2016年1月30日土曜日

14-11-7 龍樋󠄀(りゅうひ)



正殿に向かう道のすぐわきを少し下る形で水の湧きだしているところがありました。施設としては大きなものではなくて、正殿を目指しているとうっかりすると通り過ぎてしまうかもしれないほどのものです。水の流れ出るところは、もともと龍へのこだわりがあるからかあちこちに龍をかたどったものがありますがここも龍でした。
 

この湧水 実は王宮の生活用水として重用され、水質的にも優れたものだったのでしょうか中国からの冊封使にも届けられたという湧水とのことです。  
 
 
   でも私には生活用水というよりはそれ以上の意味合いがあったのではないかと思えます。一番高い所に位置しているわけではなく、正殿に向かう途中で一段下ったところだとはいえ、もとは小高いところ。そして何より王宮(信仰的にも重要な意味を持つ)の敷地内に湧き出す水ということで。

2016年1月27日水曜日

14-11-15  遠のいた基地閉鎖  宜野湾市長選(2016.1.24)


沖縄・宜野湾市長選が現職の再選という結果で終わりました。(2016.1.24
これで辺野古の新基地建設は別として、普天間基地の閉鎖・返還は遠のいたと感じています。 

 なぜか。それは辺野古新基地建設を強引に進めている安倍政府が必死に応援した現職が新基地建設の問題(安倍政府は普天間基地の閉鎖・返還は新基地を作ることによってとしている)に触れず争点をぼかすことによって再選されたわけで、普天間閉鎖=新基地建設ということで民意が明らかになったわけではありません。触れない、なくすことなく現状を続けるという態度にほかなりません。さっそく菅官房長官 安倍首相は民意は我にありなんて見当違いなことを言い出しているけれど、名護市・辺野古の問題は変わらないし今回宜野湾市長選であえて触れない作戦をとったことによってどういう結果になるにせよ代わる選択肢を一段となくしてしまったのじゃないかな。

14-11-7 争いはなくせるものだ


日程から言って七五三のお参りか何かだったんでしょうか。着飾った子どもそしてお父さんとお母さん。アメリカ(合衆国)の軍人さん? どこの国(親子)も同じだぁなと感じます。確かめたわけではないけれど。  私服も素敵ですよ。

 


 ‟琉球征伐“という言葉があります。薩摩藩そして明治政府による武力弾圧。琉球王朝が滅びたのはこの明治政府による武力侵攻のせいでした。これは武力衝突の結果ではなくて、争うことなく城を明け渡した結果でした。王朝がなくなるということにはなりましたが、貿易経由地として武力ではなくて外交で国の独立を保ってきた琉球の身の処し方といってもいいのではないでしょうか。そんな沖縄にも戦がありました。琉球の尚王朝成立・統一までは戦乱の世だったそうです。

と、こうやって見てくると争い・戦争もいつかなくなるものだということに気づきます。また新たな争いがどこかで起こるという現実はありますけれど、一つ一つの争い・戦争はなくせる。そんな希望・未来を確信させる場所であり光景です。

2016年1月25日月曜日

14-11-7  首里城まだまだ復元中


世界遺産登録の根拠が、戦争による破壊の時にもかろうじて残った昔々の首里城の石組みだった、見事に復元された正殿のおかげではないというのは正直目が覚めました。そういうものなんですね。

それにしても県民の総意、沖縄のアイデンティティとして首里城(もちろん他のグスク・御城も)を復元したのは大したものだと思います。他の日本の古城復元運動とはずいぶん趣を異にすると感じました。

そして回ってみてあちこちで目にしましたけれど,まだ復元工事が終わっていないことにまたまたびっくり。大きな重機が動いているところも見ましたし、単管パイプで足場を組んで作業をしているところも目にしました。まだまだ復元作業は継続しているのです。戦争で破壊される前の首里城の大きさを改めて感じます。そして、沖縄の人たちの思いを感じます。今までに復元されたものもこれから復元されるものも、そしてこの試み自体が沖縄の財産になっていくんでしょうね。

2016年1月23日土曜日

12-2-29 “首里城” で感じた事 3/3   色彩感覚の違い


 
全体を見れば これ同じだ~ と思うこともありますが 色使い・色彩感覚などは う~んやはり沖縄は違うなぁ と感じるところがあります。以前31ビキニデーに行ったとき縁あって訪れた静岡市登呂遺跡博物館敷地内に併設されていた芹沢銈介美術館でその作品や収集品に触れたとき、この色使い色彩感覚に触発された芸術家が大勢いるんだろうなぁと感じた覚えがあります。

2016年1月22日金曜日

14-11-7 “首里城” で感じた事 2/3  日本のお城との(機能)違い 


 

斎場御嶽を回ったこと、ほんの少しばかりだけれど資料に目を通したことなどで、首里城が‟戦“を想定して作られたものではなくて、外交そして私はこちらのほうが主だと感じる信仰の場としての、機能の違いが配置・造りに現れその結果感覚に何か感じるものがあったんだと思います。

実は人間の作った建造物としてはその後ろに何かあるのではなく、異界とつながる扉というものになるのだけれど園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)があり、重要な意味を持つものだったようです。

2016年1月21日木曜日

14-11-7 “首里城” で感じた事 1/3


 

雰囲気違うなぁ。

守礼門をくぐり石畳そして整備された道を歩き、周りが望めない高さで両側の石造りの壁が門に向かって狭まりながらそそり立つ歓会門をくぐり抜け、幅の広い階段下に立ち瑞泉門の方向に見上げるように目をやったとき違いを感じました。

‟首里城“となっているので沖縄以外の日本各地のお城と比べてみてしまうのですがここは何か違います。 奥行きというか広がりというか高さというか後背の抜けが違うというか。建物の規模で言えば日本のお城だって十分に大きな建物なのだけれど何か違います。

平城はもちろんですが、同じように地形を利用した山城と比べても何か違う。ここは高見へ登っていくような感じ、その後ろの空へ登っていく、そして‟空とつないでくれる場所“という感覚になります。

2016年1月17日日曜日

2016.1.17 阪神淡路大震災から21年目の朝に


今朝は阪神淡路大震災から21年目の朝です。

もうそんなに立ってしまったかと感じてしまいます。その後も地震はあちこちで起こっていて、日本は地震列島だということを改めて感じます。それだけに、そんな危険性を抱えたところになぜ原発の再稼働そして新設までするのかとどう考えても納得できません。

さすがに途中から事故は絶対起きないなんて言い方は控えてゼロをいくつも並べて原発事故の起きる確率はこんなに小さいんですという口調に代わったけれど、いくら低いとしても確率的にはいつか起きるということ。そしていざ事故が起きた時の手のつけようのないことは東日本大震災における東京電力福島第1原発事故がいまだに収束しないことを見れば誰にもわかるはずのこと(!)。降り注いだ放射能その被害・影響は世界的規模に広がりゼロに戻すのは不可能な現実なのもわかるはずのこと(!)。

2次世界大戦の時の広島・長崎への原爆投下を経験している日本、加えて福島第1原発事故の当事国の日本。平和のこと、原発(固定式核兵器)のことでは世界中の他の国や人々に先んじていかなければならない立場なのにと憂いている国民が多いのに、それに一向に耳を傾けない議員と安倍政府。今日告示になった沖縄宜野湾市長選、そして沖縄・基地問題ともども同じ図式を感じます。

 

解説と対策はそれこそ専門家が担うべきこととして、被害にあった人々の生々しい言葉の一つを紹介します。この言葉に耳を傾けた時普通に感じる気持ちを、今再稼働を考えている人にも普通に感じてもらいたいものです。

 ~
4年たって気になるのは「314日、放射性物質が一番降り注いだ時に給水車を待つために息子と外で2時間並びました。スーパーに商品がなくなり、開店を待って外で並んでいたときも放射能にさらされた」ことです。
「あの時、きちっとした情報が公開されていたのなら、子供たちの被ばくは避けられた」~ 
「今回の訪米で 原発事故による低線量被ばくが先の見えない生活を強いて非人間的なことを作り出すと伝えてきたつもりです。核は人間が扱ってはいけないものなのです。」
 ~

2015年国連本部で開催されたNPT(核不拡散条約)再検討会議への要請行動に福島から参加した石堂祐子さんのインタビュー記事から抜粋

 

真に 核は神の領域 だと思います。

2016年1月14日木曜日

想ったように描く


視た様に描く 視えた様に描く 想ったように描く

 

この度はほんとに私の備忘録として描きます。

視ているものをそのままに描き切る技術のないころから、技術も技法も豊かになり、ただし決してその一つ一つが入れ違いに切り替わるというのではなく複線化してより豊かに表現できるようになってくるという絵画の歴史。(現生人類だけではないので誰がではなく絵画としました)

 歴史的に、たとへば遠近法といった技法、考え方、それらはとてもとても私の知識ではまとめきれないのでこんな印象みたいな言葉で。特に19世紀半ば後半からのこれは技法というより発想考え方の多様化はすごい(素晴らしい)としか言いようがありません。説明されないとピンと来ないのでしょうけれど、数々の作品を思い出しながら語呂がいい形で書いたものです。

2016年1月12日火曜日

14-11-7 黄金御殿(くがにうどぅん)で圧倒されたもの

 

   なんという力強さでしょう。今目の前にしているもの本当は複製品とのことですが 全身をつかみこまれるほどの力強さを感じます。

 もともとこの場所‟黄金御殿“(くがにうどぅん)は国王一家の生活の場だったとのことですが再建された現在は特別展示室として利用されていました。

私が観覧した時は、この度復元されたという尚王の肖像画そしてこの中国の皇帝から贈られたという衣装(本物は歴史博物館に収蔵されここに展示されていたのはそれを模したもの)他でした。
それにつけても、すっかり圧倒され見入ってしまいました。 模したものでもこの力、本物はいかほどのものかと。

 

尚王の肖像画の方は技術的なこと以前にまず、王様が周りのおつきの人と比較してとても大きく描いてあることに気づかされます。
 以前新津美術館の企画展-華麗なるインド・インドの細密画と染色の美-で視たインドの、そして日本で言えば 聖徳太子像といわれているものの太子の描き方と同じなのに‟絵画の持たされた意図“ 政治的にも意味を持たされた絵画というものを感じました。

2016年1月11日月曜日

14-11-7  守礼門 (私にとっての守礼門行き)


今守礼門前にいます。朝からあちらこちらと回ってようやくここまで来たという感じです。

‟守礼門“ もちろんそれ以外もたくさんあったはずなんだけれど、今思えば特に復帰前の沖縄の情報は限りがあってイメージとしては今よりももっと限られていました。絵柄的にも昔はよく見かけた観光ペナント(これも最近はすっかり見かけなくなった)をはじめ沖縄のお土産には守礼門が結構用いられていたように思います。そこに今立ったのです。

個人的にもう一つ。 以前配属になっていた部署のみんなで沖縄に行こうと積み立てをして、さていよいよ出発という2日前に母が心筋梗塞で緊急入院。集中治療室で絶対安静、身内の方に連絡を…ということになってしまったのです。いくらなんでもこれでは出かけられません。縁がなかったのかなぁとあきらめた経緯があるのです。その時のお土産・記念写真が守礼門前での集合写真。いつか沖縄に行ったら、もちろん他もたくさん回るにしてもこの守礼門はぜひなぞっておきたいなぁと思った場所だったのです。 

 守礼門が絵柄としてあちこちに使われたのは、大きく立派な首里城正殿が再建されるのがずいぶん後になってからということもあるかもしれません。でも記念写真を撮るということで考えると、ちょうど建物の全体が入りつつもその前に並んだ人間の顔もわかるちょうどいいの建物の大きさ。かつその場所が少し手前に下がると団体旅行のグループが横に並んでも十分な広さもある、そのあとみんなは正殿に向かうのでいつまでも人がとどまらない。などがあるのかもしれませんね。 

 ようやくここまで来た、これから首里城に入る、などで門をくぐるときは少し肩のあたりに気を感じました。

2016年1月9日土曜日

Tの事  2016.1.9 2/2


ところで。二人が再び別々の人生を送りだしてしばらくたったころ「連絡を取ろうか」と言ってくれる人がいました。
いくらしばらくたったとはいってもそんな簡単に穏やかになれるわけはないけれど、双方を見て悪い人間と思わなかったからそう申し出てくれたのかもしれないと思い、内心そんな風に気にかけてくれていたということに感謝しました。

 Tも悪い人じゃなかったんだろうなと私も思ったし、少なくとも最初はそうでなかったから一緒に生活を始めたはずだし。 その時を乗り越せばまた続いていたかもしれません、タイミングというか、組み合わせというか。 これまで共に暮らした時間の事のことを想うと…という気もしないでは 今この時を過ぎればまたいい時もあるという気もしないでもありませんでした。

でも、そんな二人のために人生取り返しのつかない形になった人間がいたことも確かだと思っているので、そのことを想うと今更一緒にはなっちゃいけないなぁと思いました。
最後のほうは、とにかく子どものことを考えてすべて譲る。私は我慢してもいいから仮面夫婦でもいいからと思ったほどだったけれど結局どうにもならなかったんだし、今更以前のように暮らしても幸せにはないなぁと思ってその申し出を感謝しながらも断ったことがありました。

 

その頃の写真を見ると、私疲れてるなぁと思います。 
何をやっても認めてくれない評価してくれないで私は疲弊していました。私は何とかして認めてもらいたいの一心でした。そんな毎日がいつまで頑張ったら終わりということがわからないまま繰り返していく、ほんとに疲れていました。

Tの事  2016.1.9 1/2


少し前から、気づいてしまって頭から離れなくなってしまっていることがあります。
それは、以前混同しないようにとTとした一時一緒に暮らした人のこと。 

今は別々の人生を歩く関係になっていますが、そうなる最後のほうは私のやることなすことがすべて気に入らなかったようでした。
私の言うことやることに全部口を挟む反対する。正しいかどうかで判断するのではなく、私が言ったやったということで感情的な口調で反対し否定するということをすぐ近くで見て感じていた幼い子にとってどのような影響を与えていたかということが気になっているのです。

そのことを考えると恐ろしくなります。 いくら私のことが気に食わないと言っても、それはこの二人の事、幼い子の前ですべきことではなかったと思うのです。

2016年1月5日火曜日

14-11-7 琉球伝統銘菓

  
お茶うけは琉球伝統の銘菓4種類の中からどれかを選ぶようになっていました。う~んどれか一つというより全部試してみたいなぁ。

と思っていたら運ばれてきました。あれ!まだ何も聞かれていないのに、と思いながら見てみたら小分けされたものも含めて4種類全部がそろって出てきました。お茶席を申し込むところの説明では選ぶようになっていましたが、今はこのような形で全部試せるように変わったのだそうです。

沖縄土産でよく目にするものとは別物で、どこでも手に入れられるというものではないようですが全部おいしくいただきました。

みんなが私のように思う人間ばかりではないでしょうが、いろいろ試せて私にとっては幸いでした。

14-11-7 映画「ガマ 月桃の花」

   鎖之間から望む庭にいろいろな花木が見えます。

ふと思い出して、先ほどからご接待そして説明してくれた女性に月桃はありますかと聞いてみました。そして教えてもらったのがこれです。身近なものでいろいろ活用されていてなじみの深い植物のようです。

 

実は2012年に初めて沖縄に来たとき、つきっきりで案内をしてくれた人に聴いたんです。「沖縄 沖縄戦のことを知るためにおすすめの映画は何ですか」と、その時「ガマ 月桃の花」を進められたのです。 沖縄戦、それもその最終盤の悲劇を一番よく描いていると言っていました。
   初めて聞く作品名です。ちょうど「ひろしま」が原爆投下後の広島のありさまを一番よく描いていると言われているのと同じような作品なのでしょうか。「ひろしま」が戦後そう間をあけずに作られた作品なのに比べるとこちらはずいぶん時間がたってからの1996年に16㎜で製作された作品。基地のことを考えると間違いなく現在進行形だけど、沖縄戦のことがまだまだ記憶に強く残り、その悲劇を繰り返さないためにも伝えていかなければと思う人が大勢いるということで誕生した作品なのでしょうね。この映画、自主上映のみで遠く離れた地ではなかなか視ることかなわないかもしれませんがいつか視てみたいものです。

2016年1月1日金曜日

信ずる心


 
想像する力 を前に言わせてもらいました。今はどうしてこのようにあるのか いま何をすべきか この選択がどういう未来につながるのか。この選択によって将来はどうなるか想像する力。そのつながりで、今を未来につなげる時に大切なのは 信ずる心 と言わせてもらいます。

 

2016年元日 新しい年明けは、時折強く風が庭の若木の頭を下げさせようと吹き抜けていくけれど陽射しは明るくまずはいい幕開けとなりました。

世相は昨年に引き続き穏やかだけでは済まない年になるのは間違いない情勢ですが。もう何年も続いているせめぎあいの真っ最中ですから楽なことはないでしょう、力を抜いたほうが あきらめたほうが押し切られるのでしょう。けれどわたしは希望を持っています。正しいほうが最後には必ず勝つということを知っているから。 一人の人の一生という時間だけではなしえないとしても必ず最後には正義が真理が勝と確信を持っているから。人々に・若い人たちみんなの選択・動きの中に未来を見ているから。このみんなの共同する姿に未来が見えるから。

そんな一年の最初を迎えています。