2015年12月31日木曜日

このたびの日韓共同声明について


何が起こっているのだろう。

今更どんなことをしても取り返しのできることではないけれど、それでも慰安婦=セクシャルスレーブとされた人々に対する償いをとして行われたと思ったこのたびの日韓協議。

共同会見で受けた印象とそのごの日本側の報告?発言は弁明弁解を聞いているよう、随分違って聞こえます。当事者が取り残されたまま、まさに日韓両政府の政治的な‟手打ち“だったの?

共同会見の場での会見を聴いて、不十分ながらも補償と謝罪はしたのかなと思っていたのにそれすら私の勘違いだったと思えてきます。共同会見の時をピークに後退してきた日本の対応・発言。反発を強める韓国世(せ)論。この世論の変化に世(よ)論も変わることが必然という感じ。

当事者が置き去りにされたまま政治的にとしか見えない今、このままで無理に決着を急がないほうがいいと思います。

14-11-7 首里城 鎖之間で さんぴん茶

  バス後ろの人が話しています「沖縄名物のさんぴん茶を飲みたい…」と。さんぴん茶? 

   

今日は今朝から国際通りそして平和通り(名前がいいねぇ)をずぅっと歩いて、ゆいバスのバス停が見つからずにバスターミナルまでまた歩いてやっとバスに乗り(おかげで市役所に県庁にみんなわかりました)、アッここにバス停があったのかと思いながら市街地を抜け小高い丘・お墓の並ぶ一角を抜け首里城下に到着。首里城でも歩いて歩いて本当に喉が渇きました。そんなでしたから首里城鎖之間で琉球時代からの銘菓をお茶うけに庭を愛でながら口にするさんぴん茶はほんとにおいしく、乾いた口も身体も生き返らせてくれました。 
 

このたびこちらに来て耳にした“さんぴん茶”はジャスミン茶のことでした。どちらが正しいのかというようなことではありません、場所によってということでしょうか。でも中国ではシャンピン茶といっているようですからそのつながりなんでしょうね。
ジャスミン茶と呼ばれるものはこれまでにも飲んだことがありましたが、どうも香りが立ちすぎている印象で、酒席などで口にすると口はすっとするけど日常に飲みたいお茶という印象ではありませんでした。
でもこの日この時のさんぴん茶は全然違いました。土瓶といってもいいほどの大きさの急須から注がれるさんぴん茶は、口もすっとするし喉から食道を伝って胃袋に到達したお茶は体中に浸透していって、ちょうどしなびかけた野菜がシャキッとなっていく時ってこんな感覚なのかなぁが実感されるような感じ。
みっともないかなぁと少し心配になりましたが、お代わりをして味わいさせてもらいました。

2015年12月29日火曜日

日韓外相会議(12・28)慰安婦=セクシャルスレーブ問題について


昨日の慰安婦=セクシャルスレーブに関する日韓の外相会談、正直なところこんなにあっけなく一つの節目を迎えるとは思っていませんでした。いまだに‟不可逆的に“という言葉が引っ掛かっていますが。
この後はもう何も言っちゃだめですよ・・・ 今検討されていることに限って言うならば、まだあり得るのかもしれませんが、それだってまた変わるかもしれないし、肝心の当事者の人たちのこと気持ちはどうなっているのかと思ってしまいます。  
下手なたとえ話はしないほうがいいのでしょうが、自動車事故の保険の区切りとして一度‟完治“とされた後でも後遺症が明らかになったときはまた別ですからねぇ。
 

まず、認め謝るのが最初と思っていました。そういうことで言うと、これまでの言動からして決して本意ではないだろうなぁと思うけどまずは公人としての首相・内閣総理大臣という立場での選択が少しはできたのかなぁとも思います。でも、特に韓国側が具体的な方策にまで一気に行かなくてもよかったのではないかなぁと正直なところ思います。
聞けばこの日に向けて相当突っ込んだやり取りがなされていたとのことですが、日韓双方‟今年中に“という言葉が急がせたのかも知れません大きくのしかかったのかもしれません。
 
昨日の事ももちろん、今後の具体的な対応・進展に注視していきます。
 
 日本大使館真ん前の少女像の撤去については、この過ちを忘れない 繰り返さない 自分への戒めのためにも残すというのが正しい選択だと思っています。
そのうえで、撤去してもいいでしょうということに(時期も)成ったら日本大使館前から韓国の人たちの手で動かしてもらえばいいと思います。
 

2015年12月28日月曜日

14-11-7 日本という独立国の上空をよその国の軍用機が飛ぶ様


アメリカ軍の軍用機が首里城の上を飛んでいます。首里城正殿の屋根両脇の龍を見てから飛行機の写っている写真のほうに目を移してください。いかに近くを飛んでいるかがよくわかると思います。世界遺産の上をというのもどうかと思いますが、何より人が大勢暮らすそのすぐ上を日常的に軍用機が飛ぶという行為が許されていいわけがありません。

昔妙高山山麓の牧場に行ったとき、谷合からいきなり戦闘機が飛び上がってきてすごくびっくりしたことがあります。オレンジルート内の空域で、谷筋から稜線を縫うように飛行訓練をしていた戦闘機でした。今目の前を飛ぶ飛行機は、大勢の人が普通に暮らしている沖縄・那覇の空をこんな危ない飛び方をしているのです。人が多く暮らす街でこんな飛行が行われているなんて良いわけありません。

またまた 態度が逆でしょ!


2015年も最後の最後にきて‟慰安婦“問題での日韓外相会議が行われることになりました。(20151228日)取り返しのできない問題が、当事者の人たちが少しでも心安らぐ形で進展・解決することを切に願います。

でもこのたびの日本側の会談に臨むにあたっての意向を見聞きすると、これは謝る側 悪いことをした側 許してもらう側の態度ではないと感じます。 夏8月の安倍首相による70年談話の歴史認識を改めて問う以前に、「いつまでも謝り続けるのはやめにしたい」という態度、悪いことをした側が言える言葉じゃないでしょと思ったものですが相変わらずの態度です。

 50年前の日韓国交正常化時にすべての責任・補償問題は解決したとする解釈も問題ありです。その時は今のように公に触れられていなかった問題なんですから取り上げられても当然のことだと思います。それを解決済のことにしようなんてここでも本末転倒の不遜な態度を感じます。

 仮に韓国政府との間に‟政治的“決着が図られたとしても韓国の人たち何より悲惨な目にあわされた当事者や、韓国以外の慰安婦=セクシャルスレーブの人たちとの対応で終わりではないことを忘れません。

2015年12月25日金曜日

14-11-7 ‟首里城”が世界遺産に成っているわけ


世界遺産としての首里城(2000年)

首里城は第
2次世界大戦により壊滅してしまい(1945年)その後再建運動が続き1992年に復帰20年記念ということで再建され国立公園となったもの。2000年には世界遺産に登録されています。





 個人的ないきさつもありこのたび行っておきたかった所の一つ。
 念願かなってくぐった守礼門 門をくぐって初めて目にした正殿。念願かなってという思い、その大きさといい色合いといい見事としか言いようのない正殿、さすが世界遺産にまでなるわけだ。と思いました。 

 ところが首里城・正殿内をいろいろ見聞きしているうちにわかったのが、この建物が世界遺産(になった)ではないということ。正直驚きました。 そして感じたのが戦争(第2次世界大戦中の1945年に破壊された)とその後の自分たちの文化・歴史を守ろうつなげようという人々の思いのこと。



世界遺産に成れたわけ

みんなが通る通路の一角がガラス張りになっていました。なぜガラス張りで覗けるようになっているのかと訊いてみました。 そしたらこの「石組みが世界遺産認定の根拠です。」との由。

考えてみればとても立派な首里城の建物だけれど戦争で破壊しつくされ最近になって再建された建物、敷地内にはまだ重機もあり工事中のところもありました。


いろいろ考えさせられる首里城行きでした。

2015年12月23日水曜日

クリスマスには奇跡が起きる


奇跡が起こりました



勤務のため、先生の手作りお菓子とお茶で茶話会の一年最後のヨガ教室に参加できないとあきらめていました。いくら曜日に関係のない職場・勤務とはいっても、年末のこの時期で土曜日はいろいろやることがあるだろうしみんな休みたいでしょうから。   

そしたら、おめでたの娘さんの検診に仕事でいけないご主人に代わって付き合うことになったので変わってもらえないか(私がその人のかわりに金曜日に出て、相手が土曜に出る)との話が。

泊まり開けの次の日、クリスマス。その日に喜んでもらえることができるなんて。それで私もヨガの茶話会に参加できるし。双方が嬉しい奇跡のプレゼントです。



ある映画で「奇跡というものは、努力した人に神様が時々架けてくれる橋のようなものだよ。」というセリフがありました。 私も何か努力していたのかなぁ。

入浴担当がなぜか3日も連続したことがありました。どんな人の時でも楽なわけではありませんが。体の動きが思うようにならなくて介助するのが大変というよりも、これから何が起こるのか不安になって入りたくないという人に清潔になり和んでもらえるようにというのがなかなか大変。それを何人もとなると、汗びっしょりになるしほんとに大変。そんなそんなわけですからまた今日もか~と思わないでもありませんでした。けど、だめだと思う人にはさせないだろうし、今年から勤め始めた私も大丈夫と認められたのかなぁと取るようにしました。

こうすること自体が本当に心からということではないという証拠かもしれませんが私なりの努力といえば努力、そこを神様は見ていてくれたのかなぁだからかなぁと感謝しています。

 やっぱりクリスマスには奇跡が起きる。

2015年12月22日火曜日

知識の形 暗黙知と形式知


日本経済新聞 2014114日 学ぶ‐磨く‐育てる のページ

 岸本義之 経営書を読む の囲み記事より 野中郁次郎ら著「知識創造企業」紹介から



「知識には 暗黙知と形式知がある」 というくだりが目に留まりました。

読み込んでみると 「西洋哲学では、一定の文法規則で作られた形式言語で表すことのできるものが知識とされている。日本では形式言語に表しにくい無形的な要素が重視されている。」 そして「 西洋的な知識は一個人によって創造されるのに対して日本では組織内の交流の中で作り上げられる傾向がある」 なるほどなぁと思いました。

形式知は明示的知識 客観的に表し理解できる知識   暗黙知は客観的に伝えにくい経験的知識 ともに働く経験を(交流)通じて形成される知識 と言い換えることもできるようです。 

このように整理解説されると博識が増すし好きだなぁ。



「欧米と日本では知識のつくり方と使い方が異なる」という記述もありましたがこれについてはそんな簡単に分類できないと思いました。イメージとしてはそうなんだけど、暗黙知についてはどちらにもと思うし、特に製造技術の形式知化では日本のほうが進んでいるところもあるんじゃないかと思っています。

2015年12月21日月曜日

小説の地の文 映画の表現


2014817日の日経新聞 サンディニッケイ読書のページの囲み記事「半歩遅れの読書術」作家の井上荒野さんによる一文 -映画と原作 映像の気配と「地の文」の表現- これが特別取り立ててここ!というものがあってのわけでもないのだけれど妙に気になっていました。しいて言うならば ~ 映画と小説を比べれば、例外はあるにせよ、小説のほうが圧倒的に情報量が多い。・・・小説の面白さというのは、本筋に無関係な登場人物、会話、サイドストーリー、あるいは文体そのものにも存在するので、映画化に際してそれらがそぎ落とされていると、どうしても「足りない」という印象になってしまう。   逆に、映画が過剰に思えることもある。小説には会話のほかに「地の文」があるわけで、その部分を映画がどう表しているかが鍵になる。地の文に書かれている情報を、すべて会話に盛り込んで説明相とするのは無理があるしリアリティも失われてしまう。人はふつうの会話で「あなたが荒野さんの夫の典夫さんですね」などとは言わないものだ。小説のテーマを登場人物が明言したりするのも白けてしまう。  もちろん原作がある映画で、素晴らしいものはたくさんある。そぎ落としたもののかわりに、映像や音楽で気配を作ったり、説明させることができるのだから。・・・~のあたりが気になっていたのだろうか。

それがここへきて平田オリザさんの著作で脚本のつくり方を読んで腑に落ちたこと。だめな映画として、映像を手段として使える映画なのに映像ではなくて出演者に言葉で説明させている作品ということがあるけれど、ちょうどつながってくることに気づいたんです。これだったんですねぇ。

2015年12月20日日曜日

ブログが止まっていた一番の言い訳は    師走とクリスマス 




12月というと日本の言い方では師走。でもみんながクリスチャンというわけでもないはずなのにこのクリスマスの盛り上がり。私の中ではクリスマスのほうが大きな存在だけれど、年末年始を前にいつもと違う神妙な気持ちで今年を振り返り新年を迎えるのもいいと思いますけどね。(師さえも走り出すという意味合いがある通り一年納の12月は忙しい時期でもありますが)

さて、このところブログの更新が滞っていました。 パソコン事情もあったし、今年縁あって務めているところのだいぶ慣れてきたとはいえ曜日に関係なくの泊り早番・遅番の勤務形態、寒さで温かい布団からなかなか出られないなんてこともありました。クリスマス行事にも参加していました。Kのグループのクリスマス会も先日終わりました。今日は(19日)ミュージックセラピー歌の花束のコンサートでした。(ミュージックセラピーの講習会かと思って行ったのは勘違い)まだまだ続く行事といよいよ本当のクリスマス。

 クリスマスには奇跡が起こる! 

今年は勤務になってしまったので参加できない一年最後の日のヨガは先生手作りのお菓子とハーブティーでの茶話会、私にとってはいいクリスマスプレゼントだったんですけどね。残念



こんな感じで忙しくしていたのでブログ更新が滞っていたともいえるけど、一番は書いていたことが沖縄ということかなぁ。進まない時なかなかまとまらない時は一時そこを飛ばせばいいようなものだけれど、単なる名所案内紀行文で済ませられないという思いがあって進みませんでした。やはりそれだけ‟沖縄“を書くということは重いんだなぁと改めて思った次第です。

2015年12月19日土曜日

14-11-6 想像する力




離れたところで起きていることを想う 離れたところにいる人を想う 今目の前で起きていることをさかのぼって確かめてみる 今目の前で起きていることがこれからどうなっていくのかを想う 

距離的に離れている 時には昔そしてこれからのことを考える 自分の立場ではなくもし相手だったら そこにいる私ではない別の人その当事者だったら。

へだたり この隔たりを埋めてくれるものは 想像力だと思います。こんなことをしたら いまミサイルが飛んでいくあそこは これをしたら 昔こんなことがあってそれからどうなった ・・・

今の安倍さんたちにはその想像力があまりにもなさすぎます。それだけでなく、すでに失敗を実証済みのことをなぜやるのか、承知でやっているのだとしたらほんとに救いようがありません。





でいろいろ考えやってみるとして、沖縄の人は違うなぁ北の人間とは違うなぁ、かなわないなぁ、この隔たりは埋められないなぁと思うのが沖縄の人たちの運動のすすめ方。

大きな問題 深刻な問題ほど運動は無理ない負担で楽しく。性格的には楽天的なほうが長続きと思います。この基地ゲート前の座り込みの人たちとの交流の時、元先生という人の歌と踊りが披露されました。こんなところで歌と踊り~!とも思ってしまいましたけど、目の前の座り込みは辺野古の新基地反対の座り込みだけれど、考えてみれば沖縄の人たちは戦後70年間ずうっと基地反対の平和運動を続けてきたんだからある意味こうでなければ続いてこなかったのかもしれないなぁと考え直しました。私も北の人間としてそれが悪いとは思っていませんけど北の人はどうも真面目真面目になってしまいますので違いを感じます。

北・寒いところの人と温かいところの人の生まれながらの違いかなぁ かなわないなぁ。この楽天性 感じ、ある意味肩の力を抜いてということなのかなぁ。だけど肝心のところは決して譲らない、そこは同じつもり。取り組み方進め方は多少違うけどこっちでも継続してますよ。

2015年12月7日月曜日

12-6-1 気温で10度も離れているところでの想い


気温で10度も違うということは地理的にそれだけ離れているということ。(2014年11月)

2012年初めて沖縄に行ったとき、戦後生まれのまだ若い地元の人と話すことができました。後で思えばなんと無謀なことをと思いますが、その人と基地問題のことで話したのです。これまで自分が基地反対の運動に多少なりともかかわってきたことが正しかったと感じたい思いがあったのかもしれません。ところがその人が「生まれた時から普通に基地があったから…  」といったのです。もちろんこの人も戦争をいいことなんて思っていません、本当は基地がない沖縄のほうがいいとも言っていました。もちろん沖縄の人が100%セント基地反対で一つになっているなんて単純には思っていません。内心・本当は反対でも様々な事情で‟反対”を表明しない・できない人もいるでしょう。簡単に割り切れるものじゃないですよね。恐ろしいことだと思うけど、中には基地も戦争も推進している人だっているわけだし。

気づいたんです。私なんかにすればそれだって決して楽なことじゃないんですけど、気温で10度も違うほどに遠く離れたところで‟戦争反対 基地反対“と口にしている困難さに比べれば地元の人の困難さはそんなもんじゃないということ。基地がある景色しか知らずに育ち生活している中、限定的ではあるけれど返還された基地跡の再開発で街が大きく変わったのを知っていても、景色を変えてしまうほどの行動というのは並大抵のことではないということ。

ところで、東京をはじめとする大都会から遠く離れた地方の原発がある町の若者があるインタビューに答えて「ここにはほんとに何にもなかった」「原発があるのが生まれてから普通の景色だった」というのと同じだったのにはびっくりしました。
付け加えて、原発を持ち込もうとする人がずっと言ってきた「原発ができれば仕事もできるし生活が豊かになる」この原発を基地と置き換えると沖縄でずっと言われてきたことになるのも単なる偶然とは言えない作為を感じます。でもこれが間違いだということは原発があるところを見ても、何より日本で一番基地がある沖縄がいまだ日本で一番豊かな県になっていない事実を見てもすぐわかることです。
地元の人の思い 遠く離れた地の人の思い。遠く離れているから口にできる場合もあるならなおの事地元・当事者の口が重い時は声をあげ共同していきたい。(アムネスティの考えはこういうことなんでしょうね)地元・当事者と全く同じではないことに気づきもしましたが、この”10度“の差は差としてともに歩んでいきたいと改めて思っています。

2015年12月5日土曜日

14-11-5 沖縄の空気・気温差




一度目の時は6月、ちょうど梅雨の時期。そのせいなのか自動ドアが開き空港の建物を出たとたん日差しとも相まってむっと来る感じ。こちらではどう言うのでしょうか、梅雨の時期だからただ雨それともスコール? バスの待つ駐車場のわきのほうはまだ濡れていました。


 二度目は11月。なのに、さすがに身体をくるまれるようなむっと来るような暑さではありませんが気温は278度。27度というと新潟の夏・7月末、私の住む海沿いは梅雨明けの日差しと湿気が一緒になって一番暑さの堪える頃の気温。 沖縄もさすがに肌に突き刺さってくる痛い日差しではないけれど新潟の11月は20度に行きませんからねぇ。そう10度も違うんです。

 帰ってからが怖い怖い

2015年12月3日木曜日

14-11-5 那覇空港の空域規制




ポンッという耳につく音とともにシートベルト着用を促すサインが点灯しました。

いよいよ那覇空港への着陸態勢に入りました。それにしてもスーッと行ってガクンと下がるこの様、今回で2度目だけれどやっぱり不自然。

一度目の時は、これが話に聞いていたアメリカによる空域規制かと強く思ったものです。

空は広く海も広いけれど好き勝手に飛んでもいいわけではなくて空路だったり海路があるということは知っています。でもこの不自然な飛び方は日本の国民が技術的に決めたものではなく、アメリカ(合衆国)によって一方的に空を奪われた結果。

日本の空なのにどこをどう飛んでもいいとよその国に許可されて初めて飛べる現実。2度目だけれどやっぱりなれません、不自然。この不自然さ、決して慣れてはいけないことだと思います。那覇空港へ向かう飛行機のこのぎこちなさ、感じるたびに思いだしましょう。