2024年11月18日月曜日
あやとり は世界中に
2024年11月13日水曜日
寝る前の水分補給
日本経済新聞 2014年8月9日
この手のものとしては古い年月日のものになりますが、夜間のトイレ・排尿に触れたうえで50~100ミリリットルくらいが適量 と書いているところがいいなと思ってとっておいたものです。
一日に2リットルだとか寝る前にコップ一杯200ミリリットル とかいろいろ言われている中ではより現実的かと思って。
脱水、エアコンや暖房を使っているとき、汗をかいている自覚のない時でも水分は失われている、だから水分補給が必要だ。いや、それは十分わかっているけれど、夜間のトイレには悩まされているので。それに配慮した書き方が印象的です。
2024年11月9日土曜日
「生きて帰ってこい」ではなく「死んで来い」 人を大事にしないでは勝てません
ロシアによる越境攻撃から始まったウクライナとロシアとの闘い。ロシア兵の戦死者は67万との報道が有りました。 思い起こすに、第2次世界大戦の独ソ戦の時は2,000万(3,000万に至るという話もある)もの国民が命を落としたという。 なぜこのように命を落とす人が多いのか。この度のウクライナの戦いに関する報道の中にこの答えがありました。 ロシア・ソビエト共にとにかく無謀な突撃を繰り返すという戦術が伝統なのだそうです。 こんな伝統はいりません。
日本、少なくとも帝国陸海軍もそうでした。 何せ、徴兵され出征する時に「生きて帰ってこい」ではなく「死んで来い」なんですから。 そんな戦い方を繰り返しているから、有能な士官がどんどんいなくなり、人材不足で戦えなくなってしまったわけです。 ドイツにもエルベ特別攻撃隊と言う連合軍の爆撃機に航空機で体当たりする部隊がありました。でも日本の特攻と大きく違うのは、機がぶつかる前に脱出・パラシュートで生きて帰ることを模索したというところでしょう。
スターリングラードの戦いを描いた映画の中に、満足な武器弾薬を持たせずにとにかく突撃させるシーンがありました。 これだけでもどういうことだ!と言うところですが、信じられないのが、突撃する兵隊の後方から自分たちの兵隊に向かって機関銃で射撃するところ。 戻ってこないようにというためなのですが、これじゃ戦死者が増えるわけですよ。
今も続くロシアの恐ろしい戦術。戦いに勝利するかどうか以前に、大きすぎる犠牲ですでに勝利とは言えないと思います。
以下に新聞の読者欄に投書された一文を載せておきます。
文作でも公にし継続していけば立派な運動
小森さんが亡くなられたのは2023年でしたから93歳と言うことになりますか、十分ご長命と言ってもいいと思います。 亡くなられたということをしんぶんで目にした時、夏の暑い日に後には家族と参加した原爆反対 平和集会そして行進のことが思い出されました。
それで特別にひたしくなったというわけではないのですが、その後あまり日が立たないうちに滑落事故で亡くなったということを知ることになる娘さんと、レクリェーションの講習会で一緒させてもらったということも思い出しました。
さすがに最後の数年間は動静が耳目に触れることはありませんでしたが、その人生はぶれることなく通されたと感じています。
2024年11月4日月曜日
これだけの星々が見えるありがたさ
2024年10月19日土曜日
大嘗祭の問題点を考える-憲法学と信仰者の視点から
2024年10月14日月曜日
仮剝製 本剥製 様々な標本
2024年9月17日火曜日
カキ にまつわる小さな思い
日本経済新聞2002年12月28日の知球探検のページに、フランスで育てられていたカキが病気にやられ日本の種ガキを取り入れたという記事が載っていました。
まだフランスの通貨がフランだったころの1980年代前半にパリの小さなレストランで同行の仲間と、日本と違うけど生でも大丈夫かなぁと言いながら生ガキを食べたことがあります。この記事を読むとあの時口にしたカキはフランスの養殖ガキの種類のヒラガキだったのでしょうか。 その時は、今書いたような心配もあったからだったのか一人2個ずつお願いして食べました。 お店の人には、とても親切に丁寧に応対してもらいました。 食べ方(塩 レモン他)も幾種類もあったようでとても2個ではすべての味を楽しむわけにはいかなかったのですが、とてもおいしくて、口にする前の心配はどこへやら もっと食べたいという食後感を持った覚えがあります。
この記事で紹介しているお店が今どうかについては情報がありませんが、先日高架化も完了し駅舎内のモールもリニュウアルした新潟駅のすぐ前のビルにカキ料理のお店がオープンと言う記事を目にしました。 機会があれば行ってみたいものです。
2024年8月29日木曜日
五輪の旗
それにしても扱いが少ない印象はぬぐえません。 とにかく、世界新記録は出せても4年に一度のオリンピックで金メダルを出すことは難しいと言われるオリンピック。そこで、これまでのことを思って泣いてしまうのはだれしもの反応なのかもしれないけれど、泣き方ってものがあるのじゃないかと見てしまうこともあったけれど(毎回毎回のオリンピックで同じ競技の選手たちと言うのが、何か問題があるんだろうなぁと思ってしまう)。
たとえ負けても予選で敗退しても、オリンピックに出るには標準記録と言うものを超えなければだめなので、出ている選手たちはみな素晴らしい。 確かにメダルを取る選手たちの力はより一層抜きんでているけれど。
これから始まるパラリンピック 様々なドラマ 望ませてもらいます。
2024年8月14日水曜日
2024年8月11日日曜日
エジプトの義務教育
争いで生まれるのは 憎しみとさらなる争いだけ
2024年8月8日木曜日
誰かが どこかで
「受益者負担」 「自己責任」 が人々を苦しめ 発展を妨げている
2024年8月6日火曜日
2024年8月3日土曜日
参加選手 男女同数 が128年かけて実現した今回の大会
2024年8月2日金曜日
両手で祈る
「私達はこの世では片手でしか祈ることができません。*1(もう)片手で*2(は)自分が堕落しないようにつかまっていなければならないからです。天国に行けば両手で祈ることができます。」 聖コルベ神父
*1あった方がわかりやすいかと
*2ないほうがわかりやすいかと
パウロは神の使命として大きな働きを成した人ですが、間違いもおかし、心身ともに問題なく万能な人ではなかったとのことです。 できることならこの棘を取り去ってくださいと言っているほどですからさぞかし辛かったのだと思います。 でも同時に、パウロにはこの”棘゛があったればこそ大きな働きを成すことができたというのは間違いないようです。
さて、ここに続けて書けるような事ではないのですが。私 実は左のお尻と左の膝下から足首にかけて、そして腰背部の傷みが続き難渋しています。 整形を受診したところ、軟骨がすり減っている 腰椎が変形してしまっている状態でした。 昨年の6月のある日の仕事中のことがきっかけで整形外科を受診するに至ったのですが、今の痛みと制限はこの骨の状態を顧みるにそれ以前からであってこの日のことは引き金だったんだと思っています。相手があることなので一応書いておきます。
それにしても痛い。仕事はできるけれど、正直辛いことが多く夕方以降は傷みが増します。 ただし、それがいけないのでしょうが痛いけれど動ける、昔より力が無くなったなぁと痛感するけれど何とかできている。走れなくなりました、ほんとに走れなくなるものなんですね心底びっくりしました。 意識すると無意識にと無理をしているのでしょうが、整形を受診しているとき立っていたら「立ってられるんですね」と言われ、普通この骨の状態では立っていられないレベルなんだなぁとへんに感心してしまうような事も有りました。 整形でお薬をもらい腰椎のブロック注射もしてもらいましたけれど痛みは一向に改善しません。 安静にするまで行かなくとも、仕事をいくらかでも加減出来たら多少なりとも楽になるのかもしれません。でもこの歳になって今までで一番身体的に辛い仕事を、初めての職場で初めての人たちの下で新たに一から覚えなくてはならない条件で働いていますから、いろいろな意味でそういうわけにもいかないのです。 出かけるのも運転も好きな私ですが、昔に比べればずいぶん短い通勤時間の間でも、足をさすりながら動かしながらの状態は残念な思いです。
可愛いMは上の子とはずいぶんと離れてこの世に誕生したので一からすべて必要で、以前のように収入のない今はほんとに大変です。今の収入は、同じ月にもう一回給料日が有ればと思うくらいの物ではありますが、保育園に通うための就労証明をもらうため、可愛いMのため、”痛みを感じながら゛励んでいます。 給与は、頂けるのはありがたいけれど今の時代・社会 生活では不十分。私は年金と併用しているのでまだ”やりくりに苦労しています゛で済んでいるのだと思いますが、これから結婚とか子どもなんて言う人は、とてもとても踏み切れないのではと思います。躊躇すると思います。 日本は人口減少の時代に入りました。もう何十年、”少子化問題対策゛というものが取られてきました。しかし、自己責任とか受益者負担という言葉がはびこる日本の現状では、国レベルでの対策が求められているのに相も変わらずの個人任せのまま。個々の家庭の負担は増える一方で減る状態にはなっていません。
傷みの話に戻ります。 まだ3歳にもならないMのためにも”目標100歳゛と公言しています。自分で「もういい」と思ってしまえば終わりですから。 「もっと肉を食べましょう!(栄養を取りましょう)」と言い出されて久しくなりましたが、年配・高齢者 特に一人暮らしそのまた特に男性一人暮らしの貧弱な食生活は寿命を縮めます。 私は若いJと可愛いM、食欲旺盛な人・成長するために栄養をたくさん取らなければならない人と一緒なので、同年代の 特にいうならば一人暮らしの男の人よりも食事の回数 量、結果として栄養を取っていると思います。 目標も必要もあります。新しいこと(仕事)を覚えなければなりません。人と会います、話します。ストレスにもなり得ますが、それが刺激にもなっています。目標達成できると考えています。 でも今こうしていてもうずく傷みが辛い。どうにも居た堪れません。 この傷み、無理と承知しながら、何とか取り去ってもらえないかと祈る思いです。それなのに私の生活では、祈りが足りていない と自覚しています。大切さをわかっているのに。
で気づいたんです。 そもそも大きな声を出さなければ一番いいのでしょうけど、かわいいMに接するときとっさに大きな声が出てしまって泣かせてしまうとき、一番身近にいてくれて私のことを理解してくれる人に接するとき、この傷みがあるからいい意味で抑制できている、自分の行いを振り返ることができているんだ と。 「そんなのつながりがわからない」といわれてしまえばそれまでですが私にはそう思えて感謝しているのです。
歳を取るのも悪くない 何か不自由(痛み 動きの制限)を抱えるのも意味が有る、と感じられるようにしてもらっていると取ることができるようになれたと感謝しています。
砂の上を神様と私二人(二つ)の足跡が続いていた。 苦しみ悩みを抱えていた時振り返ると足跡は一つになっていた。 この苦しい時に神様は一緒にいてくれなかったのかと祈ったら、「足跡が一つなのは私があなたをおぶって歩いていたからだよ」と声がした。
自分の振る舞いを振り返ると到底天国に入ることができないとわかっています。 それでも、すべてのことを司る全能の神様なら、その御心に少しでもかなう事を行うならばこんな私でさえも救い上げてくれるのではなかろうかと一縷の望みを抱いているのです。 ですから、「聖母の騎士」2024年6月号のサビオ川渕浩修道士の文中で”両手で祈る゛を目にした時「私は片手でも祈っていない、それは、両手で捕まっていなければならない私だからだ」と立ち止まってしまいました。気づきが有りました。 全能の神様がその御心ならばすべてを変えて救ってくださることを確信しています。 今私に多少の不便と痛みを与えてくれているのは、自分を振り返り気づかせてくださるためだ、と納得しています。
ほんとに、神様の成さる事、神様の考えることは人知を超えて有り難いと感謝しています。
2024年6月15日土曜日
出発の所から写真を撮り始める
写真は ピントがアウトかどうかよりも 何時何処でシャッターを切ったかが大切だと思っています。
私の写真は、隅々までピントの合った観光写真かなと思っていますけれど。 何を撮りたいか 主題がちゃんと写っているか。 でもそれが中心でなくとも(端)ピントが合っていなくとも、写真の意味がついてくる、キャプションが書ける。評価される写真になるのだと思います。
ロバート・キャパの作品。彼の生涯。「ちょっとピンボケ」を記しておきます。
私の写真の撮り方は、物でも話でも集まりでも、その場の手前から全体も収めるように心がけ柄います。その部分を知るにも、話のように、いつどこから始まっているのか周りは全体はどうだということも分るように心がけています。 それを意識させるようになったのは宮本常一さんの「佐渡」を扱った本を見聞してからです。 佐渡の本なのに、佐渡の地に向かうところから話 写真が始まっている。 それからですね。
吉田ルイ子さんがなくなられました
神様じゃぁありませんから、どうしようもないこととはいえ、時代と言うことでしょうか。
写真一枚一枚がどうということももちろん触れるべきな事なのでしょうけれど、写真を撮り始めたころ師匠から50ミリのマクロレンズのみでの撮影という課題を与えられたというエピソードが印象に強く残っています。
望遠ではなく標準レンズそれもマクロのみで撮影と言うのは、その場に それだけ近くに立たなければだめと言う事。 これは写真(機器)の扱いに長けるということではなく、人としての立場 考え方を厳しく問われ、何時何処でシャッターを切るかが左右されるということだと思います。 その後の吉田さんの生き方はそれで決まっていったのではないかと思っています。
ご冥福をお祈りします。
鳥またぎ米 糧飯 笹団子
今ではみんな信じられないことだと思います。
でも私の記憶にあるくらいの昔、以前には量はとれたかもしれないけれど食味的には難ありだったし、農家の人たちはすごく大変な思いをしていたんです。
2024年6月1日土曜日
道の駅 かでな これじゃぁ嫌がるわけです
2012年のことですからもう12年も経つんですね。 それが最近どういういきさつなのか、大切なことだからなのか空きスペースを埋めるためだったのか「道の駅かでな」を紹介する記事を目にして。2003年当時の町長がアメリカ軍などの反対を押し切って建設されたものだということを知りました。 当時も、よくこんなところにこんなに見えるのを作ったなと思ったものですが、確かにこんなに見られたらいやでしょうね。
2024年5月29日水曜日
つつじ と さつき の見分け方
少し前からあちこちで目を楽しませてくれる つつじ と さつき。 両者の見分け、これが意外と難しいのです。 車で走っていると、きれいなんだけどどれがどれやら説明できません。
5月に咲くから さつき、その前に咲くのが つつじ … だとかなんだとか諸説いろいろあって。
でもこの説明がこれまでいろいろ見聞きしてきた中で一番しっくりきました。 車で走りながらでは、一斉かパラパラかくらいでタイミングが悪いと判別しきれないと思いますが、歩きながら少し時間が取れるようなら両者を見分けられそうです。
大勢の人がかかわってここまで来たと同時にまだまだの現状
働く広場 障害者雇用 2024.1 No 555 の掲載記事より。この記事著者作成の日本におけるパラスポーツ年表を転載させてもらいます。
もう少し前のことになりますが。以前勤めていた職場先近くでたまたま見つけた、こちらにおけるパラスポーツの連絡先。いろいろに取り上げられメジャーになってきたかと思っていたパラスポーツの事務所がこんな市中心部からは離れた交通も不便な場所で、奥に長く周りの建物とのスペースもなく日当たりも悪い築年数も相当に古い建物、もちろん常駐している人はいない所でびっくりの思いをした経験があります。
No Charity ,Bat a Chance !
No Charity ,Bat a Chance ! 保護より機会を!
ここでは日本パラスポーツの父として紹介されている中村裕博士。 1960年にリハビリテーション研修で訪れたイギリスでの出会いが発想の転換を促し、その後の日本を大きく変えた人になります。 障碍者の自立を支援し社会復帰を目的とした 太陽の家 を設立した人でした。
社会が大きく変わる時期だったのかさまざまに取り上げられ、太陽の家 のことはそのころの私でも知っていました。
2024年5月25日土曜日
平和行進の起源
しんぶん赤旗 2024.5.15
核兵器廃絶 平和運動は年中休むことはありませんが、2月末からのビキニデーの集会から始まり、今年も8月の原水爆禁止世界大会に向けての平和行進が各地で始まりました。 自身これまで何度も参加して来た平和行進。幼い子どもも含めて家族して参加したこともありました。まだ小さい子どもにどれだけのものが残っているか確かめようがありませんが、日々の生活の中で何かの折に触れて思い出してくれたらと思っています。
さて、その平和行進が最初は一人から始まったとは知りませんでした。 平和を望む人 何かしたいと思っていた人がたくさんいたからこそ広がり今まで継続してきているのは確かなわけですが、コロンブスの卵のように最初に思いつき行動した西本さんがすごかったということなのですね。