2014年3月23日日曜日

使命=ミッション


3.11

この文字は、これからも程度の差こそあれほとんどみんなの心に何らかの波紋を呼び起こし続ける言葉でしょう。

 

 今年も311日が近付くにつれ3.11東日本大震災に関する報道が増してきました。

その中の一つの番組。2011年の311日に生まれた110人の赤ちゃんをドキュメントした番組が印象に残っています。

顔も名前もわかる人を含めてあまりにも多くの人が亡くなったその日に生まれたということで、この子だけ生き延びてよかったんだろうかと思う親。たまたま自分の子供の出産予定日で休みを取っていて自分は助かったけれど、職場は地震津波で壊滅状態、自分がいたら少しでも助けられる人がいたんではないかと悔い続けている人。亡くなった人たちの分も一生懸命生きてほしいという親。電気もダメ暖も取れない口にするものもない=お母さんのお乳が出ないという中で、自らの困難さを顧みずとられた多くの行為が紹介されていました。

 

その中で特に、地震と津波で病院自体が孤立したところの看護師の言動が印象に強く残っています。

自分にも家族・子どもがいて安否が気になるし飛んで帰りたかっただろうに、目の前の赤ちゃんやお母さんを置いていけず支え続け共に不安の夜を過ごした看護師。

それは、その場その職、使命=ミッションから出た行動だと思います。称賛に値する感動を呼ぶ行動でした。

 

 

追伸 ゆえに,立場もわきまえない言動のNHK籾井会長の自覚のなさを一層感じてしまいます。

2014年3月19日水曜日

メダルってなんだろう ソチ冬季オリンピックを見ていて 追伸/3 


 
ソニーPCバイオについて。

また使えるようになったという連絡が来ました。最初に戻って設定し直しが必要ということですが。
このたびもハードディスクを交換したそうです。

実は、以前あまりにもブルースクリーン状態フリーズ状態を繰り返すもんだからストレスがたまって修理に出した時もハードディスクを交換したんです。なのに今回もハードを交換するとは。何でも、あまり評価の高くないハードディスクが使われていたとの由。

パソコンなしではいられないので、ソニーのパーツを使った他社のPCを買おうかなと思っていたんですけど今一度使ってみましょうか

デジタルカメラ。これは考え方でしょうけど“一眼”の新製品を出さなくなってしまったソニー。PC部門も売却するし、パーツ屋さんになっていくんじゃないかと危惧しています。

本来優れた技術力のあるところなのに、製品力 発想が乏しくなってしまった現状を残念にも悲しくも思っています。

メダルってなんだろう ソチ冬季オリンピックを見ていて 3/3


 

ところで。

このたびの各放送局のゲストコメンテーターたちの中で、こんなにしゃべられる人がいたのか と好感を持った人が何人かいました。

アルペンの皆川健太郎選手をはじめ、女子カーリングと女子アイスホッケーOGの幾人かは皆大人で話し方もしっかりしていました。

中でも浅田真央選手のお姉さんの浅田舞さんは、その話の端々でほんとに仲のいい姉妹なんだなぁと思わせてくれました。

もちろん、同じフィギュアスケーターだからわかる事 家族としての想い お姉さんとして妹を思いやり接してきたいくつものエピソードを披露するなかで、これまで知らなかった真央さんの一面も聞けましたし。舞さん自身の、態度 話し方もごく自然、雰囲気もとてもよく好感が持てました。

 表情のない、口もよく開けず抑揚のないはっきりしない話し方。次の言葉を待ってイライラするほどの人もいる中で大変好感が持てました。

改めて、YG元選手の、何回まわったとか 今のはなんて言うジャンプだとしか言わないのと比べてずいぶん違うものだと思いました。

メダルってなんだろう ソチ冬季オリンピックを見ていて 2/3 


 

今回のソチオリンピックでは、女子カーリングと女子アイスホッケーをよく見ていました。

カーリングは激しい肉体同士のぶつかり合いがあるわけではないけれど、勝った試合も負けた試合も静かな中の緊迫感、見ごたえがありました。

女子アイスホッケーは、今度こそ悲願のオリンピック初勝利と臨みました。残念ながらそれはかないませんでしたが、あと少しのところまで実力は確かに上がって来ていると感じました。16年前のオリンピックと比べて格段に縮まった得失点差がそれを示していたと思います。
でも、この“あと少し”が大変なんだということを改めて教えられたソチオリンピックでの女子アイスホッケーでした。

メダルってなんだろう ソチ冬季オリンピックを見ていて 1/3 


 

先日のソチ冬季オリンピックでは「メダルってなんだろう?」と考えさせられるエピソードがいくつかありました。

メダル、そりゃあ取れたら取れないよりはいいでしょう。
でも、みんながほしいと思い目指しているものだし、“とはいっても違いが”とはいうものの一定の基準を満たした選手たちが出てきているわけなので誰にも可能性があるというもの。

 “オリンピックには魔物がすんでいる”という言葉がある通り、実力・実績がいくらすごくてもトップでゴールできるとは限りません。
まさに、新記録は出せてもオリンピックで優勝できるかどうかはわからない」の世界ですから。

 
前回のオリンピック後一度はスキーを履くことさえできなかったモーグル競技の上村愛子さん。
  そんな単純なことじゃないとわかっているけど、これまでのオリンピックで7654位ときて今回は3位に入れるかなぁと思っていたのに。結果として今回もメダルに届かなった上村さん。
滑り終わってゴーグルを外したときの表情のなんと晴れやかだったか。きっと本人の中で、納得できたんでしょうね。得心がいったんでしょうね
試合に負けて勝負に勝った という言葉があるけれどそういう感じ?
勝つにしても負けるにしても本人が納得できるかどうかがより意味のあることということでしょうか。

   フィギュア・スケートの高橋大輔選手 浅田真央選手もそうです。
高橋大輔選手は怪我を抱えての滑りのあとすがすがしい表情をしていました。メダルを手にすることはできなかったけれどなにか吹っ切れたんでしょうね。
私自身個人的には“真央ちゃん真央ちゃん”とみんなが言うほどには絶対見たいとは思っていませんでした。そんな私ですが、ショート・プログラムでのまさかのつまづきの後のフリーの滑り。そして滑り終わった時のあの表情 涙 にはグッときました。
それを目にした多くの人たちのコメントを見聞きして再びグッときました。
(それだけに森元首相の無神経発言「あの子は大事なところになるといつも転ぶ」発言は許せません。)
 高橋大輔選手 浅田真央選手二人ともメダルには届かなかったけれど、滑り終わったときの表情から、自分でも納得し達成感を持てたんだろうなということが感じ取れました。

   メダルを手にしたスノーボード・パラレルの竹内選手もほんとにいい表情をしてました。
狭い日本の世界を飛び出し国外に練習の場を求め、いろいろつらい経験があっただろうことは想像に難くない竹内選手の満たされた表情は、素直に あ~メダルが取れてよかったね~と思わせる表情でした。

 

それだけに、ロンドンオリンピック柔道選手の、勝てなかった時はもちろん、たとえメダルを手にしても金でなかった時のあの表情は今さらながら見苦しいと思い出してしまいました。(その後、決して選手個人の責任でなかったということは明らかになりましたけど。)

メダルってなんだろう ソチ冬季オリンピックを見ていて 0/3 


 

これから書くことを最初に思い出したのは、ソチオリンピック真最中の頃なのでもうずいぶん前のことのように感じてしまいます。

ソニーPCバイオの故障と寒さ。そしてこれからのことをかんがえると非常に不安になるとはいうものの、とにかく一区切りつけたら(いい意味で)ホッとしたのかこれまでたまっていた疲れがでて帰ると横になってばかりでアップできなかったのです。
 

時の流れはほんとに速いのでここまで来ると多分に旧聞に資するとも思いますけどニュース性だけでないことでもあるので、やっとですけどこれからアップします。

2014年3月13日木曜日

3.8 原発ゼロ新潟中央集会 -3.11福島原発事故から3年全国一斉行動-

  
  3.8集会に参加しました。

前日までの大荒れの天候だったら大変だったんでしょうが当日は晴れ。

お日様も出てくれて助かりました。

 でも風が寒かった~ 空気は寒いというより冷たいという感じ。

それでも降ったことを思えば感謝ですけど。

 

集会は、福島からこちらに避難してきている人の話や地域で頑張っている人の話のあと、結構いた遠方からこの日のために集まった人たちも含めて皆元気にパレードでした。

この日集まったのは200前半から半ばくらいだったかな。

 

先導のシュプレヒコールに呼応して声を出したり、ゼッケンや被り物などで思い思いの形でアピールをしました。

私は、パレードの時沿道の人たちには宣伝カーからシュプレヒコールだけでなく先ほどの福島の人の話しを流しながらというのもよかったんじゃないかなと思いました。

2014年3月9日日曜日

「三姉妹 雲南の子供たち」 を観ていて心に浮かんだ先の見えないつらい生活の日々

 私このところ、ここ何年かの中では一番のものすごい勢いで映画を見ています。

 年末年始の上映作品は大作話題作が多く、上映期間も長いように思います。

私なんかは観たいものはすでに年末のうちに観てしまっているので、毎月一度は実際劇場に足を運んで映画を観ようと課している私だけど、この一月はどうなることかと心配になったくらいでした。

 

 それでも、一月も下旬になると上映作品も動き出してきて、このところはちょうど見たいと思うもの がかかる ようになってきて通っているというわけです。

 

その中の一本に「三姉妹 ‐雲南の子どもたち‐」があります。

母は子どもたちを残して家を出、父も出稼ぎに出ていて不在。
日常の生活、食事・食べるということ 衣服 他の子ども・家々との違い・序列も感じられます。
出稼ぎに行っているとはいっても父の収入はあまりない様子。 

母の代わりに父の代わりに6歳と4歳の幼い妹の面倒を見ている12歳の長女は、しょっちゅうを咳をしています。
 間違いなく呼吸器が悪いと思います。 慢性気管支炎、もしかしたら結核かと思うほど。
 歩き方を見ていると股関節も悪そう。

生活(レベル)は今の日本では想像もできないほどのもの。
事情からこの三姉妹の生活はより困難とはいうものの、この集落全体の生活全体が将来にわたってなんの希望も感じられない状態。

もし、あるという言葉で何かを言うならば“絶望”はある と切ない思いになりました。

 

話は変わるけど、そんなことから思い出したことがあります。

以前とても多いことを表すのに、星の数ほどとか数えきれない以上に多いことを表す言い回しとして「たとえ星の数が数えられてもそれ以上に…」という言い方があるんだ云々と言うことを書いたことがあります。

今回このなんら希望が見いだせないというところから思い出したことが二つあります。

一つは「ブエナビスタソシアルクラブ」の中でフェレールが「つらくて歌も歌えなかった」と答えているところ。

 つらさを歌で紛らわすということは聞いていたけれど、歌も歌えないほどつらいというのがあるのか、と印象に残っています。

もう一つは、「サイダーハウスルール」という映画に関してだったと思うんだけど、生まれ育った町には何もなかった“夢”さえもなかった云々ことを見聞した時です。

人はつらいとき、ここ以外の場所にこれから先に夢を見ることでその辛さに耐えるということがあると思っていたんです。

たとえ今目の前に物がなくとも、この先にはきっと明るい未来が…というように。

物がなくても夢だけはいつでもどこでも見られると思っていたんですけど「そこは何もなかった、夢さえもなかった」と言うのを耳にしてびっくりしたのを思い出したんです。

三姉妹のこれからには希望のない毎日しかないような気がして、こんなことを思い出してしまいました。

2014年3月2日日曜日

2・11思想信教の自由を守る新潟集会  4/4 


 

講師の人となり

 

ところで今日講師を務めてくれた平良牧師。1966年の琉球列島第5代高等弁務官FTアンガ-中将就任式の時の祈祷で「この高等弁務官をして最後の高等弁務官たらしめ給え」と祈った逸話のある人だそうです。

話し方、口調はゆっくり穏やか、もし当日PAがなかったら会場いっぱいのみんなまでその声は届かなかったんじゃないかと感じるほど。でも内なる意思はとても強いものを持った人だと思いました。

 感謝

2・11思想信教の自由を守る新潟集会  3/4


 
いつもの学習会とちょっと違っていました 

 

知識を得るという集まりは多くあります。

でもこの日の講演・学習会はいつもと違いを感じました。

 

「今 辺野古・高江はもちろん沖縄各地で次から次ぎへと上がっている火の手は、米軍・日本政府がいろいろ画策してもこれらすべてを消すことは出来ません。」と言うのです。

それはなぜか?

「それは問題の大本に 日米安保条約 があるからなんです。」と言うのです。

「私たちはあちこちで火の手を上げるだけでなく、問題の大本に日米安保条約があるからだということをもっとはっきり意識して運動していかなければいけない。」と言うのです。

「学習会に参加しました。良い講演会でした。で終わらせてはいけない。」と言うのです。

「本質を捉えた正しい運動、継続した運動にするため学習が大切。」と言うのです。

 

質疑応答のとき、毎月駅前で“戦争反対・9条守れ”と言う宣伝・署名活動をしているグループの人が「この運動でいいのか いつまでもこれでいいのか」という胸のうちを打ち明けていました。

この声に対して、平良牧師は改めて継続する事・学習する事の重要性を話すとともに「あなたたちのこの継続はすでに大きな力になっている」と話してくれたことが印象にあります。

2・11思想信教の自由を守る新潟集会  2/4


 沖縄を“もし日本が100人の村だとしたら”に当てはめてみると

 

講演は「沖縄を知ってください。そして日本を。」と題して日本基督教団沖縄教区の平良修牧師を講師に行われました。

講演の滑り出しは、沖縄・琉球国の歴史から始まって琉球処分の事に時間を割き触れていました。

“琉球処分”は、私も知っていた明治時代の“琉球処分”(1879)だけじゃなく、第2次世界大戦末期の沖縄戦(1945)の時、敗戦後の米軍統治(1952)、日本復帰・日本再併合(1972)のときにもあったんだ。それらによって、沖縄の人達は何度も何度もその文化・独自性を踏みにじられてきたんだという歴史を話してくれました。

 

1972年の日本復帰後も、日本の国土面積の0.6%に過ぎない沖縄に米軍基地の74%が集中している事。

それは、人口比日本の総人口の約1%の沖縄を“もし日本が100人の村だとしたら”に当てはめてみると、本土99人に対してたった1人の沖縄人で日本全土の基地の74%を持っていると言うことになるんだということを改めて教えてくれました。

こう例えて示されると改めてその異常さに気付かされます。

 

“抑止力”としての軍事力は、今の情勢・軍事技術としては絶対沖縄でなければいけないわけではない時代になったんだそうです。

確かに冷戦終結後、経費の問題もありヨーロッパから米軍を削減していました。(アメリカ合衆国)本土からでも充分に緊急展開ができると言うのがその理由だったように記憶しています。

それなのに沖縄にこんなに基地が集中しているのは、日本が沖縄を見捨て米軍に沖縄を差し出している、新たな、今も続く“琉球処分”なんだという趣旨のことが話されました。

2・11思想信教の自由を守る新潟集会  1/4


せめぎあっているということを強く感じさせてくれた会場一杯の参加者  

 

211思想信教の自由を守る新潟集会」は私の記憶ではこのところなかったほど大勢の参加者で会場はいっぱい。顔触れは、年配の人に混じって若い人も大勢目に付きました。

それは事前に用意した資料も全然足りなくて急きょ増し刷りをするほど。

以前のこの手の集まりよりも格段に参加者が多い上に若い人も多いという印象です。

 

危険な安倍政権の目論み、マスコミが盛んに取り上げる(日本の常識は世界の非常識  敵失も含めて)歴史を逆回転させようとする目論見に異を唱える人達の輪の拡大を強く感じます。

会場の熱気はまさにそんな今の情勢を反映してだと思います。

この一日二日で決するなんて短期的な事なんとは思っていませんけれど、まさに今“剣が峰”に立っているんだと感じます。

もう一つの 3.1


 
3.1というと、特に今年は60年ということもありビキニデーをまず思ってしまいます。

今年の31日はどうしようか気にかけながらも日程的にも折り合わず、新潟で行われた「歴史認識問題をどう乗り越えるか 朝鮮植民地支配を巡って」と銘うっての集まりに参加しました。

そしたらこちらもそうでした。「そうだった」と会場に行ってすぐ思いましたよ。
こちらは95年になるんだそうですが、31日は日本による植民地支配を受けていた朝鮮で独立運動が始まった日だった、と。

 講演テーマは、特に安倍さんが首相になってからの“日本”の危ない状態を強く感じているもんだからもちろんタイムリーだと思いました。
  でも、それ以上に 私がこのたびこの集まりに参加しようと思ったのは“歴史認識”という言葉で思い出すことがあったからなのです。

 

先年韓国に行き独立記念館でガイドの人からまず言われたのが「私たちは日本の人たち・あなたたちを責めようとは思わない。ただ事実を知ってもらいたい。・・・」ということ。

戦前“日本”が朝鮮に対して行った数々のことに対して、戦後に生まれた個人が責任を感じるということと、“国”が責任をとるということは同列ではありません。
  ただし、何をしたのか事実を知ることは戦後に生まれた人間でもできることだしそれは日本に暮らすものとしての義務だと思いますが。
  そういう発想で思うことがあったのです。

オームもそうだけど、霊感商法などで大きな社会問題になったカルト集団・統一教会がらみで、なんでこんなにいともたやすく洗脳されてしまうんだろうということを私も含めて多くの人が思いました。

昔言われていたのが、特に統一教会は韓国で誕生したということもあり日本が戦前朝鮮で行ったことの責任を今の日本人・若者が取らなければいけないということを刷り込んだ。教育・受験制度のことプラスわざと教えない触れさせないという結果、初めて知る数々のことに衝撃を受け、その結果洗脳され取り返しのつかない選択をしてしまう若者が多かったということでした。
  日本はそんなに悪いこと ひどいことをしていたのか。 
 みんないい若者なんだと思います。純でいい。だけど、周りの大人の責任もあるけど、同時に幼いともいえると思います。
  そう刷り込まれてしまったわけなんだけれど、自分が責任を取らなければいけないと思ってしまうんでしょうか。

そんなこと感じていたのがきっかけでした。

ちなみに、その頃ミッションスクールにいた私は、論破するなんて息巻いて、街頭でかみ合わない話し合いなどをたびたびしていました。
  実は当時でも全くなかったわけではないんですが、まだ今ほどには直接的な危害の恐れは少なかったように思います。今思うと危ないことをしていたなぁと思いますけど。

 

この日の集まりは資料も内容も網羅的に十分な内容の講演会だったと思います。
 講演の中でも質問に答えての話の中でも、今現在まさに問題になっているタイムリーな話も出ていましたし。
 今ここで当日の内容を詳しくリポートはしませんが、内容以前に今言っておきたい一番印象に残っているのが、講師が本題に入る前にあいさつも兼ねて口にしたこんなこと。
 それは、今日ここに講師として呼ばれたことに謝意を述べるとともに、以前の経験から参加者は集まっても2030人くらいかなぁと思っていたのにこんなに大勢の人が集まって驚いている、ということ。

確かに、決して小さくはない講座室を二つもつなげての会場に用意していた机と椅子だけでは足りなくなって、急きょ他所から椅子を運び込まなければならないほど、資料を増し刷りしなければならないほど大勢の参加だったのです。
 200まではいなかったと思うけど百半ばはいたんじゃないかなぁ。通路もぎゅうぎゅう大勢でしたねぇ。
 講師は、2年ほど前からすごく変化を感じていると言っていました。

先日の2.11集会のときと同じように、今本当に剣ヶ峰 せめぎ合っているんだと重ねて感じる集まりでした。