるのでしょうか。 ようは もがり笛 と言えばいいのでしょうけれど、この地ゆえかそれでは伝えきれない胸騒ぎを感じます。

摩文仁の丘一帯にある慰霊碑・慰霊塔は優に100を超えるそうです。その中に韓国・朝鮮の人たちの慰霊碑もありました。場所は平和祈念資料館入り口に向かって立つとその背部になる位置関係のところ。

写真は 白い7角形の塔を持つ平和祈念堂を後方にして映る韓国人慰霊塔です。 名前に“塔”と言う字がついているのにその形は土饅頭。苦難の末に命を奪われた人たちを慰霊するために建てられた慰霊塔、私は確かにいたんだぞ!と主張する形だって全然おかしくはないのに、この韓国・朝鮮の人たちの慰霊塔はあまり高さのない まあるい墳墓型の慰霊塔。使われている石材は、故国各道から持ち寄られた石だそうです。



碑銘の石柱前が円周状に一段低く作られ、どうもここに立つと音が聴こえるようにしてあるようです。 その中心部に矢印が配置されていました。この矢印は故国の方向を指しているんだそうです。 

吹く風が通り抜ける時に音が出る仕掛け、同様の想いから工夫された物はほかにも記憶にあります。亡くなった人を偲び、茫々と鳴き声のようにも悲鳴のようにも響きました。

ただ、この時は泣きながらでも立ち止まってはいない何かも感じました。