2014年8月17日の日経新聞 サンディニッケイ読書のページの囲み記事「半歩遅れの読書術」作家の井上荒野さんによる一文 -映画と原作 映像の気配と「地の文」の表現- これが特別取り立ててここ!というものがあってのわけでもないのだけれど妙に気になっていました。しいて言うならば ~ 映画と小説を比べれば、例外はあるにせよ、小説のほうが圧倒的に情報量が多い。・・・小説の面白さというのは、本筋に無関係な登場人物、会話、サイドストーリー、あるいは文体そのものにも存在するので、映画化に際してそれらがそぎ落とされていると、どうしても「足りない」という印象になってしまう。 逆に、映画が過剰に思えることもある。小説には会話のほかに「地の文」があるわけで、その部分を映画がどう表しているかが鍵になる。地の文に書かれている情報を、すべて会話に盛り込んで説明相とするのは無理があるしリアリティも失われてしまう。人はふつうの会話で「あなたが荒野さんの夫の典夫さんですね」などとは言わないものだ。小説のテーマを登場人物が明言したりするのも白けてしまう。 もちろん原作がある映画で、素晴らしいものはたくさんある。そぎ落としたもののかわりに、映像や音楽で気配を作ったり、説明させることができるのだから。・・・~のあたりが気になっていたのだろうか。
それがここへきて平田オリザさんの著作で脚本のつくり方を読んで腑に落ちたこと。だめな映画として、映像を手段として使える映画なのに映像ではなくて出演者に言葉で説明させている作品ということがあるけれど、ちょうどつながってくることに気づいたんです。これだったんですねぇ。
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