2010年8月31日火曜日

今咲く桜は今年の桜


 母が入院しました。

 85歳の誕生日、日曜日でもあったので一緒に甘いものを食べコーヒーを飲んだりして一時を過ごしました。
そのとき。本人は大丈夫と言うもののどうにも息が苦しそうだったので、医務室の看護師に様子を見てもらったところ、幸い酸素濃度も低下していなかったし程なく息苦しさも収まりホッとしたのですが、翌月曜日、施設の方で大事を取って協力医療機関を受診したところ入院となったのです。

 前々から、やせたなぁ 顔も身体もやせて小さくなってしまったなぁ と寂しさを感じていました。でも今回入院して、身体にぴったりのあっさりした色合いの病衣を身にまとった顔を見て、以前に撮った写真との変わりように愕然としてしまいました。

 担当医師から、今回の入院は一週間から十日の予定だけれど、年齢や身体の状態のこともあり積極的な治療は選択肢にないこと、症状が治まったら退院、また症状が出たら入院の繰り返しとの説明を受けました。
 “門前の小僧習わぬ経を読む”のように、仕事柄これまで見てきたケースといくらかの知識で、検査データや医師による説明から予後が見えてしまいました。
 これからは毎日毎日が、一つ一つの事柄に来年があるかどうかわからない、と心して大切にしなければと思いました。
 いつと宣言されたわけではないけれど、遠いことでもないんだなぁと考えたしだいです。

2010年8月26日木曜日

1-10-5 サイデアフラハ


 門の内側は打って変わって静かで明るい雰囲気。
ここ(サイデアフラハ)は1992年にスラムの子ども達のために作られた保育所から始まったところ。設立後、だんだんと子ども達の成長と歩調をあわせるように、養護施設、職業訓練施設と規模が大きくなってきたそうです。(職業訓練、男子は溶接、女子は手工芸。)そのほかサイデアフラハで直接対応するのではなく、6歳から始まる8・4制の義務教育を受けるため、その後の高校や職業訓練校に進むための支援もしているということでした。資金的な制限から全員にはできないということでしたが。


 全体の敷地はけっこう広く感じました。
傾斜もあるし背の高い草も生え凸凹もあるので、走ったりするグラウンドとしてはだめだと思うけど、ちょうど良い日陰を作ってくれランドマークにもなる木の立っている良い感じの広場。支援施設になるのか宿舎棟、シャワーやトイレのある棟。管理棟。“かまど”と炭やトウモロコシなどの食材倉庫、食堂や会議に使える大きい部屋のある建物。この建物と宿舎棟の間にもう一つ、大きめの“かまど”と、大きい水タンクもあったので水道なのかどうなのかわからないけど、蛇口のある炊事場のスペース。それから、ちょうどM殊川さんという日本の人が研修を受けに来ていましたがそうゆう人用の宿舎棟。
先程のよりは小さい広場になりますが、遊具が設置されているスぺースもありました。「こちらでは、遊具のある保育園は珍しいんですよ。」という話しでした。

2010年8月25日水曜日

1-10-6.2 サイデアフラハのメンバー


 現在サイデアフラハの日常の維持・運営には8名の正式なスタッフ、その他お手伝いで6名の人がかかわっているそうです。そして、その中の荒川さんとピーター・カルリ  デニス・コーデさんが中心となっているそうです。
 もちろん荒川さんなくしては始まらなかったサイデアフラハだとは思いますが、対行政・対地元との関係、大切な子どもを預からせてもらえるようになるには、施設代表としての責任者を引き受けてくれたこの人たちがいなかったら今日のこの日はなかったと思います。

1-10-6 サバンナクラブ


 建物をみて回っている時あちこちで “サバンナクラブ”と日本人の名前のプレートが目に付きました。
 カルリさんコーデさんとともにこのサイデアフラハを立ち上げた荒川さんに聞いたところ、このサバンナクラブというのは日本の東アフリカ支援グループだそうです。
 始まりは、日航の小倉寛太郎(山崎豊子さんの小説「沈まぬ太陽」のモデルになった人)さんが“ケニアに飛ばされた”がゆえに誕生し続いてきた支援クラブ・活動でした。
まさに、聖書の“一粒の種が死んで大きな実をつける”という話そのものの事がここで起きていたのです。
 何枚もあったプレートの中には個人名だけでなく「日航労組」のものもあったことを付け加えておきます。

2010年8月15日日曜日

1-10-4 サイデアフラハ目指して




 今日はまず、ナイロビ郊外のキテンゲラという町にあるNGOの孤児院サイディアフラハ(スワヒリ語で“幸せのお手伝い”という意味)へ向かう。

 車は猛烈な勢いで坂道を登っていく。
峠を通って、一山越して街へ入ってきた。
 周りに目をやれば、道路には身を進めるスペースを求めてマタトゥがひしめき。両側にもマタトゥが幾重にも止まっている。
 道の山側の方は、今車が走っている道と、崖を掘り崩しただけのようなでも結構深い側溝を間に挟んで、これも売り物!?修理しないで走るの?という感じの車が並べられ。その後方には露天に近いような店が軒を連ねひしめき合っている。
 まだここ数年のようだが、製造から8年以上たった中古車の輸入ができなくなったとはいえ、新車の関税が100%ということもあるのか、新車も走っているけど古い車の方が多く感じられる。人が引く荷車も並んで客・仕事を待っている。
 雑貨や果物などの食べ物を売っているお店、なにを売っているのか走る車からではパッとわからないたくさんのお店、その仲で私の目を引いたのは家具屋さん。
すごく立派な一人がけのイスとか二段ベットの骨組みみたいなのが道にまで並べられている。
とにかくすごい雑踏。ある意味力強ささえ感じるほどのこの混雑振り。
 振り返って、谷川の方は店の前がより広いのか、舗装はされていないけど大型トラックも多数止まっている。
 車は右へ曲がった。
店と人の間を縫って、細い道を下っていく。
 店が切れた。
どうやら到着したようだ。

結界!? 生活範囲


ムガネさんに乗せていてもらって感じたんだけれど、どうも移動というと、坂を下りては上って上っては下りてという感じなので、ナイロビ中心部は盆地のような感じなんだろうか。(庶民の貴重な足“マタトゥ”はナイロビ中心部には乗り入れが禁止されているとのこと。)
そして、山・丘・地区・道路事に、良くも悪くも地域が社会的にグループ化されているのかもしれない。人々の生活範囲もけっこう決まっていて、あまり広範囲には動かないのかもしれない。いろんな理由があるのだろうが、場違いなところにはそもそも行かないのかもしれない。

歴史のある都市の“旧市街”というのはイメージよりも実際は思いのほか狭いのが常だから、最初に聞いたとき意外な感じがした、キベラ自体もここから歩いていける“近さ”(20分も歩けば着くみたい)というのもおかしくないのかもしれない。
川や橋、山やトンネル、時には道一本で、空気も街並みもがらっと変わってしまうから、櫛やギヤのようにくい込み合うでも、にじみのようにいつの間にか、ということでもなくこの場合も同様の“結界”があるとは思うけれど。

2010年8月8日日曜日

すべてゆだねれば…とわかっているのに 昔の人は偉かった


朝日に向かって出勤し
夕日に向かって帰宅する
 異動前も、角度こそ違うけれど太陽の方に向かっての出勤と帰宅でした。ただ帰宅の方は毎日遅いことの方が多かったので、夕日がまぶしくて運転がしづらいということはあまりありませんでした。でも今は毎日がまぶしいまぶしい。この毎日の真夏日というのもあるのかもしれないけど。

 8月1日(日)アフリカン・ドラム&ダンス グループの出番があったんだけど、前日から調子が悪く参加できなかった。
出られない旨やっとメールしたら「ゆっくりお休みください」との返信。
本当にそう案じてくれたんだと思うし深い意味はないと思うけど、月が月なので、「安らかにお休みください。過ちは繰り返しませんから。」の碑文を思い浮かべてしまった。

 今の私からすれば、昔の人…なんてもんじゃなくて、何百年も昔の人といった方が良いくらいの感じでいるけど「三十にして立つ」なんて昔の人はほんとに偉かったなぁと心底思う。私なんてこの年になってもまだこんなだもの。
 小さな事を思い煩う事なく、すべてを神にゆだねればそれですべてすむこととわかっているのに。
でも、神様はこの“思い煩うことさえも私に与えてくれている”と大きな恵みを感じてもいるんですよね。生きていることの証でもあるから。

1-10-2 朝9時 でもムガネさんが来ない  マタトゥ


 9時。出発予定時間なのにまだムガネさんの車が来ない。
ムガネさんはベテランのドライバーで、今までこんな事はなかったのにとNガイド。
やっと携帯に連絡がとれた。いつになくひどい渋滞に巻き込まれているとのこと。
 実は昨日までのマタトゥ(乗り合いタクシー)の全国的なストライキ明けと、新年の休みで地方に帰っていた人達の戻ってくるのと企業や学校の始まりなどがいろいろ重なって混乱・渋滞がひどくなっているようです。
 街を見ているとこちらの人はよく歩いてる。時間があるのかお金を倹約しているのか。マッ、日本も昔はよく歩きましたけどね。今だったらすぐバスなりタクシーなりに乗った距離でも。私が初めてバスに乗った時は小人5円大人10円。今大人は200円。もちろん価値が変わっているけど、高くなった今の方がかえって乗り物に乗ってますよね。社会全体がそうゆうふうに変わったんでしょうね。今のケニアはそんな昔の日本みたいな感じなんでしょうか。
 でもそんなケニアでまず庶民が利用する乗り物といえば“マタトゥ”。地方に行くとオートバイに人を乗せる2輪タクシーもありましたが、ナイロビではタクシーもあるし路線バスも3社が営業していました。でも台数も便利なのもそして人気もマタトゥが一番。
 車両、以前は日本でいえばハイエースのクラスのワンボックスカーがメインのようでしたが、2004年からの規制でそれよりも大型の日本で言えばマイクロバスクラスが多くなってきている模様(車両は最初からバスのボディーの物、トラックの車台に乗用のボックスを載せたもの、と様々)。何台も所有している親方から、車を借りて走らせている人、一人親方のマタトゥ、とさまざま。
運転なんかはけっこう荒っぽい。車間が開いていようものならさっと頭を突っ込むのはこのての車が多いのだろうか。発進加速も元気が良い。
で、安全対策の一つなのか、この運転マナーへの指導(服装に至るまでけっこう細かい指導がある模様)や、車両基準がみなをされたわけです。
 一台あたりの効率化、車両台数の減車という狙いもあったようですが。特に乗車人数の少ないものは目印というか色柄も指定が細かかったようで。愛好者によれば、個性が無くなったと惜しむ人もいたようです。でもそんなことには負けていられませんと、最近は少し車のサイズを大きくして(小型よりも規制が緩やかなようで)また個性的に飾り立てる車両も出てきたようです。

1-10-1 ジャシーの食堂で朝食


 窓越しにWさーんと呼ばれる。とうに起きていたし、食事までは後どれくらいと思っていたくらいなのですぐに、一度建物の外に出て女子寮側にある食堂に向かう。
“女子寮の”というところで気を遣っていたんです。

 二人はもうパンをトーストしていました。
感じの良い食堂は、4人がけのテーブルとそれより大きいテーブル。
食事は、昨夜とうってかわってコンチネンタルスタイルの朝食。
 マグカップにたっぷりのチャイ、フルーツの盛り合わせ、トースト+マーガリンとジャム。
トーストするパンは、普段食べている食パンより少し小さいサイズ。形はほぼ正方形。そこにマーガリンとジャムをぬって食べたわけだけど、このマーガリンだけでなくジャムもぬるというところがミソかもしれない。これだけで腹持ちがずいぶん違った。
 フルーツ盛り合わせは、カットされたバナナ、日本と同じようにドーナツ状にスライスされた缶詰でない生のパイナップル。このパイナップル、見た目は日本で食べるのと同じなんだけど、完熟状態なのかけっこう強い甘み。
違っていたのはマンゴー。
日本だともっと大きくてそれも熟したものを食べるし、そうやって食べるものだとばかり思っていた。
けれどここのは、サイズも小さくてそうだなぁビワをほんの少し大きくしたくらいの大きさの、まだ青くて皮も厚い物。
口にするとジュワーッと唾液が出てくる。
甘みもあるんだけど、甘酸っぱいという感じ。
これも隣国タンザニアから輸入している物、とのこと。

1-9-15 レクチャー


 Nガイドから、ケニアの大まかな説明、明日の予定、フライングドクター保険のおすすめ、エナイボルク村の学校運営資金のための絵はがき紹介等を受ける。
 まずケニアについて
正式名はケニア共和国。1963年にイギリスから独立。国土の面積は日本の約1.6倍。
人口は3,500万(その後の国勢調査を受けてか、4,000万という話しもあり)。
国民は42の氏族からなっている。一番多いのはキクユ族で農耕を生業としている。
マサイ族は牧畜民族になる。ルオ族だけ割礼をしない…
 明日の朝食は8時から。この部屋とは別の、食堂で。コンチネンタルスタイル。
その後9時出発で、午前はナイロビ近郊の町にあるサイデアフラハ(お昼もここ)午後はニューライフホーム訪問。
 フライングドクター保険。
マサイマラに行った時、もし けが や病気になり緊急に病院に行かなければならなくなった場合飛行機を使うことになるが、自費では2,000ドルかかるので入っておくことをおすすめします、と。加入することとした。30ドル
 学校運営資金のための物資販売。絵はがきセット。300ケニアシリング。

2010年8月4日水曜日

ショッピングセンター ウチミ


 今回最初にお世話になったじゃシーからも、最後に泊まったンゴング・ヒルズ・ホテルからも近く、一番利用させてもらったお店が“ウチミ”というショッピングセンターでした。
この名前、Nガイドに聞いたら“我らの国を創ろう”という意味だそうです。
 今回のツアーでは、こういうショッピングセンター形式の所は4カ所寄りましたが、立地によって駐車場の車も店内の様子もお客の服装などずいぶん違いがありました。ウチミはちょうど中間だったかな。
 ウチミ。スーツ姿の人も散見されるけど、多くを占めるのは近所に住んでいて食料や日用雑貨品を買いに来たという感じの普段着の人が多かったかな。
 駐車場の車は特段の高級車も止まっていなくて、洗車もされていない様子でした。
駐車場から店内に通じる通路には、シートを広げて小物を売る人達もいました。
 待ち合わせの場所と時間を決めて散会。
店舗の照明は少し暗め。品揃えは、食品類、日曜雑貨類がけっこう充実。そのほか、本や文具類。アルコールや化粧品。衣類や家電製品、薬局やパン屋、CDを含めてミュージックショップ等の専門店。DIY用品から車まで多岐にわたっていました。
 この日はビールやCD(一枚1,500ケニアシリング)を買いました。(後日、マサイの村に泊まったとき山羊の焼き肉に使った塩がすごく美味しかったので、おみやげにその塩や雑貨類をここで買わせてもらいました。)

今日は日本で始めて行われた住民投票の日です。


 今日8月4日は1995年に日本で始めて行われた住民投票の日です。

 1990年に親戚もいないこちらに越してきて、熱烈に支持する政党があるわけでもなかった私が、来てみて始めてわかった原発建設計画。それをめぐっての町長選、議員選。町長リコール、そして住民投票。
 子供の未来のことを考えて私も必死でした。あの運動の広がりは、お父さん達ももちろんがんばったけど、これまで運動に縁のなかった女性、家にいるお母さんたちが口を開き運動にかかわりだしたからでした。
 あの年も暑い夏でした、一軒一軒署名をもらうために歩いて回った時の汗を今でも忘れません。

2010年8月1日日曜日

クラスター爆弾禁止条約発効を歓迎します。


 実はいろいろ思い悩むことがあって昨日から食欲もなく寝てばかりいました。例年になく熱中症で亡くなる人も多く、実際この家も相当に暑いので水分だけは取るように気をつけてはいました。
でも今日のこの日になんとしても意思表示しておきたくて少し前から起きだして今こうしています。
 書物に残る残らないは別として、この瞬間瞬間に世界の人口以上の歴史が誕生していますが、その中でもこの2010年8月1日は人類の平和に向けての一歩が踏み出された日として間違いなく残ることと思います。それは「クラスター爆弾禁止条約」が発効した日として。
 2008年5月の条約採択後批准国が30カ国を超えた日から半年たち発行のこの日を迎えたのです。いまだアメリカや中国といった国々が未締約国として残っているなどもろてを、挙げてというところまではいっていませんが、平和を望む人類の英知が残虐兵器の一つに打ち勝ちつつあることは確かなのですから。

1-9-14 明日はわが身 失業率40%の社会


今ケニアでは失業率が約40%にも達しているとのデータがあります。
貨幣経済の浸透その他による社会変化、環境整備・技術進歩が追いつかないままに、干ばつなどの自然環境の困難さなどからくる農村の荒廃も相まって人口の都市部への集中も進んでいます。
都市部ではその人口・労働力を吸収・活用する産業基盤が追いついていないので結果としてスラムの肥大化を招いています。

どこを通っていたときのことだったか、普通なら仕事をしている時間帯に大勢人が集まっている、何でも手作りで作り出している、日本では見ないような大型のトラックがあるかと思えば、古い車や日本のリヤカーをもっと大きくしたもので客待ちをしている人なんかでごった返している、見方によってはたくましいとも言える感じのところがありました。
Nガイドに「どうやって生活しているんですか」と聞いてみました。
親兄弟はもちろんもっと遠い親戚でも隣近所の知り合いという間柄でも、仕事に就いているあるいは臨時でも良いから収入のある人の所にみんなが集まり食べさせてもらったり食べさせたりしているんだそうです。
この状況の中いつ自分も仕事を失うかわからない、明日は我が身かもしれないのでごく自然にそうしているとのこと。
社会制度としては十分な制度がなく、年金などは公務員にあるだけとのことでしたが、私が思うには、食事も住環境も私たちがイメージするようなレベルではないけれど、家族や地域がまだ互助の力を持ち得ていると思いました。もちろんずうっとこのままでいいわけではありませんが。

余談ですがジャシーはもちろん、今回訪問したところはほとんど門が有り門番というかガードマンがいました。個人なのか会社組織なのかはさまざまあるようですが。家事を仕事とする人もいました。
それもこうゆう状況だから、仕事を探している人も大勢いるし雇いやすいのかもしれませんね。いろんな意味で。
ジャシーで家事を受け持っていた女性は、日本食が作れるということで同じ業種の人よりも給料が良いということでした。