2011年4月30日土曜日

情報は 早く 隠さず 正確に!  繰り返された偽装隠しのパターンが新たな悲劇を生んでいる

  首都圏、東京などにある被災地のアンテナショップはどこも、(風評被害で苦しんでいる)産物を購入することが支援になるのならと善意の人たちが多く詰めかけています。そのニュースを見聞きするたびに温かい気持ちになります。


 同時に今回の大震災の報道でとても悲しい思いをするのが、原発に関しての報道。
 福島ナンバー、いわきナンバーの車が給油を断られたとか、スーパーの駐車場に止めておいた車に福島に帰れと落書きをされた。避難先 転校先でいじめにあったということを聞くたびに無残な気持ちになります。

 同じ人が違うことをしているわけではありませんが、どちらも(同じ)人間のとっている行為なんですからね。 このような行為は決して許されるものではなく、その報いは受けなければならないと思います。でもそうさせてしまった、この場合は正しい情報を流さない対策をとっていない人たちも報いを受けるべきです。

どうしてこういう違いが出るのか?

 私見ですが、正しい情報がないことから生まれる恐怖、生み出された疑心暗鬼がこのような悲しい出来事を生んでいるんだと思うのです。よくわからないものに対する得も言えない不安がこのような行動をとらせているのだと思います。
 これらの違いを考えてみました。よくわからないものに対する不安があるときは、距離をよりあける、ということかなと思いました。アンテナショップや、被災地へのボランティアは、自分のほうからそこへ行くから好い、自分の思う距離も保てる。でも自分のところに来られるのは好ましくない、自分で距離が保てない。ということかな、違いかなと思います。

 もちろん批判されるべき行為をしてしまっているわけだけど、これは生まなくてもいい悲劇を生んでいますね。

 

 ODA(政府開発援助)の予算を減らすことには反対です。
確かに大変な時です。復興予算をどう確保しようかで苦労しているところです。
でも今この予算を削ることは、相手の国・団体の未来に大きな影響を与えることになります。
 苦しくても出すものは出す!
 これは節約倹約無駄を省くとは別の生きたお金の使い方だと思います。


 復興予算確保のために、年金に関する予算を政府方針を変更して支出しないことにしました。
これも日本の将来、未来を大きく左右する行為だと思います。大震災の被害 影響を今にとどめ終わらせるのではなく何年にもわたって引き延ばしてしまうことになります。
 まだ執行する前だから、現状と変わらないからいいだろうと安易に考えたのではないかと危惧します。

2011年4月25日月曜日

生まれた意味 死の意味  有りましたよ。

昨日は痛飲してしまいました。  自分は なにをなしたのだろうと。

 ところで。

 今回の東日本大震災で亡くなられた多くの人の中には、すでに大人となり家庭を築き子どもという次につながる存在を得た人もいれば、まだ小さく幼くさえあって社会的にはまだなにもなしていない小中学生、そしてもっと小さい子たちも大勢命を落としています。

 その人たちのことを思いました。



 今、日本はもちろん世界のみんなが、大震災にあった地域を思い被災した人たちのことを我が事のように感じ思い優しくなっています。

 今みんなの気持ちが一つになっています。今みんなの中に優しさがあふれています。今、自分も何かしたいと思っています。今、自分にもできることはないかと思っています。

 亡くなった方たちは、みんなをこう変えました。

 本来人間は優しいんだと言うことを思い出させてくれました、気づかせてくれました。

 本来は優しいんだ いい人なんだを教えてくれたということに、今回亡くなられた方達の生まれてきた意味があったと感じています。

 事件事故で悲しむ人はいるし、世界に争いがなくなったわけではなく紛争で直接命を落とす人、発展が阻害されることによっていきられなかった人がいるのは続いていますが。 人間そんなに捨てたものじゃあないよ、本当は優しいんだよ と気づかせてくれました。希望を見せてくれたのです。

 意味 有りましたよ

2011年4月24日日曜日

今日この桜の下で私は散りました。       次はうまくやるぞ!

  悔しい思いでいっぱいです。
今日JUNJUNフレンズで出演した見附・六本木神社春祭りのバラフォンの演奏。

 悔んだり、ましてや くよくよしても今更どうしようもないのは重々わかっているし、いつもならすぐ次のことを考えるのに(もちろん次へつながる反省はしますよ)。
 今回も、次の機会にどうしようか!に早く頭も気持ちも切り替えたほうがいいのは分かっているんだけど。

 
 思いっきり演奏する。強い音、思い切りのいい演奏ができませんでした。周りを聞いて、とらわれてしまって合わせようとしてしまいましたね。

 今日は最初から何か気が集中しませんでした。 鍵盤下のヒョウタンの口の向き、位置が妙に気になって仕方がありませんでした。

 練習不足なのは間違いないですね。メンバーとの合わせも足りませんでした。
自宅で練習しているときはいろんなアイデアもあり、音のいい響きでしたね。
 みんなとの合わせでも2回目の時はうまくいきました。(初めて合わせたときはリズムも太鼓の音量にも全然合わなくて立ち尽くしてしまいました)練習をしていた部屋の響きもいい感じでしたしね。  

 そう、ここはポイントかもしれません。 練習が足りないのはもちろんとして。
今日は野外で、神社の周りは田んぼ。風もすごく強くて音が飛んで行きました。 反響もありませんでした。自分の音が聞こえませんでしたね。
 歌だってアフリカの歌のイメージの声の響きで歌おうと思っていたのに、これはほかのメンバーの声を聴いてしまって合わせてしまいました。

 こんな時もあるさ!  で次頑張りますか。 しばらくジェンベを叩かないでバラフォンに集中しようかな。

2011年4月23日土曜日

もっと甘えてもいいのに   私も甘えるの下手だけど


1から始まる数列の真新しいヘルメット
  前方の赤信号で速度を落とした車の脇を、まだなじまない学制服を着て、もちろん学年やクラスを意味する後頭部の番号は“1”から始まるピカピカつるつるの真新しい自転車ようヘルメットをかぶった新中学生が通り過ぎていきます。

 毎年この春先、特に4月前半から連休前までに目にする景色かなぁ。季節感があるなぁ。

 Aさんの時もこんな景色を目にしたなぁ。

 Aさんからみると学年で二つ上になるMさんは雨模様だとすぐ「車で送って」と言う子でした。
私も仕事に行かなくちゃなりませんでしたから大変でしたね。
 それに対してAさんは雨でも雨具を着て自転車で行く人でしたね。「へぇー雨でも自転車で行くんだ」、そう気づいてみてみれば雨具をきて自転車に乗っている人も結構いました。

 この雨の時の通学のことは、これはこれで一つのエピソードですが。
その前のことその後のことなども考えあわせると、Aさんはもっと甘えてもいいのにと思います。

2011年4月19日火曜日

“平和な状態”


塩釜のお墓
私の考える“平和な状態”

・物音をたててもとがめられることなく、
 子供の歓声と赤ちゃんの元気のいい泣き
 声が聞こえる。

・なくなったその人一人だけのためだけに、
 多くの人が悲しみ“式”を執り行う。






 今回の東日本大震災の及ぼした被害のあまりの大きさと広域への影響は火葬場といえど例外ではなく、ついに“土葬”が始まりました。
   (もちろん”土葬”自体が悪いわけではありませんよ。)

 自然葬もひと頃より自然に耳に入ってくるようになったし、その他世界には 風葬 鳥葬 水葬 死後も住居で共に と、さまざまの弔いの仕方があるし、きっと私の想像もつかない 弔いの仕方もあることと思う。
 文化が様々なように、弔いの仕方が様々であっても共通するのは、弔われるのは一人、弔うのは多くの人 でしょうか。

 この一人というのはポイントかな。
戦争 紛争 事件事故 ででもなければ、一度に複数がなくなるというのはまずないですからね。

 正直なところ個人的には"儀式”はいろいろ大変に思うこともありますが、弔いの儀式 お葬式 は感覚が麻痺していないふつうの時、平和な時、特定のその人のためだけに行われるんですからね。
 一度に大勢の人の、埋葬だけを儀式なく行うというのはやはり平常ではありませんよね。

2011年4月17日日曜日

1‐14‐17 行くこと自体がおしゃれJAWA

                       
 みるからに立派なメニュー帳。
それだけのものが出せる店、ということでよね。

 私はNガイドお勧めの、ケニア第2の都市 港町モンバサ地方のカレーのセットを頼みました。
 味。
もちろん美味しいんだけど“よそと全く違います。これはここでしか食べられません!”と言うほど際だっての違い、個性はありませんでした。
辛さもあまり強くありませんでした。

 ただ、確かに盛りつけなんかもお洒落な感じ。
このお店は、なにを食べたかというより“JAVAに行った”ということが大事なのかな?!という印象。

1-14-16 JAWA到着

 ナイロビ、ショッピングセンターJAVA到着。


 お昼をここでと言うことで来たんですが、ここは食事以外にも各種店舗や映画館までも併設された大型のショッピングセンターでした。

 広い駐車場にはちゃんと洗車してある車。泥で汚れた車は私たちが乗ってきた車だけ。車種も高級車がけっこう。

 観光客以外でお店にいるケニアの人たちも服装がピシッと決まっていて、ウチミとは客層がぜんぜん別。 ウチミよりも格段にハイソな感じ。

 今ナイロビでは、この店に来るのが流行の最先端なんだそうです。
確かに洗練されていてお洒落。

1‐14‐15 ムガネさんご苦労様

例の“ムズーリ”の情報交換のおかげもあって順調に車は進み、(途中でお昼休憩をとらないで)お昼の時間帯は少しすぎてしまうけど一気にナイロビまで行ってしまうことにしました。


ムガネさんご苦労様。

営業車であることを示してもいる80㎞表示

1‐14‐14 ナロク ガソリンスタンドで目にしたオルギンドンゴイ

 ナロク到着。先日と同じガソリンスタンドに立ち寄る。

 行きも帰りも、ここが立ち寄りポイントになっているようですね。

 給油している間にオルギンドンゴイがあるかどうか聞いてもらうことを頼みました。

 そしたらお店の人が現物を二本手にしてここまでやってきたんですよ。売る気満々ですね。

 見せてもらった品物は、軽くて柔らかい木製の黒く艶消しに塗られた握りのところに彫刻がしてありました。毛は牛だそうです。臭いも手ざわりも油っぽい。ウエーブも効いている。
(エナイボルク村のママさんから買った、直毛でサラサラしたヌーの毛のものとはぜんぜん違う。)
 値段は700シリングとのこと。
迷っていると「幾らならいい」と聞いてくる。
 
 2本で1000シリングならいいかな、とも思ったけれど、キベラにお金を落とした方がいいかな、と思いなおしてここでは買わないことにしました。



ママさん作


2011年4月14日木曜日

1‐14‐13 路肩で炭を売る人

 町(ナロク)が近づいてきたようだ。


 気づけば、行き交う車も多くなり歩いている人も見かけるようになってきた。

 公には禁止されている「木々の伐採」を無断でおこなって作った炭を路肩で売っている人がいる。

 こんなにおおっぴらに売っていて大丈夫なのかなとも思うが、炭でパンパンにふくれた大袋の口元を葉っぱのついた小枝で被い隠している。

 気持ちですよね。

1‐14‐12 バンプ

  “売店”程度の規模だけどお店のある集落を時々通過する。

 感心するのは、集落の手前になると必ず標識とともにバンプが設置されているということ。
いくら飛ばしていてもこのバンプがあると、スピードを落とさざるを得ませんものね。

 スピードを落とさずに走り抜けようものなら、車の中の人も荷物も一斉に飛び上がって大変なことになりますものね。

1-14-11 “舗装路” やっぱりこの方が楽だわ!

 車は“突然”舗装された幅の広い道の前にでた。


 右方向へ向かって合流。

 振動はもちろん、音も急に静かになる。
違うもんだなぁ。

 そんな意識はなかったんだけどホッとした私に気づく。

やっぱりこっちの方が楽だわ!

2011年4月10日日曜日

1‐14‐10 規制いっぱいでどこまで

 営業車の最高速度は80㎞までと規制されています。


 おそらくこのサファリカーはその規制いっぱいの速度でずうっと走っていると思います。

 この勢いでどこまで走るのでしょうか。

 どこかで北東に向きを変えなければナロクの方には行けないんですが。この道が向きを変えるのか、別の道と合流するのか。

1‐14‐9 むやみに保護区に立ち入らないように遠回りする道路網

 三日前エナイボルク村に来たときは、悪天候による道路事情の関係で、ナロクの町からタンザニアに向かってマサイマラ国立保護区の中をまっすぐ南下してマラ川へ、そこのゲートで北西の方向に進路を変えて到着しました。
 だから今日の、また北西へ向かう道は感覚的にはやっぱり反対方向へ向かって遠ざかっているような感じがします。

 地図では確かにこの道で「ナロク・ナイロビ方面」に行けると書いてありますけど。感覚的にはね!



 本当の所は、保護区を西周りで迂回してトランスマラ県に行き来するのがむやみに保護区に立ち入らないように考えられたこの交通網ということになります。
 
 効率ということを考えれば「こんなに遠回りする道なんて」ということになると思います。

 いろんな議論・提案があったことと思います。
でも、人類・地球を守るという崇高な観点でこの選択をしたことを私は高く評価します。

 蛇足ですが。
 今回の道路事情による保護区通過を“塞翁が馬”として感謝します。こんなことでもなかったらマラ川へ向かっての保護区の道や、なによりマラ川にかかる橋を渡ることもゲートを通ることはなかったんですから。

1‐14‐8 もうマサイの人たちの土地ではない



 道の両脇の景色は、手入れの行き届いたものに変わってきました。


 私なんかにはこちらの景色の方がなじみのある景色ですけどね。

 でも、もう“マサイ”の人たちの所ではないんですね。

1‐14‐7 柵の出現で変わっていくだろう暮らし

 車は、柵で囲まれた土地で農作物が作られている所に来ました。


 ずいぶん走ったのでマサイの土地を抜けたのかと思ってNガイドに聞いてみたら「まだここはマサイの土地・地域なんだけど、農耕する人たちに貸している。」のだそうです。 

 土地利用、効率ということではこの方向なんでしょうけど、これでは放牧はできなくなっていくだろうなぁと思いました。

1-14-6  土手を歩く人たち

  空が抜けてきました。道路も乾いています。
暑い!というほどではありませんが、日差しがはっきりしてきました。

 いま車が走っている道路の両脇が切り立ち土手のようになっているのでしょうか。
この道路は、表土を掘り下げて通したのでしょうか。
そのとき両脇に積み上げられた土がこの土手になっているのでしょうか。

 


 この土手は、上が道になっているのか、カラフルな布をまとったマサイの女性。同じだなぁと思いましたが、日本でも普通にいる地味な色合いで少しよれた服装のおじさんたちが歩いています。

1‐14‐5 寒いんだろうなぁ。 バイクタクシー(?)

 左方向遠く離れた所を大型トラックが走っている。

進むにつれ大きくなりディテールがはっきり見えてくるので、この先のどこかで道が交差しているのかもしれない。

  右の開けている所には放牧中のマサイの人たちがいる。
その眺望をいきなり遮ってバイクがすれ違う。
 
 バイクはバイクタクシーなのだろうか、後ろに人を乗せていた。
 この天候の中をバイクで飛ばしているんだから寒いんだろうなぁ。二人は厚い防寒具を羽織っている。

1-14-4 荒涼とした景色の中でハイエナと目が合う

 橋を渡ると、背中がシートに押し付けられるほど、耳が痛くなるかと思うほどの高さを車は一気に登り続けます。痛くならないよう念のため何度かつばを飲み込んでおきます。

 登りきった高原様の所は、雨模様というのも相まって肌寒い印象。車はそんな荒涼とした雰囲気の景色の中を進みます。

 そんな中。
道路から少し入ったところにハイエナを見つけました。

 エナイボルク村の夕闇の中で「あれがハイエナの声ですね」と教えてもらって、遠吠えは一度耳にしてはいたけれど姿を見るのはこれが初めて。

 “ハイエナ”にもいくつかのグループがあるのを今回初めて知りました。いま目の前にいるのはセグロハイエナだと思います。


 車は結構な大きさの石がごろごろしている道を進みます。
 ランドローバー・ディフェンダーに乗れなかったのは重ね重ねも残念。
だけど、たとへ日本仕様と違うにしろこれだけ酷使してもノントラブルのハイエースの実力は対したものだと改めて感じます。

2011年4月3日日曜日

1-14-3 先週は通れなかった道

 後ろ髪引かれる思いでオロロロゲートを出発。


 例のドライバー同士の情報交換で、当初の計画通りの道が通れるということでそちらでナロクに向かうこととする。
 この道、ナロクから南南東へ向かった印象の、マラ川ゲートを通過した道が頭にあるので、ウガンダ方向つまりナロクと逆に向かって走り出したような変な感覚におそわれる。



 出発してまもなく、車は急な角度で一段低くなっている川岸へさしかかり、豪雨の時は沈むのを前提にかけられたんだろうなぁと見える橋へ。

「先週はこの川も増水していて渡れなかったんですよ」との由。

重機でなければとても動かせないような大きな石がごろごろしている河原。
 
 
 
  川水は今朝も濁流、そのときの様子は容易に想像できる。
 

1-14-2  レンジャー  ンギョネさんサイモンさんフランシスさん




 オロロロゲートでンギョネさんサイモンさんとお別れ。フランシスさんもいれて3人とは、ほんの数日のおつきあいだったけど、これからもずっとかかわりあいが持てたらと感じるほど名残惜しい。


 

東日本大震災 普通!の生活へ

 「早く平常の診療体制に戻すべきですね。」
阪神淡路大震災を体験し、今日ここに支援にきている医師の「阪神淡路大震災の時の対応そして被災者の健康面のまとめ 特徴 今後出てくるだろう健康面の諸問題 対応の仕方」などの報告がありました。
そのときの体験に基づく提案の一言です。
 そして坂総合病院では震災から3週間を迎える前日 24日から震災前の診療体制に戻す、戻そうということで準備が始まりました。


初めて塩釜に来たときちょうど前を通った、地震後初めて店を開けた床屋さん。
お店の中はもちろん、外にまで順番を待つ人がいました。
 地震が起きてから2週間、実際髪の毛も伸びたでしょうが、床屋さんで髪の毛を切るという行為はさっぱりしたい!以上に、大震災前の生活を取り戻す、気持ちを切り替え新たな一歩を踏み出すきっかけになったのではないでしょうか。







翌日、避難所になっている塩釜第一小学校に向かう途中遭遇した開店を待つ行列。
近所で評判のおいしいパン屋さんだったのでしょう、開店を大勢の人が並んで待っていました。
 訪問を終えて戻るときはもう行列は消え、お店のシャッターも再びおろされていました。きっとあっという間に売れちゃったんでしょうね。顔なじみ同士、一時和やかな場がもてたことでしょう。

 被害の大きかった今回の大震災ですから、平常に戻るというのは並大抵のことではありません。
 でも地域も個人も早く地震前のふつうの生活を行えるように戻すというのは、特に気持ち精神面においてとても大事なことだと感じました。

 特別なことがなくてもいい、
    ふつうの生活、平凡の非凡、を感謝して送れる日々が早く戻りますように。

東日本大震災 避難所のタイプ





今回訪問した避難所は、体育館というワンフロアーに大勢の人が集まっている形と、一つの教室に2から3家族くらい、人数でいうと10人弱から15・6人くらいの規模というタイプの違うものでした。

 どちらが絶対と言うことはいえませんね。どちらにも良いところ悪いところがあるとおもいました。

 ワンフロアーの方が一目で全体の把握はしやすいかもしれません。突然具合の悪くなった人がいてもすぐわかるでしょうね。でも精神的な疲労プライバシーの保証ということでは対策が必要。(そういうことに関して、今は段ボールを使った間仕切りが考案されています。)
 ここではパイプ椅子を回りに並べそこに毛布を掛けて囲っていましたね。

 教室に分散しているところは、全体の把握ということでは対策が必要ですね。部屋の中がどうなっているかは一目ではわかりませんし、ドアを開けなければ中がわからないわけだし。プライバシーを守ると言うことではこちらの方が良いけど、他の人がいきなりドアを開けるというわけにはいきませんものね。

 人と人のつながり、地域のコミュニティを保つのもこちらの方がいいかもしれませんね。そうでない人への配慮が必要でしょうけどね。

東日本大震災 一人いるだけで

もう一カ所訪問しました。

 ここは体育館が被災して使えず、3階建ての学校建物の教室に分散している避難所でした。
 自治組織とまではいっていないにしても、断水によってトイレ事情が大変悪いなかで、当番を決めて一日2回のトイレ掃除をしていました。



 運営は、ボランティアの人たちだけでなく、市の職員そして訪問したときは保健師が一人いました。

 避難所に行ったときはまずそこの窓口・責任者のところに行き、挨拶・情報交換・必要な物品を聞くようにしていましたが、そのやりとりがとてもスムーズでした。
 こちらが聞きたいこと、避難している人、避難所側からの状態把握、要望のとりまとめがしっかりしていました。

 特に保健師は、各教室ごとの避難者の健康体調面をよく把握していて、本人の希望もとっていましたが、保健師として医師に診察してもらいたい人、その内容の一覧をまとめていてくれてとてもスムーズに回ることができました。

 塩釜市には保健師が7人いるそうです。
近隣も含めて80カ所という避難所の所に7名ですから貴重な保健師と言うことになります。

 でも保健師が一人いるだけで体調管理がぜんぜん違いましたね。専門家の果たす役割のすばらしさということですね。

2011年4月2日土曜日

東日本大震災 これからの生活に心痛めている人になんてことを !!

最初に訪問した避難所はボランティアの人たちが一生懸命支援活動に携わっていました。

 情報交換をした責任者の人は、その人自身も被災者だったようです。 最後の方で、ご自身も右下肢の外傷の様子を見てもらっていました。

 そのときのやりとりを少し聞かせてもらいましたけど、私は憤りを感じましたね。

 「まだみんなには話していないけど、24日までにここを出ていかなければならない これからどうやって生活していこうかを心配している人たちに話し出せないでいる。」

「避難所の統配合を進め、24日までにこの避難所を閉鎖 すると言われているんです。」という悩みを打ち明けていました

 状況が変わっていくのだから、それに応じて取り組みが変わる。その一つとして、復旧・復興の進み具合によって避難所の統廃合も出てくることでしょう。でもいきなり、それも放り出すように、先のことを相談も示しもせず閉鎖!だけを通達するってのは、今しても良いことでしょうか。

 この避難所は学校の体育館を転用している所だから、3月・小学校の卒業式の時期。担当からすれば滞りなく式を行うように手を尽くすのはある意味正しいこと。

 でも今目の前で起きていることが見えているのか、見ているのか、わかっているのか、そこが問題だと感じます。

 これからどうやって生活していこう、次がまだ決まっていないのを心配している被災者の人たちが現にいるんですから。

 それを言い出せずに悩んでいる人がいるんですから。