2011年3月28日月曜日

2011 東北関東大震災  それを聞いて私は泣きました

   自分も大変なのに、救援活動に必死に取り組んでいる親御さんの子供を新潟の親戚まで乗せてきました。

  (小学1年3年5年の男兄弟と3年の女の子)
 福島第一原発に車が近づいたとき「お母さんがぬらしたタオルをはさんでマスクをしなさいと言っていたから。」とか、おやつを出すタイミング、お小遣いの使い方などのことを話していました。

 みんなけなげでねぇ、特に3年の女の子がそうで。偉いとも思ったけど、まだ小さいんだからそんなに無理をしなくてもと思いながら聞いていました。

 休憩をとりながら4時間ほど走って新津に近づいたとき、もう夕刻になっていたので道路脇の街灯が灯っていたんです。それを見て子供たちが口にしたのが「ここは電気が来ているの!ガスが来ているの!お風呂に入れるの!?」だったんです。それを聞いて私は泣きました。



 

2011 東北関東大震災  叫びながらしがみつく子供

子供にはおもちゃとお菓子が大事だと思っている私、甘い物を持っていきました。


 でも渡した後で結構お菓子があるのを目にしました。せめて、という想いから親が必死で手に入れたのかもしれませんが。

 この避難所の子供は腹ばいになってゲームをしていました。悲壮感にあふれ泣いているよりはいいかと思いましたが、少し拍子抜け。

 と、そこに体育館の窓や天上が激しく音を立てるほどの強い揺れが。そしたらその子供たちが一斉に声を上げ周りの人にしがみついたんです。

 やっぱり大変な想いをしてるんですよ、その想いを少しでも忘れるためにゲームをしているんだと言うことがよくわかりました。

2011 東北関東大震災  足りない水 燃料 物資 情報


 坂総合病院は近隣80カ所の避難所医療活動を担当していました。

 避難所へは、インフルエンザがはやりだしノロウイルスも発生したということで感染症対策も念頭に置いて訪問しました。
 どこの避難所も水やガスが未だ復旧していないという根本的な問題がある上に、食料も衣類もそして情報も足りませんでした。

届いているところ届いていないところ、偏って届いているところというばらつきがありました。

  私が訪問した避難所、一カ所は体育館、一カ所は体育館が危険と言うことで教室に分散しているところでした。
 天の高い体育館はもちろん、どちらも寒いし乾燥していました。
何せ電気ガスが復旧しない上に灯油が手に入らないと言うことで、この寒さの中で充分に暖房ができないんです。

 ごく最初のなにもない状態から比べればいいのかもしれないけどいまだ菓子パンとペットボトルが中心の、それも一日一回だったり二回だったりの食糧配給。
 給水車まで行ってやっと水を確保。
 材木を燃やしたり、プロパンガスを調達してやっとお湯を沸かしてカップラーメンがようやく口にできるようになったところもありましたが。

 夜病院で、ここ数日ようやく出せるようになった一人一個でお願いしますという炊き出しのおにぎりを食べながら二十歳代の看護師が「毎日あんなのばかりだと、たまにはガツン!!としたのが食べたくなるでしょうね。」と言ったのを聴いて深く納得するような食事状態でしたね。

 この環境と食事状態、たまる一方の疲労。
すでに出始めていましたが、災害後の体調悪化が進み突然死がでるのは容易に想像できました。
まだ強い余震が何度も何度も続くとはいえ、最初の急性期をすぎても未だ混乱状態が解消していない状態でした。

2011 東北関東大震災  ポンプ車まで動員して患者搬送

私は病院玄関外でトリアージをする係りになりました。一部治安の悪化があるとのことで、救急車・診療希望の人の受け入れ、入院している人のところへきた人、近隣はまだ水が出ないのでトイレを借りにきた人などの振り分け、そして問題の防止につとめました。

 もうすぐ4月というのに雪が降りとても寒い毎日が続いているのを報道で知っていたので防寒に努めて着込んであたりました。
 そのせいか、覚悟していたおかげか、風は強いし寒いことは寒かったけどどうにか役割を果たすことができました。


 自分で病院に来る人も大勢いましたが、救急車がひっきりなし。
消防署も被害を免れたわけでもないので割れた窓をガムテープで補修した救急車などが泥まみれのまま何度も何度も。
 消防隊も全国から支援が来ていて、ここには長野市と諏訪の救急車が地元塩釜の救急車に混ざって何度も。
 それでも足りなくて、ポンプ車の後部座席に患者を寝せ隊員が頭を支えながら来たときもありました。
 すごい状態でした。(連日200件以上)
 でもそれだけの人を“まず受け入れる”この病院・集団そして民医連はすごい、すばらしいと感じます。



 たくさん来ていた報道の人に、安否確認で来た人、未だに何の手がかりのない人が「私を映してくれ。放送してくれ。どこかで目にするかもしれないから。」と詰め寄ることもありました。

2011 東北関東大震災  人材


 全国から集まる支援物資と人員の受け入れに関して強く感じることがありました。

 何せ、感動するほど殺到する全国の仲間からの支援物資と応援にきた仲間たち(後体制を支え送り出した仲間たち)。

 それを無駄にすることなく整理・振り分け、動いてもらう坂総合病院そして宮城厚生協会の人たち。ノウハウを持っているんでしょうね。
想定訓練、非常時対応の対策を日頃からしているんでしょうね。
 それに向けての人員の厚み、そもそも組織的・体制的に違いを感じました。

 組織図的に上から下への一本線があってそこに各職種・人員がつながるというのではなくて、そうですねぇ、傘の骨組みを思い浮かべてもらいましょうか。
 中心、これは考え方の根本的な物も含めて軸となる物があってそこに次の太さの何本もの骨があって、その先が枝分かれしている、場合によってはその先ももっと枝分かれしている、骨と骨の間は面としてもつながっている。
 サブリーダー、中心を支える仕組み、人材がいると感じました。
 人材が育っている、育てられていると感じました。
 その違いは特に技術系より組織的な役割、人を動かす部署に、人材の層の厚さにより違いを感じました。

 大事なんですよねぇ。

2011 東北関東大震災  全国から集まった支援者

 私が現地に入ったのは地震から8日目。

トリアージ分類でいうと、当初多かった黒も含めて赤分類が徐々に緑・黄色の割合を多くしてきた頃でした。

 自前の井戸を持っていたおかげで水が確保できて炊事・トイレ、そして重油の確保ができて自家発電も可能になったので病院では診療活動が職員・全国の支援メンバーによってハードな二交代制で行われていました。支援物資も続々と届いていました。

 それにしてもすごい救援物資、なにより全国の民医連から集まった支援者の数。今日(19日)までで550人(他院所、他県分は除く)を越える人が駆けつけているそうです。

 今ここにいる人たちの数もすごいけど、この人たちをここに送り出してくれた人たちのことも考えると本当にすごいことだと思います。

 正直、そういう組織に関わっている幸せに感謝・感動します。

 今後は、ここに集まっているメンバーと物資で、来る人を受け入れるだけでなく他の医療機関に広めていくことを検討する時期にきたという報告がありました。

2011 東北関東大震災  支援で行った坂総合病院

地震の起きた日夕刻、私の今いる病院から二組の救援隊が被災地に向かいました。


 その後も交代で支援行動が継続し、私も志願して加わることができました。

 私が支援で入ったのは宮城の塩釜にある坂総合病院。

 ここは平地の少ない塩釜の高台にある病院で、津波の被害の大きかった港や海岸部そして直接間接に大きな被害を受けて機能を果たさなくなった医療機関が多い中で、市民病院とともに多くの患者を非常態勢を組んで受け入れていました。

2011 東北関東大震災  要するに危ないんですか!

 徐々に出てきた放送局ごとの切り口、伝え方の違い。

 公式発表の場で、アーとかイーとか口のあたりから音は出ているけどいったい何が言いたいのか。最後までいかないと結局のところ、危ないのか危なくないのかわからない。
 口が動かない 表情がない 感情が伝わってこない。 
急いでいるのか 本当のところ危ないのか危なくないのかが伝わってこない。
 言葉で伝わらない 言葉以外でも伝えようとしていない。

 要領を得ない話、なにを訴えたいのかさっぱりわからない中身のない話。聞かれたことに対してちんぷんかんぷんな話しの、キャスターから専門家と紹介される人達。企業・行政そして立法の責任者。  

 ここというときの決断力の欠如、訴える気持ち、伝える能力・訓練の足りなさを感じましたね。

2011 東北関東大震災 復興を阻むもの

すべての番組が地震報道一色になったテレビ放送から目が離せませんでした。


 NHKはもちろんのこと、全部の民放がCMもカットして地震の報道を夜どうし続けたのです。

 刻々と伝えられる被害の実態。それをみるからなおさら悪いのだろうけど、なにも手に着かない

 何度か地震体験があるせいで恐怖感があるし落ち着かない。これがPTSDと言うものなのだろうか。

 地震その後の津波の余りに大きな被害からの“復興”は大変。でも必ず立ち直ると確信しています。
 失ったもののことを思うともう決してそれ以前と“同じ”には戻らないということはわかっているけれど。

 今回の場合は原子力の事件・事故が加わっているから復興以前に、いつ被害の拡大が止まるのかも私にはわからない。
 大変なことです。原子力は神の領域だと改めて思います。



9809ー1 崩れた塀垣

2011 東北関東大震災 

長い2週間でした、11日に東北関東大震災があってから。


 書きためた物はあったけど、とてもアップできる心境じゃありませんでした。

 固有の名前が付くほどの大震災はそうあるものじゃない!、というイメージが漠然とあるけれど、思い起こしてみると私はこの何十年かの間にそんな大きな地震を何度も経験していました。

 その経験があるものだから地震の起きた11日、ちょうど阿賀野川近くにいて揺れも大きくて怖かったけどその長さに体液が沸騰するほどの強い恐怖感を感じました。

2011年3月9日水曜日

1-12 集落訪問 おんぶ

 布で覆うというかくるむというか、布ですっぽりすくい上げて体に密着させてました。日本のおぶいひもよりも一体感は上でしょうかね。

 最近は日本でも“スリング”なんて呼んでハンモック様にしてよりおぶいやすく工夫されたものを使う人も見かけます。

 日本の風呂敷文化は実用的でもありますが、包むということ自体 包んだ様子が美しく、これからも大事にしたいと思います。

 
 こちらの人も、包む くるむ 敷物 身を飾ったり防寒、そして赤ちゃんをおぶったりといろいろに活用していますね。

絹乙女 命名の妙

 昨秋、寒さに向かい一段とおいしさを増す里芋のことが、NHKの地域情報番組(コーナー)で五泉のブランド農産物“絹乙女”として紹介されていました。


 その番組で紹介された絹乙女が、劇団仲間の忘年会で入ったお店のメニューにありましたので早速食してみました。
 皮(毛)を残したまま蒸しあげ、一部をカットした小芋に塩を少しまぶして食べました。
 里芋の持つほんのりとした甘みと、まさに絹のような細やかなそして融けていくかのようなねっとりとした食感。なるほど、充分話題になるブランド作物だ、と納得した覚えがあります。


 先日用事で訪れたお宅。高齢になり、かつ跡を継ぐ人もいなくて、今は農地を委託しているお宅でした。
 昔は米以外にもこのあたりの特産品の里芋を作っていたという話がでました。
 ちょうどその地域は、大河とは言え対岸があの絹乙女の生産地。「おいしいですよねぇ」と話したら。
 この集落の里芋もブランド名があるとのこと。
“芋っ子”と言うんだそうです。
 でもこれじゃあ売れないよねぇ」と。
「絹乙女と同じ種芋なのに値段は半値」だそうです。

 これはまさに命名の妙というか。最初につけた人の先見の明と言うか才覚でしょうね。

 名前というのは大事なものです。

2011年3月6日日曜日

1-12 集落訪問 家畜小屋

 この時目にした牛・家畜小屋。
 放牧の行き帰りを目にした牛や羊や山羊の頭数はもっともっと多かったから、どこか別の場所にも小屋なり囲いがあるんでしょうね。(後日写真で見ると、同様の作りの物が他にも写っていました。)


 ウォークの時に寄せてもらった集落だと、広場を中心にしてサークル状に家々が並び、その間も棘アカシアなどの木の枝で動物が出入りできなくしてありましたから、そうゆうところに保護するのでしょうか。
 
 ママさんたちの品物を見せてもらった所も囲えたけど、糞が見受けられなかったからここは違うかな。

1-12 集落訪問 マサイの人の幸せに習って

 マサイの人たちの食生活としては肉も食べるし固形物を口にしないということはないのですが、一日5から6リットル牛乳が飲めたらそれだけでも良い 幸せということのようです。


 牛乳は栄養もあるし、確かに満腹感もあるけど固形物を口にしないで大丈夫なのかなと思って、日本に帰ってから自分でもやってみました。
 1リットルの牛乳パックを30本用意しました。
 結論としては、結構やれるな、と思いました。
 ただ、休みの日はいいんだけど、仕事のあるときはだめだなぁという結論。
 まあまあ腹持ちもするし結構やれそうな気がするんだけど、頻繁に飲まないとお腹が空くのは確か。仕事中にそんなに頻回に牛乳を飲んでられないし、冷蔵庫なしで傷まないようにどう持って回るかがネックですね。
 後お腹が緩くなるのが大変でしたね。病気でお腹の具合が悪いというのとは違うんだけど緩くなって、こっちの方が大変だったかな。これも慣れのような気がしますけど。

 1リットルの牛乳パック30本。意気込みとしては続けてみよう変えてみようと思ってそろえたんだけどすごい数。
 レンジャーの人も同じマサイの人なのに体つきが違うんですよ。お腹周りもたっぷりしてるし。「食事が違うんでしょうね。」との由。
 村の人なんかみんなスレンダーで、ふくらはぎなんか全然違います。
 それでいて動きはちゃんとしてるんだから無駄な贅肉がないと言うことなんでしょうね。
 私も牛乳を中心とした食生活にしたらそんな体つきになれるかな!?と思って。

1-12 ひょうたん製ミルクの入れ物

 ここに写っている物はひょうたんを使ったミルクの入れ物です。
 
 これは日常的に使っている代物なので譲ってもらうわけにはいかないと思いましたが。

同様の物を後日、最終日に行った市で一つ手に入れてきました。この時のがすごく絵になっていたのでね。そう思うでしょ。
 市で見つけた物はきれいに補修してあったけどダメージのある物でした。でも見て回ったところ他に見あたらなかったし、市場に来た記念にもなるし、この出会い・チャンスを無駄にしないように買うことにしました。相手と交渉して買いましたけど、これも良い思い出というか、エピソードが生まれました。

 このひょうたん製のミルクの入れ物は、種はもちろん取り除くとして、その後を火のついた小枝を口から差し込んで中を燻すというか焦がして造ります。それによって滲み込みとか漏れを防ぐとともに、消毒の意味合いもあるようで保存にも良い影響があるとの由。

1-12 集落訪問 牛・おっぱいの飲み方

 子牛におっぱいを吸われている牛がいました。

 子供を産んでまだ間もない母牛で、気が立っているから近づかないで、と注意されまし。

 気づきました。馬も同じだけど、後ろから近づいて蹴られないように、前からというか、牛の頭を自分の背の側にしてお腹に身を預けるような向きで近づけば目にはいるだろうしこちらもいくらかでも安全だと。

1-12 集落訪問 建物

 建物は、ウォーキング中目にした伝統的な物とは材料からして違いました。


 電気ガス水道そしてトイレはこちらも当然ながら整備されていないんでしょうが、がっちりした作りで大きく立派な物でした。

 中を見ることはできませんでしたけど、外見から想像するに、こちらの方が天井も高いし、スペース的にも広いと思います。

1-12 集落訪問

  行水でさっぱりした後Nガイドの家からその屋根が望めるくらい近いところではあるけど勝手には足を踏み込めなかった集落に初めて行ってみました。

市場はあっても政治(家)のない国

  ガソリン価格がまたまた上がってきた。
数年前の180 90円までは行かないものの150円に迫る勢いだ。


 北アフリカ・中東の政情という外的要因があるとは言うもののあまりに無策ではないか。

 日本においては 市場はあっても政治はない といわざるを得ない。

2011年3月5日土曜日

笑顔の連鎖

  ヨガの終わりに両手をこすり合わせ、温かくなった手で瞼を押さえる。


「光 形 を感じてみましょう。」
 と声をかけられる。


 ある時、「鏡を思い浮かべてください。笑いかけてください。」とうながされた。

 そういわれて鏡の向こうの人に目をやればほほえんでいるように見える。
 つられて私も笑顔になる。と向こうの人も笑顔になる。それにつられて、また私も笑顔になる。
 何だか破顔になってきた。口が開く。声こそ立てないが笑い出す。
 笑い顔になっている自分が楽しい。


                          これがミラー効果か