2015年9月30日水曜日

10-9-16 南大門地域 1/4 放火焼失再建中の南大門=崇礼門


 これから南大門(市場)です。近代的で立派なおみやげ専門店とは別の意味で、何より雰囲気、食材や衣類雑貨のお店をのぞき場合によっては値切るというやり取り、南大門に行ったということ自体に観光客には意味があるんだと思います。
“門”自体は、城塞で区切られていたころの都市の東西南北に設けられた城塞の中の南に位置した門ということで南大門と言われているけれど正式には崇礼門というそうです。尚、東西南北にあった門の中では一番立派なものとの由。
ただ、今日は残念ながらその立派な門を見ることはできません。その時は日本のニュースでも大きく取り上げられたので私でも知っていますが、放火により焼失してしまい再建工事中なのです。だから今日はこの囲いだけ。

 

ガイドの李さんは放火事件のことを話すとともに、放火犯のことを「今は国が特別に立てた別荘で三食ちゃんと食べています。」という風に話していました。放火から時間がたったということもあるのかもしれませんが、「韓国・ソウルのシンボルがなくなってしまいました。」と少し声が神妙な感じにはなりましたが、貴重な文化財をダメにしてしまったという割には感情的に強く非難するという感じがしませんでした。こんなものなのでしょうか。
それで私の知りえたところで考えてみたんですが、勤めている人でも定年年齢は日本より早くかつ年金等の社会保障は決して十分ではないという社会構造。この人の場合は自営で、再開発に伴う移転補償で折り合いがつかず不満(不安)があった。放火は決して許されることではないけれど、韓国社会においてはこのような将来に対する社会不安が程度の差こそあれ共通認識としてあるということなのかもしれないと思いました。

 
 
 

ちなみに、市場入り口脇に以前の崇礼門なのかと思う写真がありましたのでそれもここに載せておきます。

2015年9月28日月曜日

離れていてもいつもあなたを想っています



高校1年生のころ、自分に自信がなく、心を開いて語り合える友達がいない…私は生きていても死んでいても他の誰かにとって何も影響はないのではないか… 孤独感と自分の存在の重みを感じることができない… そんな思い尾を抱えながら過ごしていた時、学校帰りにU教会に行ってみたのです。 
助けを求めたい思いで協会の玄関前に立っていると、一人でお祈りをしていた女性が中から出てこられました。その女性はにっこり笑って中に招き入れてくれました。そして「これはね、どこを開いても神様が“あなたのことを愛しています”と書いてあるラブレターなんよ」と言って聖書をくださいました。こんな私でも愛してるという方がいる、人間を超えた存在に受け入れられているということがうれしかったのを覚えています。


これはKN牧師による99日の主日礼拝説教からの抜粋です。

この逸話に触発されて私なりにまとめてみました



聖書は あなたに 書いた「いつもあなたを想っています」という神様のラブレター

2015年9月27日日曜日

所作の素敵な人


約ひと月分積み重なっていた資料の分類整理を先ほどようやく終えました。予定していたスタディツアーが中止になってから参加していた舞台が昨日ようやくやく終わり朝から久しぶりに整理していたのです。のんびりしていました。 といってもちゃんと寝れば疲れも取れるというものなのに、夜中のラグビー・ワールドカップ イングランドとウェールズ戦の中継から目が離せなくて最後まで見て。そのあと、まだはやかったけれど「こうしているだけじゃ時間が持ったいない」と、このところ見ることができなかった日曜朝の報道番組を付けながら新聞に目を通し、テーブルの上に積みあがった資料の分類整理をしていたというわけですが。

 さて舞台。今回のテーマは、今は新潟市の一部になってしまった旧亀田町の“亀田”という地名誕生に至るところを描き出したもの。私からすると少し無理があると思うところもあるけれど、切り口は良くも悪くもいつでも何でも一生懸命の声をかけてくれたこの人のものです。
今回私がもらった役は地名誕生にかかわった殿様の役でした。したがって衣装は当然着物。今回は詳しい人にきちんと着付けてもらいました。その着付けをしてくれた人がとっても素敵だったのです。前に映画製作に衣装係でかかわっていたという人と一緒になったことがあるけど衣装選定から立ち居振る舞いまですべてにすごく詳しくて、てっきりそういう人かと思いました。 

本番の日は自身着物姿。何人もの着付けを段取りよく、早変わりのところなんかはその手さばき立ち居振る舞いが見ていて美しいほど。 一つ一つの身のこなし方がしなやか。
実際のところ、パッと見た印象より歳はいっているのかもしれないけれど日舞の名取の人だとか。身のこなしも美しくなんでも知っている人と一緒に舞台が作れたことが今回の大きな収穫。  素敵でした。

2015年9月24日木曜日

安倍政権を見ていて思い出した言葉 “傀儡” と “中立”


久しく聞かなかった言葉を最近の世相を見ていて思い浮かべました。  
 それは “傀儡”と“中立”。
 

まず“傀儡”
 
歴代自民党 特にこのところの安倍政権のやることを見ていると、この政府はいったいどっちを向いているのか何処の国民・国の代表なのかと思っていました。(実際のところは、アメリカ追従、アメリカの言うことは丸のみというのは明々白々ですが。)
 
安倍首相はこの春、日本の国会で安保法案が審議される以前にアメリカ合衆国上下議員合同の集まりで安全保障関連法案をこの夏までに通すと宣言してしまいました。この行為は、日本のこれからを大きく変えてしまう重大な法案がまだ日本の国会に提案すらされていない時期のことで本末転倒。法案自体に問題があるのに 提案・審議の前にアメリカ(合衆国)に法案成立を約束してしまうという、なんてめちゃくちゃなことをするのかとあきれ驚いたものです。ところが、この度の国会会期中に明らかになったことにはもっと驚かされました。
 
日本には“自衛隊という名前の軍隊”がありますが、戦前の大日本帝国軍隊の反省からシビリアンコントロール、日本語で言うと文民統制のシステムがある…はずでした。ところが現行安倍政権ができるきっかけとなった先の衆議院選挙直後に訪米した日本の自衛隊の統合幕僚長が、行政の長である安倍首相に先んじて「安保法案は夏までに成立する」とアメリカ軍高官に言っているんです。これは軍民統制をないがしろにすることで大問題。 それに加えて感じるのが、日本だってトップが行ったんですよ、そのトップが聞かれて はいはい と答えている…なんて卑屈な態度。こういう姿勢を見聞きして思い出したというわけです、「昔あったよなぁ。韓国とか南ベトナムに傀儡政権」と。
 

 蛇足ですが、アメリカ大好き安倍首相の言っている「戦後レジュームからの脱却」、良くも悪くもアメリカとともにあって今のようになったのに本人の中で矛盾しないんでしょうかね?
 

もう一つ懐かしくも思い出した言葉“中立”
 
今年は第2次世界大戦終結後70年ということで様々に行われている行事の中、先日行われた中国の対日戦勝70年記念式典に参加した国連パンギムン事務総長に対して、日本の菅官房長官が「国連は中立であるべき」と発言したのに対して、「国連は中立ではない 公正公平である」と返したということで、「うちは中立です」と言って報道(すべきこと)を取捨選択している新聞社・報道関係。そして、「うちは中立です」と言っていた政党(その後)を考えました。
 
 “中庸”ならまだわかるけど、一見よさそうに聞こえる“中立”という立場ほど実体のないものはないと思っています。中立 真ん中は右が広がれば右に移ります。公平、特に公正とは似て非なるものだと思っています。

2015年9月19日土曜日

安保・戦争法案強行採決



    安倍政権とその与党他はたくさんの反対の声に耳を閉ざし安保・戦争法案を強行採決した。法自体が正当かどうかではなくて自分がしたかっただけ、安倍さんはこれで満足なんだろう。中身のない心に響かない空虚な話・説明。最初から国民の声を聴くつもりなんかなかっただろう“話し合い”答弁と言えないやり取り。そもそも安保・戦争法案自体に問題があるのに、進め方もひどい、大変問題。今回のことで安倍さんは確かに後世に名前を残すことになった、ただし悪い意味でだけれど。 

  世界の警官を自他ともに認めていたアメリカ軍が紛争を解決できないでいる。そこへお手伝いしますとすり寄っていく日本の“軍備”はどれくらいのところに位置しているのだろう、質 量ともにアメリカ合衆国軍より下なのは誰の目にも間違いのないことだろうけど。
  その日本の“軍備”によって解決ができるとでもいうのだろうか。戦争しませんということで、平和活動・仲介の立場のほうがよっぽど紛争解決に役立つだろうに。

  戦争は負けたほうはもちろん、勝ったほうでさえ多大の犠牲を払わせるものなのに、軍備・軍事同盟があるから安全と言い切れないというのは私でもわかる。

 今は昔の正規軍同士の正面戦争ではなく、ゲリラ テロとの戦いに代わっている。武力で本当に平和が守れるなら、アメリカ軍が今のように世界のあちこちで国内で、いつまでも戦いを終わらせることができず出口のない状態に陥っているはずはないだろうに。  

 今回の安保・戦争法案 前段の秘密保護法他は、災いを自ら招きこむばかり。これまで憲法(特に憲法9条)によって戦争しない国として知られ、安全でいられたところがあったのに今回のみっともない行為は戦後70(正確には68)培ってきたものを反故にしてしまった。

2015年9月18日金曜日

第61回新潟県母親大会 2/2 神も仏もいない


もう一つ。「こういうのもあったか」と目が覚めたのが、移動分科会のバスに同乗し解説してくれた人の収容施設の説明などの合間にチョロと口にした言葉「私は神も仏もないと思っている人間です」との発言。

私は神の存在を信じているクリスチャンだけれど、世には“無神論・無神論者”もいるのは知っています。そのどの人もそれぞれに様々に考え到達した境地だと思っています。

ところが、この人が「私は神も仏もないと思っている人間です」という境地になったのはもっとわかりやすい理由。

この人が国民学校の生徒だった戦時中、「日本は神の国だから最後は神風が吹いて絶対勝つ」と言われそう信じてきた。それなのに神風は吹かず戦争に負けてしまった。 (戦後は、万世一系 現人神と言われた天皇の人間宣言もあったし) それで「この世に神も仏もないと思うようになった」というんです。

 イメージ通りの無神論()とは趣を逸にする、皮膚感覚で到達した“神も仏もない”こういうのも有なんだなあと思いを新たにしました。

第61回新潟県母親大会 1/2 直江津捕虜収容所跡


数えて61回目となる新潟県母親大会に行ってきました。(2015.9.13.日曜 上越市) 

 母親大会 昨年のお目当ては 「放射能を浴びたX年後」 そして今年のお目当ては 直江津捕虜収容所(跡)そして上杉(謙信)親鸞ゆかりの地を巡る移動分科会。その中の特に、前々から是非一度行ってみたかった直江津捕虜収容所()訪問が目的だったのです。

ところで、移動分科会に同行してくれた人の話しぶりから上越 特に高田 直江津あたりの人たちは上杉家(謙信)や親鸞が流刑によりたどり着いた地ということを誇りに思っているんですねぇ。この郷土・郷土の偉人へのこだわりは先日の長岡の時に感じたことですが、歴史に名の残る人・歴史に名の残る人と縁があるのに時代の変化の前に今一つついていききれなかった 悲劇性というあたりが共通しているような、何となくわかるような気がします。 

上越(旧直江津)に第2次世界大戦中 捕虜収容所があったのは前から知っていました。それなのになかなか機会がなくて今まで実際に行くことはかないませんでした。ようやく今回機会に恵まれたというわけです。
 直江津捕虜収容所()は、直江津港にそそぐ関川に合流する保倉川の河口部左岸にあり、1995年に平和記念公園が造成されたのに続いて、2000年に資料館も開館し、地元の人たちによる顕彰活動が続けられています。
実際に行った収容所跡は、最初300人最終的には730人ものオーストラリア兵をはじめとする連合軍兵士が よくもまあこんなに狭いところにと思う程の狭い敷地でした。説明を聞この狭さを目の当たりにして、倉庫を転用しての劣悪な環境というのは容易に想像できます。

 思わぬ縁を感じたのが“被爆アオギリ”が植えられていたということ。映画「アオギリにたくして」のあのアオギリです。どの運動がとかどのグループがとかいうことでなく平和を願う人たちの想いはみなつながってくるのだなぁと感じました。

 

 昼から会場を移しての記念講演はせっかくここまで来たんだから聴いて帰ろうという程度の気持ちで臨んだんですがこれが儲けもの。(私は)知らない人だったし記念講演で落語! (憲法噺)という気持ちも確かにありました。
講師・八法亭みややっこさん、本業は弁護士で名前は飯田美弥子さん。私は知らなかったけれどなかなかに話題の人でした。いい意味で年齢を重ねた女性だからできる話し方と乗り。自分の生活 成長時の逸話 仕事をする中でかいまみえた世相、今の最大の関心事   戦争法案 アベノミクス 暮らし 婦人問題を聴く人が眠くならないように自分のできるやり方 落研出身だから落語でということで始めたとの事でした。約2時間、飽きさせることなく楽しませてもらいました。

2015年9月14日月曜日

10・9・16 17 参鶏湯 と 石焼ビビンバ を目の前に文化 風習 似ているところと違うとこ


二日目昼食は参鶏湯でした。暑いときにまた熱い鍋物、こちらでは暑さに負けないように汗を流しながらでも食べる物。今では年中食べることができるようになってきているとのことですが、以前は夏限定という食べ物だったそうです。

 “暑いときに熱い物?!”と思うかもしれないけれど、暑いからと言って冷たいものをたくさんとると体調を崩してしまうもの。季節 時期 旬というとらえかたと合わせて発想はおんなじですね。

 
 
彩とか食べる時に混ぜてからという食べ方、日本にもあります。ただし私の感覚としては日本の方がより淡いという印象かな。彩ではなくて色合い、混ぜるではなく合わせるという言い方のように。

 
 参鶏湯も三日目のお昼の石焼ビビンバも李さんが食べ方を教えてくれました。というか 崩してくれました。色とりどり 鮮やか それを一度ぐちゃぐちゃに崩す・混ぜ合わせてから食べる。正直な所、せっかく綺麗なのをという気もします。

 参鶏湯は一人一羽の鶏をメインに、もち米 高麗人参 松の実 クコの実 ナツメなどいろんな薬味入。見た目あっさりかなという感じだけれど、けっして薄いという感じではなくておいしくいただきました。  




 
 
 
 石焼ビビンバ、これまた鮮やかな色合い。色使い・配色は、文化 陰陽五行からきているのでしょうか。それを崩す、混ぜ合わせて食べました。
 
 
 

2015年9月11日金曜日

「長岡戦災資料館と中越メモリアル回廊を巡る旅」


雨降りという、外を見て回るにはあいにくの空模様の829日(土)に「長岡戦災資料館と中越メモリアル回廊を巡る旅」に参加してきました。支援活動で行ったほかにもたびたび個人的に行っていたところではありましたが、この度はその後に作られた資料館訪問も含めて関係者の案内 説明が聴けるということで応募したものです。たまたまタイミングよく見つけた企画でしたが幸いでした。
具体的に言うと、JR長岡駅から近いビルの一角に2005年市民有志が募金活動を行い建立された長岡戦災資料館。中越メモリアル回廊の中の小千谷震災ミュージアム・そなえ館(防災学習拠点施設) 川口きずな館 道の駅・アグリの里を回ってきたというわけです。以前行った所もありましたが、そこも含めて案内してもらい説明を受けるとまた別、深まるものだなぁと感じま
お昼は、これも震災当時 被災した人たちに そば をふるまったという逸話のある小千谷そばの名店で へぎそば を食してきました。
 

長岡戦災資料館
 ここは、長岡空襲資料収集保存(焼夷弾模型・空襲の模様・模擬原爆模型・空襲で亡くなった方々の遺影・戦時下の生活の模様他)語り部活動を行っていところ
長岡空襲を実際に体験した人の話。「82になりました…」というこの人の話(方)は実に達者。声の張りも年を感じさせない、場慣れている、話を聞くその時の相手に合わせて内容も話し方も変えられる。空襲されているときの生の話、戦争中の日常の生活、戦争前との変わり様などは見るからに立派な資料などにはかえっておさめられていないもの、数字を知っているだけでは得られない貴重な話でした。往々にしてありがちな尊大な感じはないし得難い人。
展示コーナーにあった年表は、昭和16年の第2次世界大戦からではなく盧溝橋から始まっているというところに、ただ 大変だったとか空襲された恨みの感情だけでない なぜ空襲されるようなことになったのかその前のことも知らなければいけないと考える理性を感じま

 この人の案内で模擬原爆投下地にも行きました。長岡だけでなくここから遠く離れた津川にも模擬爆弾が落とされていること、(新潟)全市民非難命令が出されたことなども知っていましたが、実際にその場に立つのは初めて。巻き込まれて亡くなった方々がどういう人たちだったのか、亡くなった方々の家族のことも含めてどんなことがあったのかをこの場所で聴くことができて、知識として知っていること以上のものを感じます

この模擬原爆投下地がたびたび訪れていた山用品のお店のすぐ近くだったというのにはびっくり。この度のような機会がなかったらこんなに近くまで来ていても行くことはなかったかもしれません。体験した人の話も聴くことができたし得難い機会でした。感謝

 

10年と8か月が過ぎた中越大震災。
震災時の記憶を留める様々な工夫とそこから得た教訓からの防災教育を目的とした小千谷震災ミュージアム。その時結ばれた縁を大切にと川口を訪れるお客様と地域の皆さんの交流 東日本大震災被災地への恩返しを目的とした川口きずな館・きずなカフェ。

特に小千谷震災ミュージアムは、中越大震災を体験した人が語り部となり、工夫を凝らした展示とともにそこから学んだ教訓を伝えてくれて得難いひと時でした。その後の取り組み、見る・聞く・体験する防災学習ということではよく工夫されていたと思います。
訪れる人たちは近郊だけにとどまらず遠方からも来ているようです。当日は、福島ナンバーのマイクロバスが止まっていました。この車でやってきたのはそろいの法被をまとった消防団の人たち。

どこの地方都市でも頭の痛い“シャッター通り” 街全体、繁華街の賑わいが戻っているのかについてはまた別の理由があるわけだけれど、この日訪問して会った人たちはみな縁・繋がりを大切に絆を強めようとしている人たち 元気でした。

2015年9月9日水曜日

来ずにいられなかった


 
 「今ここには目標を上回る2200人の人が集まっています。」

“国会10万人 全国100万人 安保法案反対集会” 830日に全国一斉に取り組まれたこの集会、私は新潟市で行われた集会に参加しました。
 

昨日から雨が降り続くあいにくのお天気。風がなかったのは幸いだったけれど結構いい降り。それでも会場は人人人。私の後からも人がどんどん集まってきます。
2200   人に囲まれてしまってあちこち動いて確かめることはできませんでしたけど、メーデーで何度も来ている西大畑公園、今日は何段にも違う熱気に包まれています。
これは、憲法をないがしろにし戦争する国に変えてしまおうという目論見に対する危機感。民主主義そのものの危機とそれを阻止する思い、普段は別々に行動している平和センターと憲法センターが力を合わせた結果がみんなを集まらせたのだと思います。
ここに集まるみんなの思いはマイクを握ったあるお母さんの「ここに来ざるを得なかった…」という言葉に集約されていると感じました。

集会後のデモ行進はとにかく長く続いて、いつもとは格段に違う人数の人たちが集まっているのを実感しました。