いわむろ コミュニティだより 92 2023年7月1日
まだまだ知らない歴史がたくさんたくさんあります。
最近では 「西の松下村塾 東の長善館」 と称された、燕市の長善館資料館も初見でした。
写真は ピントがアウトかどうかよりも 何時何処でシャッターを切ったかが大切だと思っています。
私の写真は、隅々までピントの合った観光写真かなと思っていますけれど。 何を撮りたいか 主題がちゃんと写っているか。 でもそれが中心でなくとも(端)ピントが合っていなくとも、写真の意味がついてくる、キャプションが書ける。評価される写真になるのだと思います。
ロバート・キャパの作品。彼の生涯。「ちょっとピンボケ」を記しておきます。
私の写真の撮り方は、物でも話でも集まりでも、その場の手前から全体も収めるように心がけ柄います。その部分を知るにも、話のように、いつどこから始まっているのか周りは全体はどうだということも分るように心がけています。 それを意識させるようになったのは宮本常一さんの「佐渡」を扱った本を見聞してからです。 佐渡の本なのに、佐渡の地に向かうところから話 写真が始まっている。 それからですね。
神様じゃぁありませんから、どうしようもないこととはいえ、時代と言うことでしょうか。
写真一枚一枚がどうということももちろん触れるべきな事なのでしょうけれど、写真を撮り始めたころ師匠から50ミリのマクロレンズのみでの撮影という課題を与えられたというエピソードが印象に強く残っています。
望遠ではなく標準レンズそれもマクロのみで撮影と言うのは、その場に それだけ近くに立たなければだめと言う事。 これは写真(機器)の扱いに長けるということではなく、人としての立場 考え方を厳しく問われ、何時何処でシャッターを切るかが左右されるということだと思います。 その後の吉田さんの生き方はそれで決まっていったのではないかと思っています。
ご冥福をお祈りします。
2012年のことですからもう12年も経つんですね。 それが最近どういういきさつなのか、大切なことだからなのか空きスペースを埋めるためだったのか「道の駅かでな」を紹介する記事を目にして。2003年当時の町長がアメリカ軍などの反対を押し切って建設されたものだということを知りました。 当時も、よくこんなところにこんなに見えるのを作ったなと思ったものですが、確かにこんなに見られたらいやでしょうね。
少し前からあちこちで目を楽しませてくれる つつじ と さつき。 両者の見分け、これが意外と難しいのです。 車で走っていると、きれいなんだけどどれがどれやら説明できません。
5月に咲くから さつき、その前に咲くのが つつじ … だとかなんだとか諸説いろいろあって。
でもこの説明がこれまでいろいろ見聞きしてきた中で一番しっくりきました。 車で走りながらでは、一斉かパラパラかくらいでタイミングが悪いと判別しきれないと思いますが、歩きながら少し時間が取れるようなら両者を見分けられそうです。
働く広場 障害者雇用 2024.1 No 555 の掲載記事より。この記事著者作成の日本におけるパラスポーツ年表を転載させてもらいます。
もう少し前のことになりますが。以前勤めていた職場先近くでたまたま見つけた、こちらにおけるパラスポーツの連絡先。いろいろに取り上げられメジャーになってきたかと思っていたパラスポーツの事務所がこんな市中心部からは離れた交通も不便な場所で、奥に長く周りの建物とのスペースもなく日当たりも悪い築年数も相当に古い建物、もちろん常駐している人はいない所でびっくりの思いをした経験があります。
No Charity ,Bat a Chance ! 保護より機会を!
ここでは日本パラスポーツの父として紹介されている中村裕博士。 1960年にリハビリテーション研修で訪れたイギリスでの出会いが発想の転換を促し、その後の日本を大きく変えた人になります。 障碍者の自立を支援し社会復帰を目的とした 太陽の家 を設立した人でした。
社会が大きく変わる時期だったのかさまざまに取り上げられ、太陽の家 のことはそのころの私でも知っていました。
核兵器廃絶 平和運動は年中休むことはありませんが、2月末からのビキニデーの集会から始まり、今年も8月の原水爆禁止世界大会に向けての平和行進が各地で始まりました。 自身これまで何度も参加して来た平和行進。幼い子どもも含めて家族して参加したこともありました。まだ小さい子どもにどれだけのものが残っているか確かめようがありませんが、日々の生活の中で何かの折に触れて思い出してくれたらと思っています。
さて、その平和行進が最初は一人から始まったとは知りませんでした。 平和を望む人 何かしたいと思っていた人がたくさんいたからこそ広がり今まで継続してきているのは確かなわけですが、コロンブスの卵のように最初に思いつき行動した西本さんがすごかったということなのですね。