2011年1月30日日曜日

1-13-17 生死のかかった生活

 私たちを乗せた車は、丘をグングン登ります。


 道の先、イボイノシシの家族が横断しています。

 そのうちの一頭がびっこを引いています。

 Nガイドも気づいたのでしょう一言「あのイボイノシシは、今夜のうちにやられるでしょうね!」と。

 「うわー、こんなところにもイボイノシシがいる!」なんて感激している場合ではないんです。

生死がかかった生活がここにあるんです。

1-13-18 セレナロッジ到着

 道は、左右に分かれる分岐点にさしかかりました。


 左へ登っていくとこの団体の本部がある道。

 私たちは、右へ進みゲートを通過。ロータリー式のロッジ車寄せに到着。

1-13-16 プライベート飛行場

 車は、なだらかではあるけれど山と言ってもいいほど大きな“丘”に進路を取りました。


 向かう途中、別の丘に飛行機が飛んできて着陸しました。

 大きなロッジでは、車での移動時間をカットしたい人用に自前の飛行場を持っているのだそうです。

 Nガイドも「急ぐときは飛行機を利用します」と言っていました。

 まあ“それも有り”と納得させる広がりではありますよね。

1-13-15 セレナロッジ

 今日のお昼はマラ・コンサーバシーのセレナ・ロッジです。




 このマラ・コンサーバシーは、イギリス系の民間団体とのこと。

 公園の管理と、本来ならここにすみ生活の糧をそこから得ていたであろうマサイの人たちへの支援を行っている、しっかりとした組織とのことでした。

1-13-14 ここだけはわかりました

 ムガネさんが、何の迷いもなく順調に車を走らせ、たくさんの絶景地点を回るもんだから、だんだんどこをどう走っているのかわからなくなってきました。


 それでも、ライオンの家族が昼寝していた水場とマラ・コンサーバーシーの方向を示す看板の所を2度通ったのはわかりました。
 
 


 

2011年1月29日土曜日

塞翁が馬


                    人間万事 塞翁が馬


人類の歴史 地球の歴史に比べれば アッ とゆう間にもならないほどの私の生きてきた時間。
でも私自身にとっては長い長い時間。
「どうしてこんなことが」「なぜなんですか」「なぜ私なんでしょうか」と思うことが幾度もありました。
「きっと意味があるはずだ」「いつか意味が解き明かされるはずだ」と信じながら。
その時がいつかはわからないけれど、必ず来ると信じて。
そのさなかに意味がわかったらどれほど安らぐだろうと願いながら。
そんな時この言葉を思い浮かべていました。
実際後になり「こういうことだったのか・・・」と感謝することも多々ありました。
人間の知恵では計り知れない神の業が確実に存在すると確信しています。

2011年1月25日火曜日

1-13-13 ワイヤーロープは必需品

 ここを走るドライバーは皆ベテランなんだろうが、それでもぬかるみにはまってしまうこともあります。


 そうゆう時、それはそれ、例の車載無線で助けを求めると他のサファリカーが救出に向かうとゆうわけです。

 明日は我が身。この場合は“次はこの車”かもしれない、と。

牽引のワイヤーロープは必需品ですね。

2011年1月23日日曜日

1-13-12 カバの上陸地点

 マラ川の川辺、カバやワニの見られるポイント。ここだけは下車が許されていました。


 雨の影響で川の水は赤茶色。

 流れる水の勢いも結構強そうだったけど、カバはその流れの中で群をなしていました。

 「あんまり遠くへ行かないで!」と声をかけられてしまったけど、このポイントに隣接して、夜になるとここから登ってくるんだなとゆう場所を2カ所見つけました。


 この川筋を走行しているときだけ「カバですね」とゆう声を耳にしました。

1-13-11  我関せず

    
 動物たちは、こうして車に乗っている分には私たちのことなんかぜんぜん気づいていないかのごとくに振る舞っています。生き抜くために四方を注視していないわけはありませんので、たとえば車からでたりとゆう別の動きをすれば 脱兎 のごとくなんだろうけど。

 でも今は、“我関せず”で、草を 食み 昼寝をしています。 

1-13-10  いつの間にかサファリカーが集まって

 おもしろいなぁと感じたのは。
こんなに広いし、(種類を言わなければ)動物もあちこちで見られるのに、たとえば「ライオンがいるぞ。それも一頭は木に登ってる!」とか「サイがいるぞ!」となると、“例の無線”を介してだとは思いますが、その情報が瞬く間に伝わってサファリカーが集まってくる、とゆうところ。

 こんなに場所があるのにねぇ。不思議な感じ。
 

1-13-9  

 エンジンを止めると急に静かになる。


 ムガネさんのおかげでたくさんの動物を目にしたけど、その動物たちの動き回る物音はもちろん、遠吠えさえもぜんぜん聞こえてこない。

 音が吸い込まれて行って物音がしないとゆう状態(そうゆうときは耳が吸い込まれていくとゆうか音を求めてキーンとなって痛くなりますよね)、言い方があるけど、今の状態は広くて(密度が低くて)音が拡散してしまって、こちらの耳まで届かないとゆう事かな。

 でもこちらが聞き取れないとゆうだけであって、音がないわけではないからなのか耳が痛くなるようなことは全くありません。気候のせいか耳も体全体も柔らかく包まれている感じがします。

1-13-8 日本と違う山と平地の境目

 ずっと向こうに見える地溝帯の始まりに位置する大きな山(?)。

 幾重にも峰が重なっていて奥にいくほど高くなっていくとゆう見慣れた景色とは全然違う。

 ずーと平らなところが続いていて見通しがよくて、それが突然崖のように切り立って山が立ち上がっている。




 遮るものがなくて、手が届きそうで、すぐそこにあるように感じるけど、実際のところはそこを下って来るときも、下ってからここに来るまでも車を飛ばしても何時間もかかる距離があったんだし。崖、山もそびえ立つ高さだったんだけど。

 あーッ ほんとに大きさとか距離間がおかしくなっている!!

1-13-7  サバンナの景色  向こ~の方に… 

 草原の向こ~の方に、木がポツンと立っているのが見える。


 そうは言っても決して低木・小木ではない。

 ただ周りの広さが全然違う上に視線を遮るものがなんにもなくて、本当は結構な大木なんだろうその木のところまでずうっと見渡せる、近くに比較対照がなくてそう見えてしまうとゆうことなのです。

 こうゆう景色もサバンナ特有のもののようですね。

1-13-6 こうも違うのか!  

広い。


 ケニアッタ国際空港を出たとたんの道路の時にも、日本とは、その距離感とゆうか、奥行きにも高さにも「こうも違うのか!!」と感じたが。

 本当に広い。

べンダ・ビリリ 2011一本目の映画

2011年の映画は、「ベンダ・ビリリ」から始まりです。


 この映画、非常に"タフ”な映画でしたね。(制作にかかわった人も、登場した人たちコンゴ民主共和国の人たち、そして出来上がった作品も。)

 同じ肌の色の人たちの中・国だから、肌の色の違いによる差別・困難は(肌の色の違う国に放り込まれたことを思えば)心配するほど無いのかもしれないけど、身体に持っている不自由・障害での差別、そして困難はしっかりあるでしょうね。

 ただし、そのような困難の中でもこれまで生き抜いてきている。ただ施してもらうのではなく、歌・音楽を披露してその対価としてなにがしかのものをもらう。神じゃないんだから、100%問題なしではないだろうけど、その過程で仲間を裏切ったりより弱い人間を攻撃したり切り捨てたりしない。

 それでどうやって生きてるの、と想像を越える毎日なんだろうけどたくましく生き抜いている。その困難を、音楽で、歌で笑い(この場合は歌い)跳ばしている。それどころか、題材にしている。タフだなぁ。と感じます。

 途中で「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」を思い出しました。「あんまり苦しくて、歌を歌うこともできなかった」と話すところを。
 苦しさを紛らわすために歌った、歌しかなかった、と聴くことがあった中で“歌も歌えないほど苦しい生活”と話すのを聴いたのが忘れられないのです。
 “絵のような(現実ではありえないような)美しさ”の上に“絵にも描けない美しさ”があるように、歌でたとえるとこうゆう言い方もあるんだな、と気づかされて。

 メンバーの子供達が「CDが売れればお金も財産もはいる・・・」と言うところは、(仕方ないと理解しつつも)お金・財産を手に入れ物を持つと失うものがある、持つこと=幸せ とは限らないんだけどなぁ、と思いながら聴いていました。

 ところで。昨年はコンゴの伝統音楽のCDが再発されたり、べスト版フランコ・フォニックがでたり、そしてこれでしょ。何かコンゴの節目の年だったんでしょうか。それとも偶然?

 映画パンフに乗っていた、ベンダ・ビリリの来日公演 残念なことをしました。
京劇もそれが観劇の動機になったんだけど、現地まで行くことを思えばすごいチャンスだったんですけどね!
 ギニア国立舞踊団 来日しないかなぁ。

アメリカ合衆国と武装解除

 またまたアメリカ合衆国で銃による事件が起きてしまった。日本で報道されない銃による事件・事故と合わせるとどれくらいの数字になるのか、想っただけでも怖くなります。


 アメリカ合衆国は、紛争地においては武装解除をする側なのに、自国においてはライフル協会などの圧力団体が強力だとはいえ未だ一般の人でも銃の購入・所持ができます。(不十分とはいえ、身分確認が必要になるなどの変化はあります。)

 武器をなくすことが問題解決、紛争抑止につながるのは明らかです。
核兵器はもちろん、大型ミサイルなどの威力は計り知れないといえ、使いやすさでゆうと"小火器”の方が。
 実際に使われる残虐兵器とゆうことでは絶対なくさなければいけません。

2011年1月22日土曜日

後悔先に立たず   改悛の思い

ようやく送ることができました。


 お正月前から、昨年のケニアスタディツアーの時の録音を編集していました。

 ブログ挿入のため写真を見る度にいろいろ思い出します。そんなこともあり、聴きなおしてみよう音も入れてみようかと前々から想ってはいました。今回ツアーに一緒に行った人の誕生日を目前にして、これをいいきっかけにCDに編集し直したわけです。


 その最中の1月8日、荒れ模様の土曜の夕方、西アフリカの伝統的な音楽とダンスを楽しんでいる仲間 JUNJUNフレンズの新年会が有りました。

 初めて同席する人も、話をするなかでみんなどこかでなにがしかの縁があったのには少しびっくり。
 よく“同じ釜の飯を食た者同士”とゆう言い方をしますが、当夜一緒に食事して確かに関係がぐっと近くなりました。

 子供連れ、家族で参加がふた家族。
この春中1の男の子、6歳の女の子が二人、4歳の男の子が一人。
 すっかり男らしくなったお兄ちゃん、元気のいい同い年の女の子、二人でいるのが楽しくて仕方のないお姉ちゃん達に何とかついていこうと必死のまだまだ幼児体型の男の子。かわいい。

 で、はしゃぐ(すぎ!?)子たちと、その子たちに接する親の様子を見ていて、「私はこんな感じじゃなかったなぁ」と少し"うずき”が。

 私の時。
その後別々に暮らす子どもと、“一緒に一緒”にと、いろんな所に出かけました。
今思うと無理してでも。

 でも、私自身の、好きなこと関わっていること、やっていることを見せていませんでした。反面教師にさえなっていなかったと思います。

 だから今、“私には!”やりたいことを掴み取っていないと見えるのではないか、と改悛の思いでいるのです。

2011年1月12日水曜日

1-13-5 雨上がりの保護区は、風も穏やか日差しも柔らか

  保護区内、車外に降り立つことができるのは許可された場所だけ。


 それでもベテランのムガネさんは、スピードを落としてゆっくりと、時には車を止めてよく見せてくれました。

 路肩に車を止めてエンジンも止めると、身体を柔らかな、空気・匂い・音・日差しが包みこみ、私の中にある生命の力を呼びだしてくれる感覚を感じました。
 雨上がりの保護区は、風も穏やか日差しも柔らか、すごしやすい天候。
 でも。今日もやけそう。

2011年1月10日月曜日

1-13-4 ついにサファリカーの屋根があく

 ついにサファリカーの屋根があいた。


 用を足している間に、ムガネさんがサファリカーの屋根を上げていてくれました。

 サンルーフなんてもんじゃない。
縁をだけ残して屋根全部が ガバッ! と持ち上がっている。

 この程度のことでこんなになんて思わないでほしい。
 

 今ここで、この風を、この光を、この音を、この広がりを実際に感じていると、この場に立つまでのことを思い出していろいろね。
 何にもなかった訳じゃありませんからね。何年も何年も。

1-13-4 オロロロゲートに向かって がたがた道

  写真は、エナイボルク村からオロロロゲートに向かってがたがた道を下っているときのものです。ずうっと先の方、一面に広がっているのがマサイマラ国立保護区です。
 マサイマラ国立保護区と村との間は、何時間もとゆうほどではありませんが結構ながたがた道とぬかるみで車でも大変。今の日本人の感覚では歩いて行き来するような道ではありませんね。
 でも、ケニアッタ空港をでた所でも、大地溝帯へつながる峠道でも歩いている人を見かけましたから(峠道を歩いていた女性はシャワーキャップをかぶって歩いていました。何でシャワーキャップを被って歩いていたのかはわかりませんが)、ケニアの人は歩く人もいるでしょうね。

 このあたりにマタトゥや車のタクシーがあるのかどうかはわかりませんが、オートバイの後部座席に乗せて人を運ぶバイクタクシーはありました。
 車はあるわけだし、携帯電話もあるし、無いならないでいろいろ知恵を働かせていでしょうね。

女性 国際法廷から10年シンポジュウム

 新聞で、12月5日に東京で「女性 国際法廷から10年シンポジュウム」が開かれたことが報じられていました。


 2010年は韓国併合100年とゆうことで、公私ともに韓国にまつわることが、これまで以上に多くあった年でした。

 そして暮れの12月にこの女性国際法廷から10年シンポジュウムの開催。

 前々から、この法廷・シンポジュウムで取り上げられた「軍による性暴力・性奴隷」(現在 従軍慰安婦 とゆう言い方は、事実を正しく表していない、とセクシャルスレーブ=性奴隷とゆう言い方が使われています。決して進んで慰安をしたかった被害者ではないのですから、この言葉の方がより正しく表していますね。)のことは知っていました。
 だから初めて耳目にした事ばかりではなかったんですが、併せて報道されていたこの“女性法廷”の紹介記事、とくに2001年に下された判決を読んで認識を深めました。

 その記事によれば、この女性国際法廷は、1946年の東京裁判で裁かれなかった“日本軍慰安婦”制度を、当時の国際法に基づき、東京裁判以降に明らかになった証拠、証言を取り上げて開かれた民間法廷。
 2001年12月、オランダのハーグにおいて「天皇裕仁は有罪、日本国家の責任を認める」判決を下した。と紹介されていました。

 私は韓国平和の旅で多くのことを知り・感じ・学びました。 
 その一つは、ナヌムの家で受けた説明、そして資料館で、先ほども書いた、「従軍“慰安婦”」とゆう言い方は事を正しく伝えていない。正しく伝えるために、今は性奴隷・セクシャル・スレーブと言う事を知りました。
 そしてセクシャルスレーブの被害者のオモニたちの年齢のことを考えると・事実を認めること、その上で・謝罪と補償する。そこまで行くことに、速さが非常に重要だと感じました。

 第2次世界大戦での同じ敗戦国のドイツ。未だに(新)事実が明らかになり対応に追われることが続いています。でもドイツは戦後間違いを認めているんですよね。現在の政府は、ナチス政権時代のドイツの、ドイツ政府の責任を認めているんですよね。
 日本の場合は。すでに補償が必要な問題は取り組み済みであり、そのほかに補償の必要な問題は存在しないとゆう姿勢でいます。
 “叩いた方は忘れても、叩かれた方はその痛みを忘れない”と言います。
叩かれ痛みを覚えている側が言っているのです。問題を認めず、揚げ足を取るように数字的な相違を取り上げる姿勢は決して誠実とはいえないし共感を得ることはできないでしょう。そもそも記録が残らないほどに「奪い・殺し・焼きつくす」を日本軍がしたんですから。
 ないない といつまでも認めないから、次へ進めない、友好状態が築けないんだと想いいますね。

 日本も被害を受けたんだ、とゆう事に関して。
 事実、日本は加害者であると共に300万人とも言われる方が亡くなり、広島長崎の原爆の被害も受けました。一般の人たちにとっては勝っても負けても大きな被害を受けるのが戦争とゆうことですね。
 この時も忘れてならないのは、なぜ被害を受けることになったのか を考えることですね。
 戦前、中国に日本の軍隊はいたけど、日本に中国の軍隊はいなかった、とゆうことを考えることですね。

献血100回できるかな

2010  クリスマス  献血してきました。

 クリスマスと誕生日の節目にと心がけている献血。
  転勤後、仕事帰りに立ち寄るとゆうことができなくなったので久しぶり。

 さて、写真のグラス。うっかりしてましたけど、今回の献血が30回目。その記念にもらったものです。

 高校の時に初めて献血してやっとここまでです。家族がいた頃は、家族といる時間を優先していたので、ずいぶん間があいてしまったのでね。

 
 私はいつも400の全血なので、年3回までとゆう縛りのほかに、間もあけなくちゃなりません。だからセンターは行く度に模様替え。今回もそうでした。献血後の水分補給ようのスポーツドリンクがなかったのはちょっとびっくり。時期のせいなのか、暖かいものは何種類もありましたけどね。

 前からしている人は65までできるようですが、献血100回できるかな。(言葉の響きはいいけど、先ほどの前提条件で計算すると50か60までですね。どうなりますか!)

2011年1月6日木曜日

1-13-3 オロロロゲート

 学校近くで子ども達を降ろした車は、崖みたいに急ながたがた道を下っていく。




 オロロロゲート到着。



 この後お昼までお便所なし!との由。

1-13-2 元気な子ども



 昨日と同様の朝食の後、レンジャーさん達とともにムガネさんの運転で出発。


 走り出してすぐ、学校へ行く子どもが乗せてくれとゆうことで同乗。この子達はNガイドの甥っ子兄弟とのこと。

 車に乗るのは良いけど、実のところ歩きなら真直ぐ行けるところも、車はレンジャーのンギョネさんの指示であっちへこっちへ、ぬかるみを避けながら行くので、時間的にはかえってかかったんじゃないかな。

 でもこの子達、目がきらきらしてて表情も明るくて。こちらまで明るくなりました。

1-13-1 サファリ出発の朝

 

 今日はマサイマラ国立保護区のサファリ。


“サファリ”

 まさかこの私がサファリするとは。
今ここにいるとはね。
 映画の世界の話かと思っていたのに。

1-12-21 お買い物で国際貢献


 「気にしなくて良いですよ」とNガイドには言われたんだけど、これだけ集団内の関係が濃密な人たちの中で、買った人買わなかった人がでると悪いと思って、数や金額は様々だけど全員から買うことにしました。(いつでもできることではありませんが、この集団の規模だったから)


 護身用にもなる杖は買わなかったけれど、ルング(棍棒)や「この絵は本物ですね」とゆう革製の盾のレプリカ、ビーズをたくさん使った豪華な面タイプの首飾りや山嵐のとげ?針?を使った腕輪等々、いろいろ買わせてもらいました。
 都合7,200シリングほどになったでしようか。

 帰ってからでは買えない、今しか買えない物を買わせてもらいました。

 関心を引かれた物はほかにもありましたけど、きりがないしいくら何でも全部は買えませんものね。

まあまあ満足とゆうところかな!


 ただお金をあげるのではなくて(もちろんお金を寄付するとゆう関わり方も有りですけど)作った物を買わせてもらったとゆうことで多少なりとも“お買い物で国際貢献”になったでしょうか。

1-12-20・2 このママさんがこの作品を

 

 “写真” さっき挨拶をしたし、これからは撮っても良と言われたんだけど、距離が近くなってかえってパチパチと撮れなくなっちゃいました。




 なので、いくら何でも全部を買うわけにも行かないので、誰がどんな物を作っていたとか、誰からどれを買ったとゆうことがわかるように、制作者と品物が同じフレームに収まるような写真を撮らせてもらいました

1-12-20・1 ママさんたちの手工芸品



 場所を移してみんなの手工芸品を見せてもらうことになりました。

 キベラやここの品物を買おうと思って来ているのだから、もちろん!買いますよ。

 ママさんたちは(ママさんの一人に顔の感じがよく似た娘さんがいました)地面にカラフルな布を広げ、思い思いの品物・作品を並べてくれました。

 結構品数があります。色使いもカラフルでみないい感じ。

 Hさんが日本によく持っていく、なじみのあるアクセサリー・小物が何人かの所に共通して有りました。
 リサーチとゆうほどでもないのかもしれないけど、日本での講演会・物品販売の時向けに、サイズや金額的にどんな物をとゆうのを話し合って工夫しているのかもしれませんね。

 でも私は、せっかくここまで来たんだから、よそのお店や機会では手に入らない物をと思っているので端から端まで見せてもらうことにします。

1-12-19・2 飾りをつけてもらって写真撮影




 挨拶も終わり、今度は私たちもママさんたちの中に入って記念撮影。


 私がよっぽど関心を持っていろいろ見ていると思われたのでしょうね。

 なにがきっかけだったのか、頸にビーズの飾りを何本もかけてもらい、その上耳にまで飾りを付けてもらって記念撮影。

 確かにそうでしたけどね。

2011年1月5日水曜日

1-12-19・1 マサイの人たちと挨拶



歌の意味は分からずじまいでしたが、その後ママさんたち一人一人と言葉を交わして挨拶をしました。 注


ママさんから「ソォファ」こちらから「エヴァ」。(マサイ語)

明るくはしゃぐ人、何か不自由はないかと心配してくれているのでしょうかいろいろ気遣ってくれる人。これだけ人が集まるといろいろなタイプの人がいますね。でも皆歓迎してくれてるなぁーと感じました。

同じですね。


正確な年齢とゆうのはみんな知らないとゆうことですが、私の見た風貌の印象から10から15くらい引いたくらいが実年齢なのかなと思います。

だから本当は私の方が年上なのかもしれませんが、年輩の人には挨拶の言葉とともに頭を下げてなぜてもらいました。これが長老・年輩の人に対する敬意の表し方、礼儀だそうです。


注 JIWE から出ているCD「ノンゴクア」に解説と訳が載っています。それによると、女性たちの歌は、子ども・牛・生活・平和を神に祈る内容のもののようです。

寒い!   人間は大きくなるのかもしれないけど…




寒い!


これなんだと思います?

東京名物“チョコバナナ”
                                             じゃないんですよ・・・





  正解は、 低温で皮が変色した(本物の)バナナ。
冷蔵庫に入れた訳じゃなくて、ただ室内においておいただけなんですけどね。

ちなみに、中は大丈夫、ちゃんと食べられます。



だけど、本当に寒い!!

人間は大きくなるのかもしれないけど、この大きな吹き抜け! どうにかならない!?

人気・火の気(ひとけ・ひのけ)がないから、帰ってからストーブつけたって暖まりっこありません。

2011年1月1日土曜日

私はこっちを選んだからこれで行きます  “人は、事実だからではなく、必要だから発言する”

年の初めにあたって自分の行き方(生き方)を再確認できたことを感謝します。



人は、
  事実だからではなく、必要だから発言する。


 
 中越地震の “想定を越える揺れ 地震エネルギー” で運転を中止していた 東京電力柏崎刈羽原子力発電所が 「運転を再開するに当たって問題はない」 とゆう諮問委員会の諮問の後 運転を再開した。

 もちろん調査や修理がなされた事を受けてのことではあるはずだが、その後もトラブルが続出している。
 なにを持ってOKしたんだろうか。本当に大丈夫なの!?


 「原子力は神の領域」と思っている私としては、人がやってることなんだからどんな委員会がOKといっても“絶対”とゆうことはあり得ないと思ってますけどね。

 冒頭の言葉は、柏崎刈羽の運転再開を認めた諮問委員会座長の姿をニュースで見た時に頭に浮かんだ言葉です。

 ニュースを見てびっくりしました。
 諮問委員会の座長が、原発建設反対の町議・町長誕生のために、住民投票実施のためいっしょだった人だったのです。

 私の加わっていたグループ(青い海と緑の会)は、動機は様々でも「原発はイヤ」とゆう人の集まりでした。
 つながりは緩い感じでしたね。
 だから運営に関わる人は大変だったと思います、でもそれだからこそいろんな人が自分の条件でもかかわられたんだと思います。
 ちなみに、私は大変な想いをさせる側。


 建設計画の中止を表明した電力会社。
住民構成も県都のベッドタウンとして、移住してきた人間の比率が大きくなってきていましたし。
広域合併によっても大きく地域が変化しました。
 私個人にもいろんな事がありました。
 それくらい時間がたったんです。


 座長を務めた人は、当時大学で物理の分野を専攻しでいて原子力(発電)にも詳しく、グループの中でいろんな提案、方向付けをする立場の人でした。
 最後に会った頃は博士号も取得して助教授になっていましたね。

 その後どうゆう経緯があったのかは知りません。
知る由もありません。
 テレビ越し、久しぶりにみた彼は(よれていない)背広姿の教授になっていました。

 当人も以前のことを覚えていないわけではないでしょう。

 生きていくのは楽なことばかりじゃないし、選択・決断しなければならないときも人生には何度か訪れるものですからね。


 私はこっちを選んだからこれで行きます。 感謝