2018年8月23日木曜日

2018年のお盆 2/4  祈り 苦しい時の神頼み ではない日々祈りのある生活を




15日水曜日は久しぶりの二人そろっての休みでした。 正直二日もよく言えばゆっくり もしかしたらだらだらと過ごしたので、少し罪滅ぼしの想いもあって久しぶりに彼女の所属する教会の水曜集会に参加しました。 礼拝ではなく 集まり と言ったのは、教会の集まりではあるんだけれど日曜の礼拝とは違い、普段の日曜にはそれぞれの教会に集う遠方の会員も参加して楽しみ合っていてその様はずいぶん趣が違うので。 でもこの日参加していた顔ぶれはいつもの日曜の人たちだけ。人数も少なめ。お盆のせい?   後で聞いてみたら、遠方の人たちも参加して歌ったりダンスを披露したりするのは毎月の最終だけとのことでした。残念。 

結局のところこの日は聖書研究会()でした。 テーマは“祈り”。  祈りの大切さは 他所でも  これまでも 幾度となく言われ 自分でもそう思っています。 でもそれだけ言われながらも 自分でわかってます、まだまだ祈りが足りないなぁと感じています。



「主がそばにいるから」という讃美歌があります。 先の礼拝の時、歌詞が日本語で意味もよく分かり旋律もなじみやすくすっかり気に入った一曲です。 その歌詞の中で “苦しいときさえ感謝する” とあったのがどうにも引っかかっていました。 私が思うに “苦しい時こそ賛美する・祈る” ではないかと。 それがこの日の集まりに参加したおかげで気づいたんです。 日常に祈っている人にとっては 大変な時でもいつものように祈る となるのだと。祈りが特別なもの なにかあった時に祈るという人は 「苦しい時の神頼み」で 苦しいときだから祈るんだ となるのだと気づいたのです。  私の日常の信仰生活はこの程度なんだと気づかされました。 

毎週ではありませんが、母教会の日曜礼拝に行っています。 この毎週ではありませんがというのは、運転のできない彼女を送迎してそのままそちらの礼拝に私も参加という日があるから。 文字は違いますが聖書の個所を聴きとっては同じところを読み返しています。スマホの翻訳アプリで補足しながら説明してくれる人も何人もいます。私にとってこの時間は聖書の学び直しの時間であり、わからない言葉が話される中かえって集中して考え直す時間となっています。 そして(どちらが正しいとか何かではなく)神の恵みに感謝して頭を垂れるのではなく、顔を上げ今日生きていること今日ここに集まれたことを難しいことを言わず素直にただ喜んでいる姿を見るにつけ「これも有りだな。これで()良いんだ」と気づかされる時間となっています。 

これほどに異なる礼拝スタイルに驚きながらも新鮮な喜びを感じています。 こんなところにもやはり何か神の力、配慮を感じます。

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